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    神の七色光線 00014

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    神の七色光線

     

     

    普遍の光 射し来たり

    あまねく地上を照らすなり

    これ天上の光なり

    光 分かれて七色の

    虹は天空 地に架かる

    この虹色は神の色

    黄色は仏陀 法の色

    白色(しろ)はキリスト愛の色

    赤色(あか)はモーゼの 正義色

    紫色(むらさき) 孔子の 秩序色

    青色(あお)はカントの 理性色

    緑色(みどり)は老子 自然色

    銀色(ぎん)はニュートン 科学色

    ああ七色が相集い

    神の御国を照らし出す

    (P6~P8)

     

     

    群盲象評のたとえ

     

     

    まずは一番目の言葉「神理の言葉 正心法語」から、重要と思われる箇所を引用して、説明を加えていきたいと思います。

     

    天上より神の光が射し来たって、この地上を照らしている。その光は、まるで虹のように七色に分かれていて、それぞれの色に応じた特色を持っている・・・、

    このように書かれています。

     

    さて、まず目を閉じて、しばらくの間、「神とは何か」について考えてみていただきたいと思うのです・・・・・。

     

    人それぞれによって、思い浮かんだ神様のイメージは、まちまちであったことだと思います。ある人は、神秘的な白髪の老人を思い浮かべたかもしれません。別の人は、イエス・キリストだったかもしれません。巨大な仏像のようなイメージや大宇宙体をイメージされたかたもおられるでしょう。光とか、愛とかをイメージされた人もいるでしょう。

     

    神のイメージにバラつきがあるのは、個々人の思い込みのせいかもしれません。あるいは洞察力の差であったかもしれません。浅い見方の人から深い見方の人まで、神のイメージは、それこそ十人十色でしょう。結局、これぞ「神の全体像」の決定版というものがないのですよね。おそらく人間知で、神の全貌を完璧に想像することは不可能だと思うのです。

     

    仏典に「群盲象評(ぐんもうぞうひょう)」というたとえ話があるそうです。何人かの盲人が、象とは、どのような動物であるかを評価する話です。

    目が不自由な場合、手で触れてみて、そこから象とは如何なる動物かを判断することになります。さて、どうなるでしょうか?

     

    ある盲人は、巨象の足に触れたので、「象とは、大木のようなものだ」と断言します。

    ある盲人は、巨象の耳に触れたので、「象とは、分厚い垂れ幕のようなものではないか?」といいます。

    ある盲人は、巨象の鼻に触れたので、「象とは、蛇の一種ではないかと思う」といいます。

    ある盲人は、尻尾に触れ・・・・・。

     

    おそらくこうしたものになると思うのです。盲人たちは、象という動物の巨大さを知らないので、自分の触れた部分だけで、大よその見当をつけて、象の全体像をイメージして、そして「象とは、こうしたものではないか」と評価を下しているのです。

     

    だから、当然まちまちの意見になる。しかし、まちまちではあるけれども、盲人たちの誰一人として嘘をついているわけではないのです。それぞれが体験したことをもとに正直に語っていることでしょう。そして、おそらくめいめいが「自分は正直に語っているが、まったく違うことを語る他の連中は、ウソをついているに違いない」と思っていることでしょう。

     

    このたとえ話は非常に面白いです。盲人は、要するに我々凡夫のことです。巨象は、偉大な人物や神様をたとえています。最初に「神様とは何か」を考えてもらったのですが、それは、我々もまた神に関しては、「群盲象評」の盲人たちと同じであるということを知ってもらいたかったからなのです。

     

    「神とは、ああだ、こうだ」と議論するのは結構なことなのですが、たいていの場合、ハッキリ言えば「群盲象評」なのですよね。そのことを相互に理解した上での議論なら有意義なものになると思います。しかしたいていは、「群盲象評」に陥っていることに気づいていない場合が多い。

     

    「己の狭い学びや経験を唯一の真実として、それと違うことを語る者は、間違っている」という決め付けが相互にあると思うのです。そして延々とお互いの間違い探しを続け、双方ともに、「見下し」や「裁き」の想念で心に曇りを作っていく。挙句には、誹謗中傷合戦となって取り返しのつかないところまでいく。よくある話です。

     

    意見に食い違いがある場合は、まず「群盲象評」になっていないかをチェックする。そして、「群盲象評」だと感じたら、いったん議論は中止するほうが良いでしょう。ひとまず静かに身を引くことです。おそらく相手は、「逃げた」とか「謝罪せよ」とか、わけのわからないことをわめきたてることでしょう。そこで腹を立てて反論すると、また蟻地獄に引きずり込まれていきます。大きく構えることです。

     

