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心行の三つの柱 00007>メインページへ 20050917 00007 心行の三つの柱
すべてのものは相互に影響しあっている
全く何ものにも影響を受けず、また依存しないで、ただそれだけで存在しているものが、はたしてこの世に存在しているものでしょうか。この世界を観察すると、どうやらすべてのものは、相互に関係し合って存在しているという結論に達すると思うのです。
よく「俺は誰の世話にもならず、自分自身の力だけで生きている」、このように断言するかたもおられますが、実際は、いろんなものにお世話になっています。もし地球がなかったら、その人は、宇宙空間を漂うことになり、一瞬のうちに死んでしまうことでしょう。この大宇宙体があるからこそ、万生万物が存在することができる。大地と太陽や水や空気が存在してくれるからこそ、私たちは生きていくことができるのであります。
ありがたいことです・・・・・・。想像してください。――無料で何の見返りも求めず、食べ物や住む家を他人に提供してくれるような奇特な人は、まず、いないでしょう。もし、いたとしたら慈悲深き人だと賞賛されることでしょう。であるならば、私たちに無料でこの調和された地球という大きな家を与えてくれている大宇宙の心は、愛と慈悲の塊であるといわざるを得ないのではないでしょうか。しかし、残念ながら、この慈悲深い大宇宙体に感謝し賞賛する人は、あまりいないというのが現状です。
さて、太陽系にしても、それぞれの星が、相互に影響し合って、依存し合っているからこそ規則正しい運行を続けることができ、太陽系としてまとまっていることができる。もし、地球が気まぐれで軌道を変えたりすると、太陽系は存在できなくなってしまうことでしょう。人体にしてもそうです。頭、心臓、肝臓、胃腸、手足、すべて相互関係にあります。どれ一つとして不必要なものはありません。
仏教では、万生万物が相互関係にあることから、「諸法無我」を説きます。私たちの生きている世界も、私たちの心にも、永遠に不変の我というような実体は存在しない、という考えです。つまり、すべては相互関係にあるのだから、孤立して単独で存在しているようなものは無いということです。お釈迦様の頃のインドでは、個々人には、「我」という永遠不変・永遠不滅の実体が存在している。そして梵我一如、すなわち宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)とアートマン(我)は、一体であると考えられていました。この考え方は、おそらく真理です。しかし、この真理を知ったところで、本当の悟りに至る人がいなかったということも事実なのであります。
お釈迦様は、当時主流であった「梵我一如」の思想と正反対の教えを説かれていたのですね。「我」などという実体は、本来「無い」という教えです。すべては因縁によって、仮に現れていて、存在しているかのように見えて、本来「無」である。すべての現象も心の動きも、幻であるということですね。永遠不変のものなど何一つ無い。スクリーンに映し出される映像のようなものであって、建物があって、人々が動いているように見えても、そこには何もないし、誰もいない。あるのは銀幕のみであります。この世界も、実は同じことなのだということであります。
スクリーン上に映し出されているものを、「実在」だと勘違いしてはならないという教えなのです。ところが、それを曲解して、「無神論」に堕していった仏教の一派もあったようです。「仏陀は、諸法(万生万物)は無我であるとお説きになられた。霊魂など無いのだ。神など存在しないのだ。これが仏教だ」という訳です。しかし、お釈迦様は、「自らを依り所とせよ」とも説かれています。一方で、我など無いと説き、一方で我を依り所とせよと説くのは、何故か?これは言葉だけを見ていても理解できない部分なのです。
大宇宙体の万生万物は、それぞれが別個に存在して、それぞれに実体があるように見えていても、それは錯覚なのですよね。実は、すべてが相互に影響しあっている一つの有機体のようなものなのです。
