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日志


この世とあの世 00013

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この世とあの世

 

 

過去世 現世 来世の三世は 生命流転の過程にして 永久に不変なることを知るべし

 

 

この世とあの世

 

 

循環の法を説明したときに、「人間は、この世とあの世を転生輪廻している」ということに触れました。そのことについてもう少し説明を加えておきたいと思います。

 

「この世」とは、今、現に私たちが生きている、この時空間のことです。五官で感じることのできる世界。変転してやまない世界。諸行無常の世界。三次元世界、物質界、現象界とも呼ばれます。「あの世」とは、我々の五官で感じることのできない世界のことです。したがって、この世の基準で、あの世の存在の有・無を証明することはできません。さらりと書きましたが非常に重要な点なので、よくご理解いただきたいと思います。

 

神仏の存在の有・無を証明することができるのなら、「信仰」というものに意味がなくなってしまいます。存在するともしないとも、三次元世界の基準では立証できないからこそ、人間は、「神仏の存在を信じる者」と、「神仏が存在しないことを信じる者」に分かれるのであります。神仏の存在を信じる者が「信仰者」、神仏の存在しないことを信じる者は「唯物論者」ということです。双方とも、己の判断に従って「信じている」だけなのであります。唯物論者とは言葉を変えて言うならば「唯物論信仰者」だということです。

 

高橋信次先生が説かれる「あの世」を信じるか信じないか?これは各人の自由です。興味のあるかたは、これからご自身で、じっくりと時間をかけて研究していただきたいと思います。みずからの心を探究していく過程で、少しずつ答えが浮かび上がってくることでしょう。研究に際してのアドバイスとして、「まず、心をニュートラルな状態にして下さい。簡単に決め付けてしまわず、じっくり研究してください。そして答えを得たとしても、それが100%正しいと決め付けないでください。」とだけ申し上げておきたいと思います。

 

意識の調和度により 段階あり この段階は 神仏の心と己の心の調和度による光の量の区域なり 

 

高橋信次先生の説く「あの世」とは、「想念の世界」です。想念の種類の数だけの世界が「あの世」にはあるそうです。そして「類は友を呼ぶ」法則が働いていて、似たような想念同士が集まって様々な霊界(=あの世)を作り上げているようです。しかしこうした多種多様な霊界も、ある”モノサシ”で計ると、非常に整然としたものになります。それは「神様の御心」に近いか遠いかという基準です。「神様の御心」と反対の方向を目指すような想念は、地獄界という世界を作り上げます。「神様の御心」に向かい、限りなく神の側近くにある想念は、宇宙界、如来界というような世界を作り上げているようです。あの世は、大きく分けて、宇宙界、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界の6層に分かれていて、地獄界は幽界の中の一部だそうです。

 

すこし難しい話になりますが、「神様は、想念の力ですべてを生み出した」といわれています。「まず想念ありき」ということです。物質界も、想念から生み出されたものだということであります。つまり「あの世」と「この世」では、「あの世」が先に生み出され、その後「この世」が生み出された。「あの世」のほうが元になっている。「この世」は「あの世」の「うつし世」である。このように言われています。

 

映画を思い浮かべてください。映写機の光源から無色透明の光が放射され、それがフィルムを通過して、スクリーンに映像が写し出されます。これが「この世」と「あの世」の関係と同じということです。光源は、神様。放射される光は、神様の想念。フィルムは、あの世の想念の各段階(※これは悟りの段階と同じものです)。スクリーンは「この世」。このように喩えることができると思います。この三次元世界とは、銀幕に映し出された映像のようなもので、映像の元型である映写機やフィルムは、四次元世界以降の世界にあるということなのです。

 

神の光が放射され、それが宇宙界というフィルムを通過して、次に如来界というフィルムを通過して、菩薩界、神界、霊界、幽界と順次通過して、最終的に地上というスクリーンに到達するということ。「この世」とは、幽界(四次元世界)というフィルムを神の光が通過して、映し出されている世界。この世の原型は「あの世」にある。だから「あの世」は「実在界(※本当にある世界)」と表現することがあります。

 