    話を戻します。たとえるなら、神とはエベレスト山のようなものです。東から見たエベレスト山と西から見たエベレスト山では、形が違って見えるのです。しかし、どちらもエベレスト山であることは間違いない事実なのです。別方向から見た者たちが、「俺の見たエベレストはこうだった。おまえの見たのとは違うから、おまえは嘘をいっているか、勘違いしているのだ」なんて目くじら立てて言い争うのは、非常に愚かなことです。

     

    キリスト教やイスラム教は、西側から神の姿を見て、「神とはこうしたものである」と主張しているのかもしれない。仏教は東側から神を見て、教えを説いているのかもしれない、ということです。同じ神、唯一の神であっても、見る角度によって、違う形に見えるのかもしれない。こうしたスケールの大きい考え方が大切だと思います。

     

     

    一面を見て理解したと思ってはいけない

     

     

    ところで、エベレスト山を東側から眺めただけの人と、あらゆる角度から見て、また色んなルートから登ってみたという人とでは、一体どちらがエベレスト山のことをよく知っているでしょうか?答えは言わずもがなでありまして、当然、エベレストを色んな角度から見て、実際に登った人のほうが、少なくともエベレストに関しては、一日の長があるのです。

     

    神に関しても同じことなのです。時をかけて神理を深く学び、日常生活において日々の実践を積み重ねてきた人というのは、やはりそれだけ神様の御心というものを深く理解しているものなのです。10年20年とコツコツ積み重ねている人は、そう簡単に天狗になりません。学ぶほどに、また実践すればするほどに、己の至らなさが見えてくるからです。そうした方々は本当に称賛に値すると思います。

     

    ものごとを見るときは、三つのモノサシを使うと、よく見えてくるといいます。

     

    思考の三原則 (※安岡正篤師が提唱していた)

    ①目先のことにとらわれずに長期的に見る、

    ②視野を広げ多面的に見る、

    ③枝葉末節から根本に遡って見る、

     

    以上の三つのものさしです。

     

    神(※エベレスト)を、もっと理解したいのならば、三つのモノサシではかるべきではないかなと思うのです。歴史を学び、様々な思想や教えを学び、それらの根っこの部分にまでさかのぼって行くことです。知的に理解したいのであるならば、それ位の手間隙をかけるべきだと思います。そこまでやって、偉そうなことを言うなら、おそらく説得力もあるでしょう。

     

    しかしこれは万人の道ではありません。我々凡夫にとって本当に大切なのは、日常生活において神の御心を実現していく努力だと思います。一日中、知識収集のために本を読んでいればいいのか?ということですよね。もちろん駄目なのです。

     

    人間が一生の間に、書物から得ることができる知識量には、限界があります。知識量を競うことは学者さんたちや、それを趣味にしている人たちに任せておけばよいのです。われわれには、仕事もあり、遊びもあり、付き合いもありで、勉強ばかりしておれないのです。だから我々の中で、物知りだという人でも、専門家と比べればレベルが遥かに低いのです。そんな者同士が、知識自慢をしても空しいだけです。

     

    知識量の限界を謙虚に受け止め、「自分よりよく知っている人は、いくらでもいる」ということを自覚して、くだらない知識自慢競争は、もう卒業しましょう。

     

     

    万教同根・万教帰一の真理

     

     

    さて、経文では、神の光が七色に分かれているとあります。「群盲象評」のたとえでいうならば、黄色光線は象の鼻、白色光線は象の足、赤色光線は象の耳といった感じでしょうか。

     

    よくある事ですが、ある光線の影響下にある人、たとえば赤色光線の人は、「赤」こそ最高のものであると決め付けてしまうのですよね。そして、他の毛色の違う光線を、邪教だ邪説だと勝手に認定してしまう。確かに赤色光線も神の七色光線のひとつとして立派なものでしょう。しかし、すべてではないのです。他にも同じぐらい立派な神の光線が存在するということ、このことがどうしても分からない人が、ケッコー多いように思います。

     

    だから、宗教間での争いが絶えない。「黄色こそ」「いや紫こそ」とそこかしこでやっています。しかし、経文には、神の七色は、本来ひとつのものであることがハッキリと書かれています。言葉を変えるなら、「万教は同根であり、万教は帰一する」という真理が示されているということです。まず、こうした真理が世界の常識とならなければ、宗教間のいざこざが解消されることはないのではないかと思います。

     

    キリスト者は、白色光線に誇りを持っていて当然です。しかし、他の光線に対しても敬意を持つ必要があるということなのです。他の色も神の個性の一面なのです。「白のみ尊し」的な態度ではいけない。どの色も、唯一無二で、かけがえのない色なのです。どの色が偉く、どの色が卑しいといったことは、まったくないのです。すべての光線、そしてすべての存在は、本質においては、唯一無二のかけがえのない存在だということ。人間は、金太郎飴ではないということなのです。

     

    私たちは、何でもかんでも優劣を決め、「優」を祭り上げ、「劣」を見下す傾向にあると思います。しかし実際は、優劣を決めるとなどできないものもあるのです。たとえばバラとユリ、どちらが偉く、どちらが劣っているというのでしょうか?水と空気に優劣があるでしょうか?

