第二計画の根本経典 00008
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第二計画の根本経典
―神理の言葉 正心法語―
この書物の奥付を見ると、1986年10月1日第一刷発行となっている。この経典は、「幸福の科学」入会者に与えられたもので、いわゆる門外不出の秘伝のようなものだった。しかし、この根本経典は、ある時期より封印されてしまいました。理由は、90年代に行われた教義の修正(?)によって、矛盾が生じてきたからであろうと推測されます。
そして、根本経典は、「仏説 正心法語」に差し替えられたようです。
私は「仏説 正心法語」の全内容を知らないのですが、その解説書「仏陀の証明」を見る限り、「神理の言葉 正心法語」とはまったく別物になっていました。「仏説 正心法語」は、いい内容だと思いますが、教義修正によって書き改められたものなので、今の時点では、論評は差し控えたいと思います。
この「お経」(神理の言葉 正心法語)は、1986年の8月頃、自動書記によって書かれたものだそうです。
構成は、
①神理の言葉 「正心法語」 (大川隆法)
②光の言葉 「天使の誓い」 (天之御中主之神)
③神秘の言葉 「宇宙の悟り」 (エル・ランティー)
④愛の言葉 「日々の祈り」 (イエス・キリスト)
⑤夢の言葉 「自己実現の祈り」 (イエス・キリスト)
⑥心の言葉 「モーゼの訓え」 (モーゼ)
⑦勇気の言葉 「逆境を転ずる祈り」 (伊邪那岐大神)
となっています。
①は、大川先生の潜在意識の仏陀意識によるもので、他は、天上界の高級神霊よりの啓示であるといわれています。
天之御中主之神は、「古事記」で最初に現れる神様です。神様といっても、「大宇宙大神霊」のような人格を超越している「神」ではなくて、人格神、つまり人霊だそうです。日本神道系の最高神霊で、その悟りの段階は非常に高いそうです。
エル・ランティーは、GLA創始者の高橋信次先生のことです。高橋信次という個性は、エル・ランティーという巨大神霊の一面に過ぎず、砂漠の地においてヤハウェとかエホバ、あるいはアラーと呼ばれている神も、実はエル・ランティーという巨大神霊の一面であるということです。この「正心法語」の啓示は、高橋信次先生からのものだったそうですが、根本経典で他団体の創始者の名前を使うのはいかがなものか?という考えから、本体霊であるエル・ランティーの言葉としたそうです。ま、同じことなのですが。
イエス・キリスト、モーゼに関しては、説明の必要はないと思います。
伊邪那岐大神とは、谷口雅春先生のことです(高橋先生の名前を使わなかった理由と同じです)。伊邪那岐は、谷口先生の過去世だったということです。谷口先生は、「生長の家」の創始者で、光明思想で多くの人々を救った偉大な人です。
上記6名の方々によって書かれたものが「神理の言葉 正心法語」です。もちろん、自動書記によってですが。
さて、ここに連ねられた名前を見て、どう思われるでしょうか? 仏教、神道、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいわゆる親玉であります。悟りの段階でいうなら、宇宙界(九次元)や如来界(八次元)最上段階の人々だといわれています。「そんなこと、あるわけないだろう!」というのが率直な意見だと思います。ま、それが常識的な考えです。そう考えて欲しいのです。簡単に信じてしまってはいけません。
私は、この封印されてしまった根本経典の全文をここに掲げて、後代の人々への参考資料として残しておきたいのですが、著作権の問題を考慮すると、それもままなりません。引用ならば問題がないと聞いたので、その方向で行きたいと思います(もし問題があるのなら教えてください)。
補足 ― 悟りの段階、過去世について
「GLA」や「幸福の科学」の問題点の一つは、ここにあったと思うのです。「過去世」や「悟りの段階」って、なぜか気になるんですよね。私もそうですが・・・。「誰が何次元で、誰それの生まれ変わりである」、こうしたことばかりに興味がいってしまって、肝心の心の教えはどこへやら?しかし、そこが正念場です。興味本位に流されるのか、とどまって、教えを実生活に生かすことに努力していくのか。