人体でたとえるならば、頭も手足も内臓諸器官も、別々に存在するものではないということですね。人体は、手や足や眼球といった別個のパーツの寄せ集めでなく、ひとつの有機体として存在しています。胃には胃の、心臓には心臓の、それぞれの意識があるそうですが、全体として見たとき、それらはあくまでも統一意識内の個性であって、手の平のようなものであります。つまり、指を見れば五本あるけれど、それひっくるめてひとつの手の平という。手の平は一つだけれども、指に注目すれば五つの個性があるように見えるということですね。
「自他一体の真理」とは、このことなのです。別々の意識が別々に存在しているのではなく、たった一つの統一意識が、さまざまな個性に枝分かれしているのですね。我々は、木を見るとき、根っこも幹も枝葉も、すべてひっくるめて一つの木として見ます。しかし、ミミズや小鳥は、根っこや枝葉が、一つのものを形成していることがわかりません。別々の存在だと思っていることでしょう。同様、私たちも、この宇宙体が、本来ひとつのものであることに気づいていないだけのことではないだろうか。
月と太陽は、別物に見えるけれども、実は、太陽も月も、大宇宙という大木を形成する根っこであり枝葉であるという風に考えられるのではないか。本当は、すべてがつながっているのではないか。すべてひっくるめて一つの有機体なのではないか。だから、「我」というような実体が、別々に存在しているのではなくて、本当はたった一つの「大我」に、様々な側面があるということではないだろうか・・・。これが、諸法は無我であるということの真意の一つではないかと思うのです。本当は、たった一つの大我があるだけということですね。で、そこから、自己中心的な考えというものが、結局は、自分自身を傷つける行為なのだということが理解されてくるのであります。また、人のために良かれと思ってすることは、結局は自分自身のためにやっているのと同じことであるということも理解できるのです。
これに対して原始仏教の「諸法無我」とは、「諸法非我」であるとしているようです。つまり、「万生万物、何一つとして自分自身のものではない」という考え方です。自分自身の体や心でさえ、自分自身のものではない。もし心や肉体が自分自身ならば、心の動きも、肉体の老・病・死なども、意のままであるはずです。しかし実際は、心を統御することは至難の業であり、肉体は意に反し、老化し、病気になり、やがて死滅していきます。自分のものでないものを、自分のものにしようとする執着が、苦しみを作り出して行くのです。苦しみの原因を滅するためには、「諸法は、我のものに非ず」という真理を体得することだということですね。
決して無霊魂論ではないのですよね。無我という言葉にとらわれすぎると、確かに仏教は無神論・無霊魂論になっていくのかもしれません。無我だから、私たちの肉体が消滅したら、この心も個性も消滅すると思ってしまう。しかしそうではない。死ぬ時に、あの世に持って帰れるのは「心」だけなんだよ、ということです。この世では自分のものと思っていた家も財産も肩書きも、あの世に帰るときには、何一つ持って帰ることはできないのだ。執着することなかれ。これが原始仏教の「諸法無我」論ではないかと思います。
あるいは、「神の定めた諸々の法則には、我執が無い」という考え方もあります。これは、ちょっと、こじつけかなって気もしますが。高橋信次先生の「諸法無我」論はこれですね。しかし、どの考え方も、結局は同じことであります。ちっぽけな「我」に執着してはならない。それは偽我であって、本当の「我」とは神人一体の「大我」であり「善我」なのだ。自己中心的な思いを捨て、大我に目覚めなさいということなのです。
結局、根底に「神の存在」を認めているのです。「諸法無我」から「神」を切り離すと、単なる唯物論に堕していきます。現実にそうした考え方をする仏教者もいるようです。しかし、それは愚かなことです。孔子が、現実的な教えばかりを説いていたからといって、神仏の存在を信じていなかったということにはならないのです。釈迦にしても同じです。確かに原始仏教では、「根本神」については説かれていなかったのかもしれません。だからといって、仏教は「無神論」「無霊魂論」と断定することはできないのです。
すべてのものは移り変わっていく