     

    「生命そのものの価値」、「存在そのものの価値」に、正邪や優劣などを決め付けることは思い上がり以外の何ものでもないのです。

     

    バラにはバラのよさが、ユリにはユリのよさがあって、尊卑や優劣などない。あるのは、見る側の好みです。バラが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。ユリを好きな人も嫌いな人もいる。ユリを嫌う人がいるからといって、ユリそのものの価値が下がるわけでも上がるわけでもない。そうしたものだと思います。

     

    ユリやバラや桜やスミレなどいろんな花々が、色とりどりに花咲かせ、この地上を飾っている。だからこの神の花園は美しい。わたしはそう思います。

    キリスト教、仏教、イスラム教、儒教、神道、老荘思想、ギリシャ哲学等々、世界中には様々な素晴らしい教えが存在しています。これは神の御国を美しく飾る個性的な数々の華々なのです。多種多様の教えや考え方があるということ、そして、これらの教えが本来一つのもの、唯一の神から流れ出た教えであることを理解して欲しいと思います。

     

    「一体どこが同じなんだ?キリスト教とイスラム教は、殺し合うぐらい対立しているではないか?仏教は、根本神を認めないが、キリスト教やイスラム教は一神教ではないか?」、このように反論されるかたもおられるでしょう。

    ま、そう言われればそうなのですが、そうした表面的な違いだけを見て判断するから、わからなくなっていくのですよね。枝葉(色んな教え)は別々に見えるかもしれない。しかし枝葉を遡っていけば、実は一本の大木ではないだろうか? このように思うのです。

     

     

    七色光線の特長

     

     

    神の光は一色ではなく、無数の色に分かれ、この地上を美しく照らし出している。イエス的な光、仏陀的な光、孔子的な光、大きく分ければ七色に分かれて地上を照らしている。そして、それは色んな個性が認められているということを意味しているのだと思います。

     

    虹の七色は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫ですが、神の七色光線は、黄、白、赤、紫、青、緑、銀に分かれるそうです。これは大まかに分けて七つの個性を意味しています。それらはすべて神の光であって、どの色が偉いとか、どの色が偉くないとかといった議論は、まったく無意味。それぞれに役割があって、それぞれが尊く偉いのです。

     

    黄色の光線は、お釈迦様の色で、法の色、慈悲の色。過去世において、お釈迦様の教えに触れ、感動し、学び、実践してきたような人々は、今世においても仏教の教えに惹かれるものなのです。こうした人々は、黄色光線の霊系団に属していることが多いのです。

     

    白色光線は、イエス様の色、愛の色。イエス様は「愛」の最高権威だということです。現代ほど「愛」が誤解されている時代はないといいます。しかしそれは裏を返せば、多くの人々が「失われた愛の精神」を取り戻そうとして躍起になっている時代だということなのではないでしょうか。より高次な愛を求め、その愛をすべてに捧げたいと祈り続けるような人は、おそらくイエス・キリストの白色光線に属していることでしょう。

     

    赤は、モーゼの正義色。指導者の光線、奇跡の光線とも呼ばれています。正義とは、「正しさ」とか「人として踏むべき道」のこと。人の道に外れた行いをする者がいれば、大きな愛を内に秘めて、それをあえて表に出さず、厳しい態度で改心を迫るような裁きの面が、あると思います。薄っぺらなやさしさや甘やかしは、多くの場合、悪を増長させてしまうことになるからです。

     

    また、奇跡を呼び起こす巨大な霊的パワーを持った霊団でもあります。それゆえに何かと誤解されている光線であります。

     

    しかし、神の七色光線の中には、こうした荒々しい側面があるということなのです。現代日本では、この赤色光線は、日陰に押しやられています。その結果、物分りの良いおじさんたちが増えたのはいいけれど、凶悪犯罪者の低年齢化が進んでいる事実も見逃すことはできません。大人が怖くなければ、子供はなめてかかって、やりたい放題です。

     

    「暴力はいけない。どんな悪い子供だって話せばわかるのです」が持論の物分りの良い進歩的文化人のおじさんの家庭が、子供の家庭内暴力で崩壊したなんて笑えない話もあります。もし、おじさんが、怒るべきときに怒って、時には子供のホッペタを張ってでも「人として踏むべき道」を伝えていれば、家庭崩壊は未然に防ぐことができたでしょう。

     

    「正しき者は、強くなければならない」。なぜなら、モヤシのような体と弱い精神力で悪に抗することはできないからです。悪と戦うことばかりを強調したいのではありません。しかし悪が栄える世の中を、放任しておくことが、ユートピア運動といえるでしょうか?

