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人を愛し、人を生かし、人を許せ 00021>メインページへ 20050919 00021 人を愛し、人を生かし、人を許せ
慣性の法則
過去は過ぎ去り、もう存在しないけれど、過去世から現在に到るまでの言動のすべてが、現在・未来の自分自身の方向性をある程度決定しています。これは物理学の「慣性の法則」と同じで、魂にも傾向性があるということなのです。習慣といってもよいでしょう。
転がっているサッカーボールは、何の障害もなければ、ずっと同じ方向に転がり続けようとします。反対方向に転がそうとするならば、反対方向から力を加えなければなりません。ブレーキをかけても、直ぐに自動車が止まることができないのも慣性の法則が働いているからです。心の法則も物理の慣性の法則と同じようです。
「過去はない!」・・・・・・、とはいうものの慣性の法則よって、人の心は過去と同様の傾向性を持って、現在・未来を突き進もうとするのです。よき習慣を築いてきた人は、今後も神の心に適う生き方をしていくのが容易であります。
しかし悪い習慣を築いてきた人、神意に反した方向に突き進んでいた人が、心機一転、「さあ、今日から神意に適う生き方をやるぞ!」と誓っても、慣性の法則が働いているので、神の方向に向かって努力しているのに、現実的には、事態がいっこうに好転して来ないような状況がしばらく続くのであります。この不遇の期間を耐え忍んでいかなければ、どうしても事態は好転してこないのです。身から出た錆。撒いた種を刈り取るのは自分だということです。
アングリマーラは心を入れ替えて、仏弟子としてやり直そうとしていきます。宗教的な目で見れば、おそらく彼は、この時点で救われていたと思います。つまり、心の針が、闇から神の光の方向に向きを変え、神に向かって前進を始めたのです。しかし世間は黙っていません。彼に身内を殺された者たちの恨みは消えません。
仏弟子になった途端、殺人鬼が一夜にして善人に生まれ変わったなどと誰も信じません。彼が托鉢にきても、彼の悪行を知る人々は、彼をまともな修行僧として扱いません。石を投げつける者、口汚く罵る者ばかりです。そんな日が何日も何ヶ月も何年も続いていきます。これを耐え忍ばない限り、自らが他人にかけた迷惑を清算することはできないのです。
自分の心境がクラッと一転して神に向かって救われたとしても、慣性の法則はまだ働いていて、現実面において事態は何一つ変わっていないのです。現実面まで光明化していくためには、地獄に向かって進もうとする力を打ち消し、神に向かうところまで逆転させて、さらに地道な努力を延々と続けていく必要があるのです。
いったん失った信用を取り戻すためには、はじめに信用を得るまでにした誠実な努力と同じ程度の努力をするだけではダメなのです。その何倍もの努力が必要になってくるのです。アングリマーラは、毎日石をぶつけられて血まみれになって托鉢から戻ってきたそうです。辛かったと思います。しかし、彼が犯したあまりにも大きな罪を償うためには、そうした期間というのがどうしても必要なのです。
たとえ自己反省は終わったとしても、他との和解が終わるまでは、彼自身の良心も、周囲の人々も、どうしても彼を許すことができないのです。ある面から見れば、これは試しの期間といえるでしょう。仮出獄した者には保護観察の期間があるそうですが、そうした期間というのが必要なのです。
そして色んな試しを受けても、耐え忍んでいる姿を見ているうちに人々も、彼の改心が本物であることに気づいていくのです。反省も大切ですが、反省を教訓に変えて、同じ過ちを繰り返さない努力がさらに大切になってくるのです。その姿勢を周囲も、彼自身の良心も見守っているのです。
いったん悪に流れた者は、悪に引き戻されやすい。それは慣性の法則です。だから、悪に向かう力を打ち消してしまうまでは予断を許さない状況が続くのです。そして、人々が石を投げ続ける間は、自分の罪はまだ許されていないと思って、それに耐えていかなければならないのです。
「石を投げつける相手が悪いのではない。自分が悪かったから、石を投げらつけられるのだ」、「一生かけても償えないのならば、その時はあの世でも償い続けよう」。これぐらいの覚悟でなければ、おそらく耐え忍ぶことができないでしょう。悪の道に流されることは、これほどまでに代償が高くつくのであります。
・・・・・・そしてアングリマーラは耐え忍び、やがて尊者アングリマーラと称えられるまでになっていったのです。不殺生のことを「アヒンサー」というそうですが、それはアングリマーラの名前が由来となっているようです。
自己反省と他人との和解
単に自分のことだけ反省すれば、過去のすべてが黄金色に変換され、今も未来もバラ色かというと、そうは問屋が卸さないのです。それはアングリマーラが改心してからの世間の仕打ちを見てもわかることだと思います。