じゃ、そうした興味本位に流れやすい「過去世」や「悟りの段階」のことには、最初から触れなければいいのではないか?こうした考えもあります。実際、そうした考えのもとに、教えを説いているかたも多いと思います。しかし、すべてを明らかにしていくためには、どうしても触れなければならない場合があるのです。特に「九次元の法」「救世の法」が説かれる場合は、神様の計画を明らかにするわけですから、やむをえない面があるのです。
たとえば、仏教者とキリスト者は、お互いにいがみ合うことが多いそうです。なぜか?表面的に見て、教えの内容が違うからです。しかし、天上界では、お釈迦様とイエス様はアガシャー系霊団の仲間だそうです。考え方も大筋において一致しているということです。こうしたことは、九次元の悟りを体得した人でなければ語ることができないのですよね。こうした天上界の秘密を明かすことで、「万教は同根であり、帰一するものである」という真理が、より具体的に理解できると思うのです。
もし、お釈迦様とイエス様が、根本において同じ考え方であるならば、仏教者もキリスト教者も、本来は仲間であるはずです。それができていないのは、両者が、それぞれの教えの真髄をつかんでいないからだということ。枝葉末節の違いに惑わされて、「違う、違う」と叫んでいる。でも幹を見れば一本の大木であることがわかるのです。「正法」は、この木の幹の部分、根っこの部分から説明していくので、その際、どうしても、過去世や段階論についても語らなければならないことがあるのだということ。この辺の事情をどうかくみ取っていただきたいと思います。
問題は、学ぶ私たちの側にあるのです。
「あなたは菩薩です」
「あなたの過去世は○○です」
こうしたことを言われて、つい有頂天になってしまう我々に問題があるのです。あるいは、「教え」に責任転嫁する心根に問題があるのです。G○Aや幸○の科学の教えのせいで道を誤ったと、いつまでもいつまでも恨みに思っている人もいますが、そうした責任を転嫁する心根では、本当にいつまでたっても心に安らぎは訪れることはないでしょう。
彼らは、こう言います。
「こうした間違った教えによって、これからも多くの迷える人々が騙され被害にあうことだろう。それを黙って見ているわけにはいかない。そのためにこの邪教と戦うのだ」と。
確かにそれは正義なのですが、やがて、たいていの人は、阿修羅の世界につながっていくことになります。ミイラ取りがミイラになってしまうのです。
間違った教えを信じたのは「自分」、
正しい教えを間違って解釈したのも「自分」、
すべては「自分」の未熟さゆえの失敗であったと理解できたとき、安らぎへの糸口をつかむことができると思います。その人にとって、邪教との戦いは、もっと先でいい。まだ安らぎの境地にも達していない状態で、まだ人を許すことができていない状態で、まだ不動心を確立していない状態で、邪教と戦えば、いかなる結果が待ち受けているか?それは火を見るよりも明らかです。どうか、「過去世」や「段階論」にとらわれる心、他に責任を転嫁するような気持ちを、捨て去る努力をして欲しいと思います。
仏教には如来蔵という考え方もあるそうです。すべての人に仏性がそなわっているという考え方です。「人間みな神の子」と同じでしょうか。ただ、それは、内に秘められたものであって、それを表に出してくるためには、のほほんとしていてはいけない。自らが努力して、己の仏性を掘り起こしていく以外に、それを表に引っ張り出してくることはできない。こうした考え方です。自らが努力しないのなら魂の輝きは秘められたままだろう。そうした人が、努力によって魂を輝かせている他人を見て、不平不満を言ったところで何も始まらない。
「神はなぜ、彼を輝かせ、我を蔑むのか!」
「神は愛。差別を認めるのは神の教えにあらず!」
こうしたことを言って、いつまでも経っても、自らの足で立ち上がることをしない人々がいますが、どうか皆様は、そのようなことがないようにと思います。己の不遇の原因は、実際問題「誰かのせい」だったかもしれない。愚痴りたい気持ちは痛いほどわかる。しかし、「誰かのせい」にして、いつまでも己の不遇を託っているようでは、その人自身が、やがて腐っていくのですよね。どこかで発想を切り替えていくことだと思います。犯人探しを止めて、つまずいた場所から立ち上がり、自分の足で前進し始めたとき、運命は再び動き始めると信じています。