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日志


反省 00022

>メインページへ  20050919 00022

反省

 

 

人生は

独りこの世のことならず

人生にこれ三相あり

過去・現在・未来の時間なり

過去は既に過ぎ去れども

心の過ちは残るなり

他人に対して和解をし

自分に対しては反省せよ

(P15~P17)

 

 

反省とは

 

 

神は、人間に心の自由を与えて下さっています。それ故に、人間は、自らの努力によって、神に向かって無限に向上していくことができるのであります。しかし反面、神意に反した思いを抱いてしまうというリスクも背負うことになったのです。

 

「一念三千(いちねんさんぜん)」といって、人の一念の中には、すべての想念世界が含まれています。如来界やあるいは、それ以降の世界にも通じているし、地獄の底にまでも通じています。神のごとき思いを抱くことも、サタンのごとき思いを抱くこともできるのが人間なのであります。

 

そして、大まかではありますが、各人の思いの平均値が、大体その人の悟りの段階を示しているのです。たとえば、菩薩であっても、肉体を持てば、一日中菩薩の心でいることはできません。様々な出来事に影響され、ある瞬間は、怒りの思いを抱いてしまうこともあるのです。

 

しかし、菩薩は、そうした不調和な想念を、直ぐに「反省」して、心を神の方向に振り向けるのです。また、時として、菩薩の心は如来界に通じていることもあるのです。そして平均してみると、菩薩の悟りの段階であるということです。

 

野球の打率と同じです。ある日は絶好調で、5打数5安打。また不調の時は、5打数ノーヒット。5打数5安打の時は、宇宙界の悟りです。ノーヒットの時は、地獄に通じています。しかし、年間を通じて見てみると、2割打者、3割打者、4割打者と、ランクがハッキリと分かれていくのです。3割打者だから、毎試合、規則正しく10打数3安打というわけではないのであります。

 

人の心も同様で、いつも思いの針を、神の方向に向けておくことは難しいのです。ある時は、天上界に通じ、あるときは、地獄に通じている。また、天上に向かっていても、如来界にまで通じることもあれば、霊界や神界止まりの場合もあります。

 

地獄に通じているといっても、地獄の最深部にまで通じている時もあれば、そう深いところまで通じていない時もある。このように絶えず、思いの針は揺れ動き、また思いの力は強まったり弱まったりしているのです。

 

結局、心の針の方向を、できるだけ強く神の方向に向けておくことが、私たちの努力目標だということなのです。そして、そうするためには、どうすればよいのか?そのための「反省」ではないかと思うのであります。心を省みて、思いの針がどちらを向いているか、どこまで届いているのかを点検して、絶えず修正していくことで、打率が上がっていきます。努力の分だけ、打率は上がっていくと思うのです。

 

 

反省は、神の慈悲

 

 

「可愛い子には旅をさせよ」と言います。可愛いからこそ、つい甘くなるものです。しかし、それが仇となって、子供の自立を遅らせてしまうことになる。だから、時期が来れば心を鬼にして、あえて子供につらい旅させる。それが結局は、子供のためになるのであります。

 

これは、神が人に自由を与えているのと同じことなのです。親は、子供を旅立たせることで、自由にします。しかし、家を追い出して、それっきりという気持ちではないのです。もし、我が子が失敗して苦しんでいたなら、いつでも手を差し伸べるつもりで、遠くでヤキモキしながら見守っているのです。しかし、少々のことでは、手助けしません。それは甘やかしだからです。

 

神は、人に自由を与えて下さった。しかし、「もう後は勝手にやりなさい」という意味ではなくて、絶えずあたたかい眼差しで人間を見守って下さっている。人が、もし間違った道にそれたとしても、「反省」を通して、再び心の針の軌道修正をすることができるようにしてくれています。神は、私たちに立ち直りのチャンスを与えて下さっているのです。そのチャンスは、「反省」を通してつかむ事ができるのです。

 

過ぎ去った過去は、確かに今は、もう存在していません。しかし、人間の思いや行為のすべては、「想念帯」という部分に記録されているようです。その証拠に、もう既に表面意識では完全に忘れているようなことでも、退行催眠によって、その記録を、ひも解いていくことができるそうです。

 

人間は、過去の出来事を、驚くほど細部にわたって記憶しているそうです。人の「想念帯」を読み取る力を持つ霊能力者から見れば、我々は何一つ隠し立てすることはできないでしょう。本人が忘れているようなことでさえ、読み取られてしまうのですから。

 

この「想念帯」のテープの記録を比喩的に表現すると、たとえば、神の心に適う調和された「思いと行い」は、金色に輝く文字でつづられているようです。不調和な各種の思いは、次のようです。否定的な思いは、灰色で。怒りの思いは血のような赤で。情欲はピンク色で。他人の粗ばかり探すような思いは、爬虫類の目の緑色で。臆病、不安、卑怯などの思いは濃いインクの藍色で。病念は壁土色で・・・・・・。

 

そして不調和な記録ばかりの人の想念帯は、それらの色が混ざり合って毒々しい灰色になっているようです。

 

人間は死後、まず、この「想念帯」のテープを再生して見せられるそうです。それは立体映像で、しかも心象風景までもが再現されるということです。陰湿ないじめに加担しているときの、自分の姿は、おそらく爬虫類のような目をしていることでしょう。人を攻撃してばかりの自分は、まるで鬼のような形相をしていることでしょう。

 

そして、こんな恐ろしい人間は、自分ではないと最初は思うそうですが、やがて霊界のスクリーンに映し出された映像が、明らかに自分の過去の「思いと行い」の再現であることを認めざるを得なくなって、愕然とするそうです。