「他人」との関係における過ちに関しては、単に反省するだけではすまされない要素があるのです。つまり、相手の心の傷が癒されていない場合、相手の苦痛・苦悩の原因はこちら側にあって、その責任を取る必要があるということなのです。それが「他人に対して和解すること」であると思います。
過去の過ちというものは、「反省」と「和解」、この二つの面から清算していくものなのです。過去において、自分の言動によって、誰かの心を深く傷つけたとします。自分の言葉のナイフが相手の心を深く傷つけたため、相手の心から血が流れ出ているという状態に気がついたなら、私たちはどうすべきなのでしょうか。ただ自己反省だけをしていれば許されるのでしょうか。私はそれでよいとは思えないのです。
私たちの言動によって、相手が傷ついているのならば、言い訳や弁明の前に、「お詫びをして、許しをこうこと」、最低限度これだけのことはする必要があると思うのです。これは義務というよりも、人として自然な「気持ち」「心情」なのではないかと思うのです。
自分の言葉や行いが原因で、他人が苦しんでいることを知ったならば、「ああ、すまないことをした。どうにかして許してもらいたい」と思うのが人間の自然な心情ではないでしょうか。そして、大切なことは、その思いを相手に伝え、和解していくことだと思うのです。
自分のせいで相手が苦しんでいるのを見て、「すまないことをした」という感情が心の底から湧き起こってこない状態というのは、人としてどこかおかしいのではないでしょうか。
あるいは、自分のせいで相手が苦しんでいるのに、そのことにまったく気づくことがない場合もあります。これなども、心のどこかがおかしくなってしまっているのだと思います。人を思いやる心を持っている人であるのならば、相手のちょっとした表情や仕草で、相手の心の状態をある程度読み取るものです。
自分に対する反発の雰囲気や怒りの波動を感じ取ったなら、「何か気に障ることでもしたのかな」と思って、自分の言動を振り返るものです。これがまったくできない人は、おそらく自分のことばかり考えている人で、周囲に対するに配慮に欠けているのです。これが極端にまで行ってしまうと、もはや反省することもできなくなっていくでしょう。神の慈悲である反省ができない状態というのは、相当深刻な状態であります。
もちろん、己が他人に迷惑をかけていることに、まったく気づくことができないときもあります。気づかぬうちにかけている迷惑というのは、おそらく、相当あると思います。だからこそ、「迷惑をかけてはいまいか?」と、できるだけ気を配る必要があるのです。
また、逆に、自分が他人から傷つけられた場合は、「お互い様」という気持ちで、水に流してしまう努力をすることです。これも難しいことです。しかし、これが私たちの大きな課題なのです。どこまで許していけるか?ここを見れば、その人の心の豊かさ、練磨度がある程度分かります。
人は、努力によって「許し」の許容範囲を広げていくものなのです。あるいは寛容の精神を養っていくものなのです。小さなことで目くじら立てて怒っているようでは、正法の実践者ということができないと思います。
たとえば、10万円の詐欺にあって、滅茶苦茶に怒り狂う人もいれば、「いい勉強になった」と考えて、今後の教訓にして、もうそれで終わりというような人もいるのです。どちらが立派でしょうか。どちらを目指すべきでしょうか。
普通の人ならば激怒しているような目にあっても、柔和な態度で受け止め、心にもまったくしこりを残さないような人、そういう人を目指したいものです。
究極の理想はイエス・キリストのような心境でしょう。しかし、それは一足飛びに達成されるものではありません。おつりが出てこないと言って、カンカンに怒って、自動販売機を蹴り飛ばしているような人は、まず、そこからです。レジの順番を抜かされたと、大声で文句を言って喧嘩をするような人は、まずそこからです。
「許し」の許容範囲の枠は、自らの経験の中で少しずつ広げていくものなのです。万巻の書物を読んだところで、許しの心や寛容の精神を養うことはできない。今日小さなことでカンカンになって怒っている人が、本を読んだだけで、明日イエス・キリストのような心境になることは、まずあり得ない。
日々の生活の中で体験する数々の不条理を、大きな心になって呑み込んでいく、こうした努力の積み重ねが、心を柔軟にしていき、少々のことがあっても動じることのない人間に成長していくのだと思うのです。
今の心境で、どうしてもこれ以上は「許せない」という線が誰にでもあると思います。その線の高さ低さは人それぞれでしょう。しかし、立派といわれる人にだってその線があって、その線を越えてきたものに対しては、やはり怒りを抱くことだと思うのです。
レベルは違っても、一人一人に限界の線があって、その線に近づいているときは、皆が深刻な状況にあるのです。その線を少し越えるような出来事が起こったときが正念場です。そこで怒ってしまったら進歩はないのです。そこを耐え忍んだ時に、許しの許容範囲が少しだけ広がるのです。これを少しずつ積み重ねていくことです。
