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    光の天使とは 00039

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    光の天使とは

     

     

    来世は次元の異なる世界にして 現象界の肉体を去りし諸霊の世界なり

    意識の調和度により 段階あり

    この段階は 神仏の心と己の心の調和度による光の量の区域なり 

    神仏と表裏一体の諸霊は 光明に満ち 実在の世界にあって 諸々の諸霊を善導する光の天使なり

    光の天使 すなわち諸如来 諸菩薩のことなり

     

     

    あの世に段階あり

     

     

    あの世の段階とは、「神仏の心と己の心の調和度による光の量の区域」だということです。これは、各人の心のあり方が、あの世において意識層をつくっているということであります。人の心のあり方は、神仏の如き心境から、魔王の如き心境まで様々です。

     

    この世においては、様々な心境の人々が、同じ時、同じ空間の中で、ごちゃ混ぜになって生活しています。しかし、あの世においては、同じような心境の者たちが、一つの意識層をつくっている、つまり、同じところに集まって生活しているということなのです。

     

    これは「類は類をもって集まる」法則とか「類は友を呼ぶ」法則と呼ばれています。この世でもある程度通用している法則ですね。あの世は、類友の法則が、非常に厳格に働く世界のようで、心境の高低による段階があるということなのです。

     

    神仏の如き心境の人々が集う世界、これは八次元如来界、七次元菩薩界といいます。こうした世界にいる人々が「光の天使」と呼ばれる存在なのです。非常に高い心境の人々であります。人類の指導者といってよいと思います。

     

    その下の意識層は、六次元神界と呼ばれています。この六次元の意識層の中にも、様々な段階があって、最も七次元に近い段階(※六次元上段階)にいる人々を阿羅漢(アラハン、アラカン)と言います。その中には、「諸天善神」という役目の人々がいるのですが、彼らもまた「光の天使」であります。

     

    彼らは、七次元菩薩界に入るための修行過程にあります。彼らの役割は、一言で言うならば「法の番人」であります。心の正しい人々を「魔」より守ること、そして諸如来・諸菩薩の活動を側面より応援していくことが、彼らの役目です。

     

    さらに 諸天善神あり 諸々の諸霊を一切の魔より守り 正しき衆生を擁護せん

     

    ただ、私たちの心が間違った方向に向かっている時、彼らは守りたくても守ることができなくなるということだけは肝に銘じておいてください。彼らの加護を受ける資格のある人々とは、神に向かう心を抱いている人々です。

     

    たとえ、今、悪の道に染まっている人であっても、その人みずからが、己の生き方を反省し、光に向かって進みたいという切なる思いを抱いたならば、その人はその時から、諸天善神の加護を受けることでしょう。今、暴力団員だからといって、神仏は見捨てないのです。

     

    また逆に、今、優等生、エリートだと自他ともに認めているような人であっても、心の向きが闇に向かっているのであるならば、天使たちは守りたくても守ることができないのです。そうした不調和な霊域に、天使たちは近づけないからです。心の方向性が大切だということですね。

     

    彼ら諸天善神は、もちろん、すべての衆生を守りたいのですが、心が闇に向かっている人々の意識に同通することができないのです。悪の道を自らの意思で歩んでいる者たちに対しては、絶大な力を与えられている彼らであっても、ただ黙って見守るしかないのであります。

     

    心だに 誠の道に かなひなば

    祈らずとても 神や守らむ (菅原道真)

     

    まったくその通りで、仮に神仏の存在を信じない人であっても、その人の心が、やさしくて、明るくて、謙虚で、感謝に満たされているならば、神仏はその人をバックアップすることでしょう。神様は、お供え物とか、うわべの祈りの言葉とかが欲しいわけではない。

     

    ただただ、清らかな心、明るい心、素朴で素直な心、謙虚な気持ち・・・・・・、こうした心を何よりも喜ばれるのだと私は思うのです。こうした心の状態の人は、ことさらに祈らなくても、霊域が調和されているので、常に天使たちが守ってくださっていますよ、ということですね。

     