想念のフィルムが美しいものならば、美しい映像が生み出され、真っ黒な汚れたフィルムは、汚れた映像を生み出す。「この世」には、素晴らしいものが数多くありますが、地獄絵が展開されている部分もあります。「この世」の天国も地獄も、人間の美しい想念や、歪んだ想念や、醜い想念のフィルムを神の光が通過して、「この世」というスクリーンに映し出された姿なのであります。神の光は、無色透明で慈悲と愛の塊であったとしても、想念のフィルムが薄汚れていたら、神の光はそのままの姿で通過することはできないということです。

 

神がいるのなら、なぜ地上にこれほどの悲惨が満ち溢れているのか?このように嘆く心正しき人々がおられますが、神様のせいで地獄ができたのではないのであります。神様に心の自由を与えられた私たち人間が、その自由さの上にあぐらをかいて、間違った想念でフィルムを汚し、曇りを作ってしまった結果、この地上というスクリーンに、大混乱の姿が映し出されているということなのであります。

 

 

魂の転生輪廻  

 

 

創世記第一章に、

神そのかたちの如くに人をつくりたまへり

すなわち神のかたちの如くにこれをつくり

これを男と女につくりたまへり

とあります。確かにそうかもしれません。神とは意識体であって、三次元的な肉体を持っている。その肉体とは、即ち大宇宙体であって、意識体である神は、想念の力で大宇宙体(肉体)を支配している・・・。「心行」では、このように書かれています。

 

人間の「肉体」と「魂」の関係も同様でありますから、創世記第一章に書かれているように、神と人間とは相似形の関係にあると思われるのであります。つまり、人間の本質は肉体ではなくて、魂である。こう考えていただきたいと思います。そして魂の転生輪廻とは、この魂が、「あの世」と「この世」を行ったり来たりすることをいいます。「あの世」では、魂、霊体として存在します。「この世」では魂と肉体が不即不離の関係(※どちらかと言えば霊主体従の関係)で存在して、魂の修行をしているということです。この世のことを「現世(げんせ)」、この世に生まれる前に生きていた世界を「過去世(かこぜ)」、この世での生を終えてから行くあの世を「未来世(みらいせ)」、あるいは「来世(らいせ)」といって、魂は個性を維持したまま、この三世(過去世・現世・来世)を流転して、無限に向上していく永遠の生命体、生き通しの生命体であるということだそうです。

 

※仏教思想の一部には「諸法無我」を、無霊魂説として受け止める考えがあるようですが、高橋信次先生の考えは、真っ向からそれらの説を否定して、「人間はみな神の子である。各人が唯一無二の個性を持っていて、努力によって神の御心(調和)に向かって無限に向上していく永遠の生命である」といった主張をされていると思います。

 

ではなぜ、過去世の記憶がないのかというと、この世に生まれるときに、過去の記憶は失われてしまうように仕組まれているからだそうです(※完全に消去されるのではなく、この世で生きている間だけ忘れるらしい)。なぜそうなのか?それは、この世が魂修行の場、テストの場であるからです。たとえば、試験のとき、当然、カンニングペーパーの類の持込は禁止です。過去世の記憶というのは、「この世」という魂の試験の場においては、カンニングペーパーと同じだと言うことなのです。

 

前世(=過去世)において犯した過ちがあったとします。前世と同じ過ちを繰返さないようにするのが、今世(=現世)の目標の一つなのです。でも、もし今世、過去世の記憶があるのなら、過去の過ちを繰返さないようにすることは比較的簡単ではないでしょうか。カンニングしながら試験を受ければ、誰だって高得点が取れるでしょう。しかし、それで魂が磨かれたといえるでしょうか? 魂が本当に磨かれる時というのは、答えのわからない暗黒の中で、神様の御心がどこにあるのかを必死に探し求めているときなのではないでしょうか。こうした暗く長いトンネルを手探りで前進しているとき、最も魂の足腰が鍛えられているのだと私は思います。この世とは、まさにそうした場所、魂の修行所だと思います。厳しい場であります。

 