どうしても許せないことなら、今の時点で、自分の心を偽って無理に許す必要はない。聖人君子ぶる必要はないのです。それは一種の虚飾です。怒るべき時だってあるのです。イエス様でさえ怒りを露わにされたことがありました。
究極の目標が100点として、現状が50点の実力ならば、次の目標はとりあえず55点ぐらいを目指せばよいと思います。55点取れば大成功なのです。現状80点の人が80点のままでいれば、55点の人よりも高得点なのですが、現状維持しているだけだから、努力していないという点において失敗しているのです。
55点、それでいいのです。何事も段階を踏んで高みに上っていくものなのです。「許しなさい」と説教されて、「はい、許します」と簡単にできないのが人間です。どうしても許せない時に、無理やり押さえ込んでしまえば、結局心に毒を食らうことになります。
時には、怒りを爆発させることも仕方のないことでしょう。そして、怒りの空しさを味わい、また、その場所からやり直していけばよいのです。三歩進んで一歩下がるぐらいの地道な前進が、かえって近道になることが多いのです。
このように、自分が加害者の立場の時は、心から謝罪して許しをこう。自分が被害者の時は、自分にできる範囲を少し越えて、相手を許していく。これが相手に対する和解の基本姿勢ではないかと思います。
自他一体の真理
なぜ、私たちは「愛の精神」や「許すこと」を学んでいかなければならないのでしょうか。その根拠は「自他一体の真理」にあります。何十億年も昔、銀河のある場所で偉大な神霊が、人類の魂を創るために、その意識を個性ある光として散乱させた。これが人類の起源だそうです。
つまり、人類は偉大な神霊の分霊であるということなのです。本来ひとつのものであったということなのです。この人類の魂を創った偉大な神霊も、実は、さらに高次元の神霊によって創造されているようです。そして、さらに高次元の神霊は、それよりもさらに高次元の神霊によって創造され・・・・・・、といった感じで、根本神の次元は、一体何次元になるのか、これはもう人間のモノサシでは計り知れないものなのです。
しかし人間と根本神との間に、どれだけの次元差があったとしても、人間が神の分け御霊であることには変わりがありません。
人間一人一人が神の意識を構成する全体の中のかけがえのない一部分なのです。人間の肉体でたとえるなら、Aさんは神霊の人差し指、Bさんは右耳、Cさん左眼といった感じです。もし自分の指一本でも欠けてしまえば、私たちは嘆き悲しみます。
偉大な神霊にとっても、人類一人一人が大切な自分自身の一部分なのだと思うのです。どの人も大切な神の子なのだと思います。ジグソーパズルは何百何千というピースから成り立っています。ワン・ピースでも欠けてしまえば、完成することができません。一つ一つのピースが唯一無二で、意味があるのです。 こうしたことを筋道立てて考えていくと、人間はみな神の子であって、神という根っこにつながっているのだから、別々の存在に見えるようで実は一体なのだということが理解できます。
たとえば、日本列島と中国大陸とアメリカ大陸は、別個のもに見えます。しかしもし海の水が蒸発してしまったら、どうでしょうか。実はすべて地続きなのです。日本も中国もアメリカも、本来別個にあらず、すべてひとつの地球なのです。水面下ではつながっているのです。人も同じことだということです。しかしこれは理論です。
理論的に理解できるのと体得することは別物なのです。この区別をハッキリすることが大切だと思います。知行合一して本当に知ったということなのです。現在、精神世界とか宗教を学んでいる人々の多くは、愛や自他一体の真理についてかなり深いところまで知的に理解しているようです。それは一面非常に素晴らしいことであるのですが、「知」と「行」のバランスが崩れているという点で、非常に危険な状態にあるとも言えるのです。要するに頭でっかちですね。
ピアノの楽譜を見て、理論的には、その譜面通りに鍵盤を押して行けば、その曲を再現できるわけであります。しかし、それを実際に弾くためには、ものすごい努力が必要なのです。本当に弾けてこそ、その楽譜を本当に理解しているということなのです。実際弾くことができないのに、譜面を解説している音楽ものしり博士と自他一体を得意げに解説している宗教オタクとは、同じレベルだということです。
「自他一体の真理」も知的に理解するだけならば私たちでもできるのです。でもそれは本当に理解しているわけではないのです。そして本当に理解していないものを、さも理解しているような気持ちになって語るのは、非常に危険なことなのです。なぜ危険か。それは増上慢そのものだからです。