    諸天善神には、たとえば、不動明王、摩利支天、八大竜王、大黒天、弁財天、稲荷大明神などがあり、それらは言わば役職名であります。不動明王という名前の一人の人間がいるわけではないのです。不動明王とは、心の正しき者たちを守護する天使のこと。こうした役割を持った諸天善神たちの総称が不動明王なのです。

     


    ●主な諸天善神の働き

     

    ●不動明王は、心の正しき者たちを守護する天使。

    ●摩利支天は、心の正しき者たちが過ちを犯さぬように善導する天使。

    ●八大竜王は、心の正しき者たちを守ると同時に、人間以外の一切の生物を統括管理し、生物相互の生存に必要な措置を講じていく天使。

    ●大黒天は、光の天使を側面から応援し、また心の正しき者たちへの経済援助と社会の円滑な運営をはかっていく天使。

    ●弁財天は、心の中に埋没している偉大なる仏智を開くための協力者としての役割を持った天使。

    ●稲荷大明神は、光の天使の命にもとづき、あらゆる情報を収集し、また正しき者たちを助けてゆく天使。その方法手段は、ある特定の動物霊を導き、彼らに神理を教え、その動物霊を手足のように使う。


     

    財運に恵まれたくて、大黒天や弁財天に願い事をする人々が多いようですが、諸天善神たちは、そういった御利益信仰に対しては、決して応えることはありません。彼らは金儲けの神様ではありません。

     

    もし、その祈りによって、財運に恵まれたとしたら、よほど注意しなければなりません。動物霊の類が、あなたの願い事をかなえた可能性が高いからです。最初はルンルン気分でも、やがて大変なことになっていくことでしょう。

     

    神仏は、まったく見返りを求めずに、地上の人々を導こうとしますが、地獄霊・動物霊たちは、与えた御利益に対して、常に忠誠心やお金や供え物などの見返りを求めます。少しでも機嫌をそこねさせてしまうと、今度は、不幸になるように導いて行くのです。一所懸命信仰していながらも、ドンドン不幸になっていく人々がいます。それは地獄霊や動物霊たちに翻弄されている姿なのです。

     

    「触らぬ神に祟りなし」と申します。

    盲信なのですね。狐や蛇の姿をした地獄霊を神仏と思い込んで、必死に祈っている。恐ろしいことです。

     

    諸天善神は、光の天使になるための修行段階にあります。この修行は非常に厳しいものです。人間社会でたとえるなら、諸天善神は、警察や軍隊の役割と考えてよいでしょう。特に、八大竜王や稲荷大明神たちは、動物霊を指導する役割を受け持っているので、非常に厳しい修行環境にあります。

     

    私たちは、日々、こうした天使たちに守られているにもかかわらず、そのことにまったく気づいていません。もし、彼らの陰働きがなければ、おそらくこの地上は、あっという間に地獄界の様相を呈することになるでしょう。彼らは、日夜、正しき衆生のために血のにじむような努力をしています。

     

    その身を挺して私たちを魔の手より守って下さっているのです。そのことに、日々感謝し、ますます精進していく気持ちを固めていくことが、人としての道だと思うのであります。

     

    神理を学びはじめた当初は、争いはいけない、たとえ相手が悪であったとしても、争ってはいけない、と杓子定規に考えてしまいます。そして、いわゆる戦闘系と呼ばれる天使たちを、したり顔で批判しているような人々も多いです。

     

    それでも、諸天善神たちは、陰で黙々とそうした批判者たちを、その身を挺して、魔の手より守るために戦っているのです。泣ける話です。我々はそうした底の浅い批判者になってはいけないのです。日々、守られていることに感謝し、正しき道を歩む努力をすることで、恩に報いていくことが大切なのではないでしょうか?