     

    悪の栄える世の中で正義を実現していくためには、この赤色光線の力強さがどうしても必要な時がある思います。キレイ事で世の中がすべて丸くおさまるのなら、警察も裁判所も必要ないでしょう。

     

    紫色光線は、孔子の秩序色。道徳の道、学問的な考え方などを司る光線。秩序・礼節の光線。我が日本神道も、この紫色光線の流れにあるそうです。自由・平等・博愛は大切でありますが、それが間違った方向に流されると、「無軌道」、「放任」、「悪平等」、「八方美人」といったものに成り下がってしまいます。秩序・礼節を軽んずるところから、そうした間違いが起きてくると思うのです。

     

    儒教を取り入れた徳川幕府が、曲がりなりにも300年間、この国を平和に治めてきた事実は重いです。現代日本を見てください。若者は老人に席を譲らず、子が親をバットで殴り殺し、若い母親がコインロッカーに赤ちゃんを捨て、中年世代は、若者から、おじんくさい、おばんくさいとバカにされ、言い返すと「大人げない。シャレがわからない」とさらにバカにされる・・・。

     

    こうした状況を見ながらも、「いや、自由ですからね。みな平等ですから。そんなことで怒っちゃいけません」などとしたり顔で語る物分りのいい大人たちが大勢いる。こんな状況がさらに続いていくならば、この国は間違いなく衰退していくことでしょう。

     

    青色はカントの理性色。智天使の光線。カントはドイツの哲学者です。哲学や思想もまた神の光線の一つなのです。要するに「非常に頭のいい」人たちの霊団です。ソクラテスやプラトンなどは、この青色光線に属しているそうです。

     

    2500年前の頃のギリシャには、ソクラテスやプラトンなどの智天使たちがひしめき合っていました。智を前面に打ち出したユートピア建設運動の地としてギリシャが選ばれたということなのです。決して偶然たまたま同時期にギリシャの地に頭のいい人たちがたくさん生まれたわけではなく、天上界の計画、神の計画があったということなのです。九次元の霊人では、ゼウスとマヌが、青色光線を担当しているとのことです。

     

    緑色は老子の自然色。調和の光線です。老子や荘子などが緑色光線の代表的存在なのだそうです。「ゆとりの哲学」と考えていいと思います。九次元霊では、マヌとゾロアスターが緑色光線を担当しているそうです。儒教と老荘思想は対立して来ましたが、実相を見れば、どちらも神の七色光線の一部であって、決して敵同士ではなかったということなのです。

     

    いずれの光線についてもいえることですが、長所は、そのまま短所に転じていきます。老荘思想では、「無為自然」が長所なのですが、それが曲がれば、「努力しないことを正当化する教え」に変わってしまいます。こうした微妙なすり替えに注意する必要があると思います。

     

    そして銀色光線はニュートンの科学色です。近年ようやく、科学的真理と宗教的真理が一致するのではないか?という見解が、識者と呼ばれる人々にも徐々に認められつつあるようです。現代科学の最先端の仮説が、東洋の古代の教えと、ほぼ一致していたっ!、なんてことが明らかになってきたからでありましょう。ホンの何十年か前までは、科学と宗教は相容れないものだと考えられてきました。しかし、科学もまた神理なのです。科学と宗教、本来は、対立するものではないのです。

     

    以上のように、神の七色光線の意味を知ったとき、今まで対立していると信じていたものが、本来は一つのものであったということが理解できると思うのです。

     

    一つのたとえ話です。人体は、頭、胴体、手足と内臓諸器官で構成されています。さて、手と足とどちらが偉いのでしょうか?肝臓と肺臓、どちらが偉いのでしょうか?手が足を嫌って、切り離そうとしたらどうなるでしょうか?目が鼻を馬鹿にして、鼻が口を馬鹿にして、人体を構成するそれぞれが反目し合っていたならば、どうなるでしょうか?

     

    人体を構成するすべてが、人体にとっては大切なのですよね。胃は心臓の代わりを果たすことができない。同様、心臓は胃の代わりを果たすことができないのです。それぞれがそれぞれの役割を受け持っていて、その役割を忠実に遂行して、なおかつ全体としての調和が取れていてこそ、人体は正常であるといえるのだと思います。

     

    神の七色光線も同じことではないでしょうか?個性(※色)が違うということで対立するのではなく、黄色は黄色として、白は白として、赤は赤として、それぞれの個性を活かしながらも、全体の調和を保っていくことを心掛けるべきではないかということです。敵対関係ではないのです。神の光を構成する仲間なのです。このことを深く考えていただきたいと思います。

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