このように書けば、非常に重苦しく感じると思います。しかし、この世には、そうした側面が確かにあると感じます。この側面を、見て見ぬふりするというのは、大学入試の試験場に行って、入試問題から目をそむけて、そこで昼寝しているのと同じことではないか?このように思います。ただ人生は、こうした修行の面ばかりではないのです。苦しいばかりが人生じゃない。喜びもある。笑いもある。息抜きもある。こうした光明面も、追い追いと説明していきたいと思っています。しかし物事には順序があって、まず本筋をつかまなければいけない。それをつかまずに、楽な道に流されると、後々大変なことになっていくのです。

 

狭き門より入(い)れ、滅(ほろび)にいたる門は大きく、その路(みち)は広く、之(これ)より入る者おほし。生命(いのち)にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし。

(マタイ7.13-14)

 

このイエス様の言葉が、一つの指標になると思います。楽な道に流されるな!ということです。確かに、苦しむために「この世」に生を受けたわけではない。かといって、肉体的な快楽をむさぼる為だけに生まれてきたわけでもないのです。「苦楽の両極は正道成就の根本にあらず」と申します。難行苦行ばかりを押し付ける宗教には気を付けてください。しかし、肉体の快楽を肯定し、それを強調する宗教には、もっともっと気をつけて下さい。一見それは多くの人を救う安らぎの「教え」のように思えます。ストイック過ぎる人には福音となるかもしれません。

 

しかし、そうした「教え」が主流になってはいけません。たとえば、人間が健康に生きていく上で必要な食べ物は、お米とかパンとか野菜とか果物などであります。これらをバランスよく食べていれば、そこそこ健康に生きていけます。しかし、それでは、何か物足りない。やはり甘いお菓子も時には必要なのです。このバランスが大切なのです。甘いお菓子は、食生活全体の一割以下でいいのです。やはり基本は、ご飯や野菜なのです。甘いお菓子ばかり食べていたら、間違いなく健康を害します。ケーキやお饅頭が主流になってはいけないのです。

 

心地よい「教え」とは、甘いお菓子みたいなものだということです。少しでいいのです。まったく無いのもいけない。でもそればっかりでもいけない。このバランスを知っておいて欲しいのです。老荘思想や光明思想は、ホッとする「教え」です。苦しいときには、本当に救われる思いがします。素晴らしい「教え」です。しかしこれが主流になってしまうと曲がっていくのです。やはり8割9割は、自助努力の教えで固めていく必要がある。こうした基盤がある程度確立していてこそ、光明思想や老荘思想は活きてくると思うのです。このバランス感覚を大切にして欲しいと思います。まず揺らぐことのない基盤を確立してください。でも、それは、苦しい道のりです。その間に老荘や光明思想を挟み込んでいくことで、長い道のりも、それなりに楽しいものになることでしょう。

评论 (2)

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大和春道发表:
さらんさん、こんにちは。
 
過去世においてどのような人間であったかは、今の自分を見れば、わかるそうです(^^;。つまり、今の自分とそれほど変わらないということです。
 
人間が、本当に生まれ変わるのかどうか?
これは、残念ながら、科学的には、絶対に証明できないのですね。どんな霊的現象も、疑おうと思えばどこまでも疑うことができます。ただ、証明できないから、「無い」ということも断定できません。だから最終的には、各人、「信じる」か「信じない」かのどちらかを選ぶしかないと思います。
 
ケーキ・・・はは、そうです。時には甘いものも必要ですね(^^;。
 
5 月 27 日
 
「この世」「あの世」ですね。う~ん^^;
大和さん・・・ 今日は ここにお邪魔しました。
転生輪廻ですかぁ・・・
分からない・・・
「今を生きること」今の私には、それが精一杯かもです。
過去世は、どんな人間だったのか?チラチラ感じる時があったりします^^;
研ぎ澄まして足元を見つめて・・生きていく積み重ねですね・・・
 
知れば知るほどに・・・穴が深くなって抜け出せなくなるような・・・
そんな気もします^^;(知ってもいませんが。。)

去年のこの日・・・「ケーキ」^^;
甘いものお好きなんですか?へへ
 
 

 
5 月 26 日

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