私たちがするべきことは、そうした偉大な真理を得々とお説教することではないのです。そうした究極の真理を知識として知り、いつかその境地にまで自己を高めていこうと決心し努力することなのではないでしょうか。「自他は一体だから、許しましょう」、言うだけなら簡単です。
でも、そう説教している本人の息子が誰かに意味もなく殺されたとしたら、その人はきっと犯人を許せないでしょう。できもしないことを聖人ぶって説教しても、身を切るような切実さが伝わってこないものです。現在の精神世界や新興宗教は、非常に表面的なものに流れている、そう感じます。
人を愛し 人を生かし 人を許せ
自他は別個に見えるけれども、実際はお互いが皆、心の奥底で神とつながっているということ、要するに、本来「自」も「他」もなく、在るのはただ神という巨大な意識体のみが存在しているということなのです。
この物質世界では、私たちの肉体は、明らかに別個の存在に感じられます。だから、五官だけでは、どうしても自他一体の真理を感じ取ることができないのです。しかし心の世界を見ることができる者には、霊の次元においては自他一体が真理であるということだそうです。 ということは、人間同士がいがみ合ったりしている姿というのは、たとえるならば、私なら私という肉体を構成している部分同士がケンカしているようなものなのです。内部分裂であります。
もし心臓が、手を憎んで、血液を送るのをストップしてしまったらどうなるでしょうか。もし手が逆襲して、心臓を引き裂いてしまったらどうなるでしょうか。肉体を構成する諸器官や手足などは、互いに協力し合ってこそ、肉体全体が生かされていくのです。心臓も手足も本来一体なのです。それと同様すべての人間も本来一体だと思うのです。他人を傷つけることは、結局は自分を傷つけているのと同じことになるのです。
自分が大切ならば、他人を大切にしなければならないのです。他人を愛することは自分を愛しているのと同じことなのです。自分と他人は相互に依存することで共に栄えていくことができるからです。「自分を愛するように、他人を愛しなさい」という教えの根底にあるのは、こうした自他一体の真理なのです。
まず、こうしたことを知識として知ることが大切なのです。しかしそれで終わってはならないのです。次には、愛の実践が大切になってきます。知と実践のバランスが大切なのです。実践することで「知」に「体験」が裏打ちされていき、本当の知恵になっていくのです。
「愛」も知的な理解だけでは、まだ本物ではないのです。幾多の辛酸をなめて、血の涙を流し、それでも人を愛することを止めなかった者たちだけが、本当の愛を知っているのだろうと思います。しかしそうした人ほど寡黙であります。
「巧言令色、すくなし仁」と申します。本当に愛を知る人は、べらべらとお説教するよりも、愛行に邁進していることでしょう。また、おそらく「私にはまだ愛を説く資格がない」という謙虚な思いが口数を少なくさせるのでしょう。
ともかく、愛にも段階があるということを知る必要があるのです。まずは知識としての段階。次に実践の段階。そして少しずつ少しずつ愛を高めて行くことです。究極の愛とは、慈悲だそうです。神の心、太陽の心です。ただ光を与え続けていく100%無償の愛です。ただ存在しているだけで、周囲が潤っていくような愛、これを慈悲といいます。
この段階は、いわゆる如来界の愛で、私たちの想像を遥かに越えた愛です。この段階の愛は、人間としての最終目標ではありますが、そこに至るまでには、一体どれだけの愛の階梯を登っていかなければならないのか、私たちでは想像することすらできないのです。
私たちは今いる段階からさらに上に登ろうとするとき、どうすればよいのでしょうか。いきなり100段階飛び越して行けるでしょうか。できないのです。まず次の段階を踏む以外に方法はないのです。とすれば、如来の慈悲の段階は、私たちの当面の目標とするには、あまりにも高すぎるのです。では、身近な次の段階とはどういう段階か。
私たちがこの段階以上に進むことは、まずありえません。これが実現の可能性のある段階なのです。この段階を一歩ずつ登っていくこと、この努力が、自らを高め、周囲を調和させていくことになるのです。
過去を「反省」によって黄金色に変換し、現在・未来を「愛」の実践によって築き上げていく。そしてキーポイントは常に「今」なのであります。反省も、愛の実践も、それらを実行できるのは常に「今」をおいて他にないのであります。神道でいう「中今」です。久遠の今であります。「過去・現在・未来は、現在をして一点なり」と申します。今という一点にすべてが集約している。
それゆえに、今という瞬間をつかみとること、ただ今に生きること、これがすべてのキーポイントになってくるのです。慣性の法則を正しい方向に向けることも、悪しき循環の連鎖を断ち切ることも、すべて「今」実行に移されない限り、永遠に夢物語のままだということであります。 トラックバックこの記事を参照しているブログ
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