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その人に準備ができたときに師が現れる 00001>メインページへ 20050904 00001 その人に準備ができたときに師が現れる
啐啄(そったく)同時(※あるいは啐啄の機)という言葉があります。「啐」は、ヒナ鳥が卵の中で成長し、今まさに孵化しようという時、幼いくちばしで内側から卵の殻をたたくこと。「啄」は、その音を聞き、親鳥が外からくちばしで卵の殻にひびを入れること。これが同時に行われたとき、ヒナ鳥は自力で殻を割って生まれ出ることができます。
もし親鳥が、自分勝手な判断で、「もう大丈夫だろう」ということで、内側からの合図がないのに、殻を割ってしまえば、かわいそうなヒナ鳥は死んでしまうでしょう。また、もし、ヒナ鳥が健気にコツコツ内側から叩いている時に、親鳥がその場を離れて遊び呆けていたとしたら、かわいそうなヒナ鳥は卵の殻を突き破ることができずに死んでしまうことでしょう。
これは、師と弟子、人間と神様の関係、また自力と他力の双方が大切であることを大変うまく説明していると思います。また物事には機運というものがあって、その時を見逃してはいけないという教訓にもなります。
ヨーガや仙道に、「その人に準備ができたときに師が現れる」という言葉がありますが、これも言ってみれば啐啄同時ですね。卵の殻の中のヒナ鳥は何も知らないけれど、親鳥はいつもどんな時も暖かく卵を見守っている。早く無事に生まれて欲しいと願っている。でも、機が熟すまでは手助けすることができない。早過ぎても遅過ぎてもいけない。啐啄同時でなければ、せっかくの手助けも有難迷惑となってしまいます。
たとえば、同じ一冊の書物でも、10代の頃に読んだ感想と50代になってから読んだ感想とでは、まったく異なってくる場合がある。10代の頃にはどうしても理解できなかった本が、50歳になって読み返したときには、素晴らしい人生の書としてその後の人生の羅針盤となることもあるだろう。
書物に書かれていること自体は何も変わっていない。変わったのは読んだ人の心境だ。書物は常に、その人を導こうとして、目の前にあった。しかしその書物がどんなに素晴らしいものであったとしても、それに気づくだけの力が養われていないとき、つまり機が熟していない人々には、どうしてもその書物の持つ光に気づくことができないものです。
弟子が、今まさに悟ろうとしている。しかし今一歩のところで悟ることができない。あと少しの何かが足りない。それが何かどうしてもわからない。師は、その瞬間を見極めて、その時に雷鳴の如く、弟子の悟りに必要な最も適切なアドバイスをする。この自力と他力が絶妙のタイミングで組み合わさったときに、弟子は悟りへの障害を打ち破っていくことができる。私たち神理を学び実践していくことを目指すものは、常にこの自力と他力の原理を意識しておくべきであると思う。何もせず、ただ座して、「神は愛だから、こんな私でも救ってくださる」などと100万回唱えたところで気休めに過ぎない。また、かたくなに他力を排除して、自分自身だけの力で悟りを求めたとしても、それも叶わぬ夢となることでしょう。 评论 (1)
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