春道님의 프로필大地を枕に사진블로그리스트기타 ![]() | 도움말 |
人生の目的と使命 00012>メインページへ 20050918 00012 人生の目的と使命
地球自体が大神殿である
一部の新興宗教では、莫大な費用をかけて神殿とか精舎を各地に建てているようであります。神を祀る場として、あるいは神仏の教えを修行する場として、あるいは心のふるさとを思い出させてくれる場として、それなりの役割を果たしていることだと思います。でも「しかしそれにしても・・・」という思いをどうしても拭い去ることができなのです。
なぜ、それほどまでにお金をかけなければならないのか? 信者たちに経済的負担をかけてばかりなのだから、始末できるところは始末するべきでは? 雨露をしのぐ屋根さえあれば、十分に神殿あるいは精舎としての機能を果たすことできるのではないか? もしかしたら、 「どうじゃ、わしの組織はすごいじゃろう」と言いたいのか?・・・・・・。
地球は、神の肉体を構成する小さな細胞体のひとつであるというふうに「心行」に書かれています。地球そのものが「ご神体」であるということなのですよね。ことさらに天を摩するような大神殿・大仏殿を建立せずとも、この地球自体が大神殿である。
たしかに地球上には、パワースポットとか、神域・霊域といった場所が点在しているようです。そうした聖なる場所を尊び守っていくことも大切なことかもしれません。しかし、それ以前に、地球自体が「ご神体」であり「大神殿」であるということを理解しておくべきではないかと思うのです。このことを知っておられる教祖様ならば、信者たちに過酷な経済的負担をかけて、むやみやたらと大神殿や精舎をつくったりはしないでしょう。そんなことにお金を使うぐらいならば、貧しくて困っている人々のために有効に使うこと、このほうが神様の心にかなうのではないかと思うのです。
地球は魂の修行場である
この大神殿である地球上で、万生万物が、大自然界の慈悲と愛の中で、相互に影響しあって共存共栄していることは、前に説明しました。
さて、「心行」には、この地上で我々が生きる意味について次のように書かれています。 我々がこの世に生まれてきたのには、二つの理由がある。
この二つの理由、目的のためにすべての生命体が生きているということだそうです。これは「啓示」なので、この二つの目的に関しては、理由を説明することはできません。それが「神様の御心」だからとしか答えようがないからです。前提条件だと考えてください。
理論理屈だけで考える人は、「なぜ魂修行をしなくちゃならないのか?」「なぜ、ユートピアを建設しなければならないのか?」「俺たちは神の操り人形じゃない」とかいって、こうした基本的な目標についても「ああだ、こうだ」と文句をつけてきます。
こういう使命感というものには、理屈など必要ないのです。
こうした思いは、理論理屈で心の中に作り上げるものではありません。どんな人の心にも、最初からあるものだと信じています。こうした思いを万人が抱いていると思うかたは、この「啓示」に関しても、正しいと判断していただけると思います。
理論理屈も大切ですが、最後の一厘の部分は、理論理屈を飛び越えて、自分自身の心の奥底の声に耳を傾ける必要があります。 心の声に耳を澄ましたとき、どうでしょうか?
誰もがこうした心の「うずき」を感じるのではないでしょうか。
人生の二大目標
さて、この二つの目標は、実は一つのものであります。たとえばコインは片面だけで存在することができません。それと同様、この二つの目標も表裏一体なのであります。二つで一つ。ココが重要です。片面だけを求めると間違っていきます。バランスが崩れていくのです。魂修行自体は、非常に尊いことです。しかし、己の魂修行だけを求め過ぎると、一歩間違えれば自我我欲です。
ユートピア建設運動も、非常に尊いことです。しかし魂修行をおろそかにして、低い心境のまま突っ走ると大変な過ちを犯していくことでしょう。ユートピア実現のために、幾千万の人々を殺してしまうようなことが現実に起こったこともあります。
コインは、表裏があってこそコイン。人生の目的と使命も、二つの方向性のバランスが取れていてこそ実を結ぶというものです。よく仏教では、小乗と大乗が対立して、どちらが本当の仏教か?と議論されています。愚かな話です。この二つがそろって、バランスが取れていれば、そのほうが良いに決まっているではありませんか。小乗・大乗は、仏教というコインの裏表だということです。
「自利利他」という言葉があります。簡単に言えば、小乗仏教は、「自利」を強調し、大乗仏教は、「利他」を強調していると言えましょう。「自利利他」とは、己の利益が、そのまま他人の利益になっていることを言います。 たとえば、りんごを食べたいと思っている人がいるとします。彼の家には、柿がたくさんあるのですが、りんごがないのです。で、別のところに、柿を食べたい人がいて、その人は、りんごをたくさん持っています。この人たちがりんごと柿を交換すれば、双方幸せになれるのではないか?という考えが「自利利他」なのです(^^;。