こうした相互作用、相互依存により、すべてのものは変転していきます。一瞬のとどこおりもなく、原因と結果の循環を繰り返しつづけています。これが時の流れでります。我々の住む地上において、現在があるのは、過去があったからで、過去と何のつながりもない現在というのはありえません。また過去・現在を原因として、未来という結果が、やがて生み出されていくことでしょう。このように時間の流れにおいても、空間的な意味においても、すべては相互に関係し合って、変転しているのが、私たちの住むこの物質世界の真実の姿だと思います。これを仏教では「諸行無常」といいます。
「諸行無常」「諸法無我」は、仏の教えの三法印のうちの二つです。正法かどうかを見分けるためには、三つの印があるかどうかを見ればわかるといいます。もう一つの印は「涅槃寂静」といいます。涅槃寂静とは、諸行無常、諸法無我の真理を真に悟ったならば、一切の煩悩の火が吹き消され、心に安らぎが生ずるという考え方です。仏教の目的とは、一言で言うならば「心の安らぎ」(涅槃寂静)ではないかと思います。そこに至るためには、どうすればよいのか?それを解き明かしたのが仏教(正法)で、その目印となるものが、三法印なのです。世の中には色々な教えがあるのですが、この三法印があるかどうか、これをチェックすれば、それが正法かどうか、大体の目安がつくかもしれません。
すべてのものは循環している
そして注意すべきは、相互に関係し合って、ただ単にでたらめに変転しているわけではないという点です。
たとえば、この世において時間の流れは、原因から結果へ、過去から未来へと流れていきます。逆行はしません。原因が結果を生み、その結果が原因にとなって、さらに新しい結果を生み出していく。時の流れは、原因・結果が輪廻(循環)する姿といってもいいと思います。
たとえば、動物は、酸素を吸うことで生命を維持することができますが、その酸素は、体内で化学変化を起こして二酸化炭素に変化して、吐き出されます。もし酸素の量が一定ならば、やがて空気中の酸素は無くなって、動物は死に絶えます。しかしうまくできているもので、植物には、二酸化炭素が必要で、それを吸収して、その体内で化学変化を起こし、酸素に変えて、吐き出します。空気は、動物から植物へと、そして植物から動物へと循環してします。その結果、動植物の双方が生きていくことができる。
大気中の酸素の構成比は、昔から21%で安定しているそうで、もしこの比率が極端に変わってしまえば、おそらく動植物は大打撃を受けてしまうでしょう。なぜ21%なのか?動物や植物が、互いのことを思いやって、21%を維持するために、呼吸や光合成を意識的に調節しているといった話を聞いたことがありません。大自然の摂理としか言いようのない話です。こうした大自然の妙なる調整作用を見ると、大宇宙大自然界の慈悲と愛の深さを感じずにはいられません。こうした人智では計り知れない不思議な循環の法則によって、動物・植物・鉱物は共存共栄していくことができるのです。
「心行」には、「大宇宙体は、万生万物の相互作用によって転生輪廻の法に従っている」といった意味のことが書かれています。万生万物は、刻々と変転していきますが、よく見ると、そこには一つのパターンがあります。それは「誕生」「成長」「衰退」「死」の四つ過程を通過していく点です。そして最終の「死」で終わってしまうのか?というとそうではなく、「死」は新たな「誕生」につながって行き、延々と四つの過程を循環していく。「ひとつのおわりは、ひとつのはじまりである」と申しますが、これが転生輪廻の法で、別名、循環の法と言います。円周のある一点からスタートして円周上を前進していきますと、やがて一周して、もとのスタート地点に戻ってしまいます。これが「おわり」と「はじまり」が同じだということの意味です。
余談ですが、中国の古典に「易経」というのがあって、64個の記号を使って、万生万物の流転していく姿を解明しています。面白いのは、63個目で「完成」するのですが、さらに64個目があって、「未完成」を説き、またスタートに戻るという循環構造になっている点です。
ただ誤解してはいけない点があります。万生万物が流転し、循環しているといっても、ただ漫然とくるくる回っているだけでは成長がないということです。循環の法則には、万生万物をレベルアップさせたいという神意が働いていると私は感じています。たとえば、同じ失敗を繰返すことも一種の循環です。この循環を単に繰返していればよいのか?答えはノーだと思うのです。失敗の原因を反省して、それを取り除き、悪い循環を断ち切って、新しいスタートを切り出す。これが神様の心にかなう方向性だと思うのです