 

こうした過去の灰色の記録は、もうどうすることもできないのでしょうか。犯した罪は、永遠に灰色の記録となって残ってしまうのでしょうか。それでは人には救いというものがありません。どんな聖者だって、この世に生を受ければ、必ず過ちを犯すのであります。まして凡人である私たちは、過ち多き人生を送って当たり前なのです。それで救われないというのなら、神も仏もないと思います。

 

しかし、救いはあるのです。「想念帯」の記録自体を消し去ることはできません。しかし、その不調和な想念を「反省」して改心した時、灰色の文字が、金文字に変換されていくそうです。かつての過ちを恥じ、心の底から「反省」して、知らず知らずに流れ落ちる涙が、灰色の文字を金色に輝く文字に変えてしまう。これこそ神様の慈悲でなくて一体何でありましょうか。

 

どんなに汚れた過去を背負ってきた人であっても、「反省」という神様の慈悲によって、「想念帯」の記録は黄金色に変換していくことができるのです。それまでは、マイナス材料として歴然と存在していた灰色の記録も、金文字に変換された時点で、プラス材料に転じて行くのであります。

 

言葉を変えて言うなら、不調和な想念は、光り輝く「神の子」を覆う黒雲です。しかし、そうした曇りは、「反省」によって取り除くことができるのです。光り輝くダイヤモンドであっても、汚れてしまえば光を放つことができません。しかし、表面の汚れを拭い去れば、再び輝きを取り戻します。

 

人の心も同じです。本来は「神の子」、光り輝くダイヤモンドです。しかし、間違った「思いと行い」で、心の表面に「神の光」を遮る暗雲を作り出しているので、本来の「神の子」の輝きが失われているのです。しかし「神の子」の本性は、その黒雲の奥側で、汚れなき姿のままで存在している。その黒雲を吹き払えば、本来の姿が現れるのであります。

 

ただし、「反省」は自分自身でやる以外に道はないのです。誰かが私たちの代わりにすることなど絶対にできません。たとえ守護霊であっても、私たちの代わりに私たちの「反省」をするなどということはできないのです。

 

 

他人に対しては和解せよ

 

 

さて、もし、過去に誰かの心を傷つけたのならば、どうすればよいのでしょうか。会うことができる相手である場合は、勇気を出して、直接詫びるのが最も善いそうです。「和解」することができなくてもいい。許してもらえなくてもいいのです。自分が悪かったと認め、相手に「反省」していることを知ってもらうだけでもいいのです。

 

そうすることで相手の心に突き刺さったままになっているトゲが抜け落ちることでしょう。しかし、どうしても直接会うことのできない場合もあります。そんな時は、心の中で真剣にお詫びすることです。真剣な思いであるならば、必ずや通じることでしょう。

 

そして、神仏にもお詫びして、「今後同じ過ちを繰返さないように努力します」と誓い、実際そのように努力していく。そして、もし今後、逆に誰かに傷つけられたとしても、かつての自分の過ちを思い出して、できるだけ許してあげる努力をすることだと思います。

 

もし、ここまで心の底から「反省」して、心の底から相手と神仏に謝って、許しを請い、今後正しい「思いと行い」につなげていくことができたなら、過去の過ちは、黄金色の教訓に、素晴らしい財産に転換されることでしょう。

 

 

日々、自らの心を探求せよ

 

 

結局、正法でいう「反省」とは、「神の子」としての本来の自分に立ち返っていくためのものなのであります。己の悪を見つめて、己の心の傷をえぐり、己を責め苛んで、絶望するために「反省」するわけではないのです。「反省」とは、自らの正しき心に問いかけること。自らの正しき心を探求して、「神の子」としての自分を発見して、それと矛盾している現状の己の「思いと行い」を改めていくためのものなのです。

 

では、「神の子」とは、どのようなものなのでしょうか。まず、これを知ることが重要なのであります。自己の内に明確な「神の子」の基準が確立されていない場合、正しい「反省」は、望むべくもないのであります。

 

もちろん、本来「神の子」なのですから、自分の心の声に耳を澄ませば、おそらく「神の子」が如何なるものか、ある程度わかることだろうと思います。しかし、我見、我流で心に内在されている「神智・仏智」に到達することは、なかなか難しいことだと思います。

 

「下手の考え休むに似たり」であります。自分という小さな殻の中で堂々巡りを繰返すことで終わってしまう場合が多いのです。「反省」を無駄な時間にしないためには、まず「神の子」とは、どのようなものかを知ること。そして、そのためには、「神理を学ぶにしくはなし」、なのであります。

 

古聖人の言葉や高級諸霊の言葉を学び、日々の生活で生かす努力を重ねているうちに、「神の子人間」がどのようなものであるかが、少しずつ見えてきます。

 

その時、今までの自分の姿を振り返れば、「神の子」である本来の自分の姿との間に大きなギャップを感じるはずです。これが意義のある「反省」なのです。そして大切なのは、「神の子」にふさわしくない自分に気づいたら、それを改めていく努力をすることであります。

 

「反省」そのものが、目的ではないのです。「反省」は、本来の光り輝く自分を取り戻すという目的のための手段なのです。「反省」して、本来の「神の子」としての姿との矛盾点を発見して、それを克服していくこと、これが目的なのです。本末を誤ってはいけません。「反省のための反省」ではないのであります。

 

「反省」して、己の心や行いの間違いに気づいたなら、心から神様にお詫びして、今後同じ過ちを繰返さないように日々努力していくこと、これが大切だと思います。

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