人生の目的である「魂修行」と「ユートピア建設」も「自利利他」の関係、表裏一体のコインのようになってこそ生きてくる。
魂修行も、他の人々に利益をもたらすことにつながるのであるのならば、それは「自利利他」となります。たとえば、ちょっとのことで怒ってばかりだった社長が、心を磨くことで、穏やかな心境となったとします。すると会社の雰囲気が調和され素晴らしい環境となることでしょう。これは個人の人格の向上が、そのまま周囲の環境を調和(ユートピア化)していく一例です。
ユートピア建設運動も、その展開の中で己の心を磨く方向につなげることで「自利利他」となります。 かつての共産主義国家の独裁者たちが行った不平分子・不穏分子たちの大量虐殺は、「人類のため、理想社会建設のため」という美名の下に正当化されました。しかし、そうした大量虐殺の上に成り立つような社会が、本当の理想社会であるはずがありません。現にソ連という国は短期間で滅びてしまいました。神様の心に反する無慈悲な大量虐殺によって築かれた国が、末永く繁栄を続けることなどできないということです。
ユートピア建設運動は素晴らしいことだけれども、指導者たちが、大義名分に酔いしれ、己の邪な心を律することができなかった場合、大量虐殺というような大悲劇につながってしまう。もし、指導者たちの心が常に磨かれていて、慈悲深かったなら、ああした悲劇はなかったと思います。
本当のユートピアは、一人一人が、己の心を調和することからスタートする。己の心が調和するにつれて、周囲に対してやさしくなれる。己の心が、名誉欲や闘争心や憎しみに翻弄されているときに、愛行の実践などできるものではありません。そして愛行なきところにユートピアもありえない。
このように、「心行」で説かれている人生の目的とは、二つで一つであるということを肝に銘じておく必要があると思います。この二つの目的は、言い換えれば、「悟り」と「愛」です。この二つは不二一体の関係、車の両輪、コインの裏表であります。片方だけにこだわると必ずバランスが崩れます。もう少しだけ事例を紹介したいと思います。
求道心の強かったアングリマーラは、師匠の命令に従い、多くの人々を殺めてしまいました。悟りを求める心は立派だったかもしれません。また師の言葉に従順に従う生真面目な青年でありました。しかし、他者の不幸に対して鈍感であったと思います。一方に傾きすぎたからです。現代でもある新興宗教団体が、同じような事件を起こしました。
「愛」とても同じことです。「愛」は、その人の悟り、心境に応じたものなのです。それ以上でも以下でもない。低い心境にあるとき、「愛」は単なる自我我欲であり、心境が高くなるにつれて、無私の「愛」となっていきます。現代、「愛、愛」と叫ぶ人は多いのですが、その愛の段階はピンからキリです。大切なことは、今、自分の愛が、どのレベルにあるのかということを知ることなのです。そのためには己の悟りの段階を知ることです。
「恋人を愛している」というが、その恋人が去っていったとき、どうしますか? 本当に高い心境で愛しているなら、「私のもとを去っていくことで彼(彼女)が幸せになるのなら、それでいい。遠くで見守ろう」。このように思うことでしょう。でも、このように思える人は、そう多くはないのです。普通はできない。「かわいさあまって憎さ百倍」。たいていはこれです。
そういう凡夫である我々が、完璧な愛を己や他人に求めるのは、間違いのもとになるのです。愛の段階の現状を見極め、そこからワン・ステップ・アップを目指していくことです。それでいいのです。今は、すべての人を愛せなくてもいい。敵意剥き出しの相手を、無理に愛する必要はない。敵を愛せないからといって恥じる必要もない。そんなことで苦しむことはないのです。家族を愛し、仲間を愛している。それだけでもたいしたものなのです。そしてそこから前進していけばいい。いや、そこからしか前進していくことができないといったほうが良いかもしれません。
その次は、人生で縁あって出会う人々に対して、できる限りやさしく接していく。こうした努力、魂修行を積み重ねて行く過程で、徐々に徐々に敵すらも愛せることができるようになっていくはずです。何事も一足飛びに成就することはできないのです。
敵すらも許し愛することができる段階、それは菩薩の愛の段階だそうです。これは、ものすごく高い心境です。菩薩たちは、この心境に至るまで、どれだけの血と涙を流したことでしょうか・・・。
愛という言葉の響きに酔って、「愛こそすべて。人類みな兄弟」と叫ぶのもそれなりに意味があるでしょう。しかし、言葉というものは、そこに込められた思いの強さの分だけの力が宿るのだと思うのです。キレイ事を幾千幾万と語ったところで、そんなものは誰の心にも響くことはないでしょう。また、そんなキレイ事を語る己自身の心も空しいだけでしょう。
悟りなき愛はなく、愛のない悟りもない。愛を説くならば、その悟りの分だけを説くことだと思います。その「分」を超えたとき、必ずバランスが崩れ、自己と周囲に不調和を引き起こすことになるでしょう。 댓글 (2개)
트랙백이 블로그를 참조하는 웹 로그
|
|
|