さて、循環のわかりやすい例えとしては、水の流転する姿があげられるでしょう。水は、温度の変化で、ある時は氷になったり、水蒸気になったりします。水から氷に変わるとき、水は死に、氷が生まれると表現できると思います。あるいは、水が死に水蒸気が生まれる。水蒸気が死に水が生まれる。このような転生輪廻、循環を繰り返していきますが、固体・液体・気体といずれの状態であってもH2O(水の化学式)という本質には変化がありません。呼吸なども循環です。空気を吐くばかりでも、吸うばかりでも、死んでしまいます。経済なども循環です。お金をため込むばかりでは成り立っていきません。消費するばかりでもだめです。
エネルギーと物質は、同じものであるということが、科学的に証明されていると聞いたことがあります。これが真実であるのならば、この物質世界は、エネルギーから物質へ、物質からエネルギーへと永遠の循環を繰返している世界だといえるでしょう。本質的に同じものが、あるときは目に見えて手で触れる物体として現われ、それが衰退していき消滅したと思ったら、実は目に見えないエネルギーに生まれ変わって存在し続けている。やがてそのエネルギーは、物質として生まれ変わっていく。こういうことが科学的に証明されているそうです。
地球の自転による、昼と夜の循環、公転による春夏秋冬の循環。銀河系宇宙なども回転しているそうです。あるいは文明なども循環していると思います。このようにすべては、相互に影響しあいながら流転し、循環している。
ところで、この転生輪廻の法則ですが、これは物質世界だけの話ではないということが、「心行」に書かれています。「人間は、あの世とこの世を転生輪廻している」、こういう説が書かれています。人間の本質は霊魂で、私なら私という個性を持って、あの世とこの世を輪廻転生しているということです。今、この世で生きている人は、生まれてくる以前は、あの世で生きていた。そしてあの世に生まれてくる以前は、この世で生きていた。こうした循環を繰返しているということだそうです。霊魂の転生輪廻とこの世あの世に関しては、また別の章(「この世とあの世」)をもうけて触れてみたいと思います。
神とは何か
前に、「ニュートン卿の話」を紹介しました。それは、大宇宙大自然界を観察すればするほど神秘の感が深くなるという話でした。私たちは、超高層ビルを見て、それが偶然に出来上がったとは考えないでしょう。
では人体を見てどう思うでしょうか?人体は、超高層ビルよりも遥かに複雑で精巧であります。にもかかわらず、多くの人々は、「偶然たまたま出来上がって、偶然、種を保存していく能力が生み出され、偶然現代まで生き延びているだけのことさ・・・」と思っています。超高層ビルに関しては、誰かが設計して、それに基づいて作られたと主張するのに、ビルよりも遥かに複雑な構造をもった人体に関しては、偶然で済ましてしまう。人体は、人間の科学力では作ることはできないものだから偶然にできたと考える以外に道はない、というのでは、あまりにもご都合主義に思えます。素直な気持ちになれば、きっとこう思うでしょう。「いったい誰がこれを設計して作ったのだろう?神様かな?・・・・・・」と。
高橋信次先生は、大宇宙大自然界をつぶさに観察し、長い探求の末に、この大宇宙体には心があると悟られました。この自然界を見れば、あらゆる生命体に必要なものが、すべて無料で提供されています。日の光、空気、水、大地、空間、すべて無料です。まったく見返りを求めていません。これは大自然が、慈悲と愛の塊であるということを物語っています。我々人間よりも、遥かに大きく深い慈悲と愛の心をもった存在、それが大自然だということがご理解していただけると思います。この大宇宙体は、万生万物を、一切の見返りを求めることなく、ただ慈悲と愛の心で育み続けている。この慈悲と愛の心こそ「神」である。そしてこの大宇宙体は、実は有機体で、神の肉体そのものである。こうしたことが「心行」の前半部で説かれています。
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