     

    天上界の諸天善神

    わが心に光をお与え下さい

    心に安らぎをお与え下さい

    我が心を正し 一切の魔よりお守り下さい

    日々のご指導 心から感謝します

    (祈願文より)

     

    祈りの言葉を単に形式的に唱えるだけではダメなのです。ただの形式ならばロボットにでもさせておけばいいのです。でもそうじゃない。こうした言葉をよすがとして、日々、天使たちに守られていることに思いを馳せる。心から感謝の気持ちを捧げる。そして、実生活において、精いっぱい努力精進していく決意を固めていく。

     

    こうした報恩感謝の精神が大切なのだと思います。

     

    祈りとは、神仏の心と、己の心の対話である。同時に、感謝の心が、祈りでもある。神理にかなう祈り心で実践に移るとき、神仏の光は我が心身に燦然とかがやき、安らぎと調和を与えずにはおかない。

    (「心行の前文」)

     

     

    ●「心の原点」よりの抜粋

     

     

    過去世と現世において自ら造り出した想念と行為の集約されたものが、現在の自分自身の本当の姿である。実在界の光の天使たちは、常にこうした私達を、温かい心で見守っているということを、忘れてはならない。

     

     

    商売繁盛を目的に、よく狐などを祭っている家庭や店舗があるが、欲望を満たすためだけの祭りをするというのは、非常に危険なことだといえよう。

     

     

    諸天善神といえども、不調和な心を持った人々の心のなかに居を構えている不調和な動物霊や地獄霊、さらに増上慢の魔王や阿修羅達を支配することはできないのである。なぜなら、人間は自らの心の王国の支配者であり、自ら不調和な想念と行為を修正しない限り、慈愛の光明に包まれることがないからだ。

     

     

    肉体舟は、本来一人の船頭(意識・魂)が支配しているのだが、その人間の心が不調和だと、地獄霊に支配されて、船頭は二人にも三人にもなってしまうのである。地獄霊たちが、耳もとでささやいたり、心のなかで話しかけるために、自分であって自分でないというような状態になってしまう。つまり精神分裂症のようになってしまうということである。

     

     

    暗い想念におおわれた人々を、諸天善神は守ることができないのである。それは、この地球上が修行場であるとともに、人間には個の生命としての尊厳があるからだ。

     

     

    光の大指導霊達が現れてくるというときは、すでに正法の力のない、末法の混乱期である。人々は心を失い、人間として生まれてきた目的や使命を忘れ去っているときだ。

     

     

    他人をかえりみないで、自分さえよければいい、というものの考え方をする者は、利己主義者で、自ら調和への道を閉ざして孤独な人生を送ることになろう。

     

     

    慈愛を他に与える心を忘れてはならない。慈愛の表現にもいろいろとあるが、報いを求めないで、社会人類の幸福に結びつく行為をすることが、本当の布施の心ということになる。労働奉仕、経済的奉仕、精神的奉仕の行動が、より良い社会を築き上げていく。それが各人の自発的な行為にある場合はなおさらだ。

     

     

    地上界に、神の福音を告げるために現われた光の大指導霊は、自らの人生の疑問にぶつかり、これでよいのだろうかと、その解明を自らなし、実在界の光の天使達の協力を得て、悟りの境地に到達していくのである。

     

     

    正法も、歴史の経過に従って、その弟子達や学者達によって、学問的にむずかしくされ、個人の見解でかえられてしまい化石化されてしまったということである。またその歴史のなかにおける権力者や指導者達が、大衆を支配するための方便として宗教を利用する、そのような間に正法が歪められてきたということもある。そうした、化石化された“法”の修正のため、使命を持って指導霊達が生まれてくるのだが、旧来の狂信者や盲信者達に迫害されたり、学者や権力者達によって阻害され、目的を果たすことができない場合も多い。

     

     

    教祖とかとり巻きとかいった連中は、大神殿であるはずの地球上に、屋上屋を重ね、浄財と称した不浄の金を集めて優雅な芸術的な建物を造り、祈る対象物を造り出して盲信者、狂信者達を迷わしている。また何人を折伏すれば救われるとか、何人を導けば病気が治るとかいって、脅迫している。そして大神殿、大仏殿と称する建物を次々と建設していくのである。

     

     

    貧乏しているからといっても、心まで貧しくならなければ、人間は本来豊かなのだ。生まれてきたときは、金をもっていないし、みな裸であったはずである。曼陀羅を首からぶら下げて、生まれてきたわけでもない。しかし皆、人間として生活している。太陽の熱と光、大自然の恵みの一切が、神の大慈悲の現われであり、それがまた心というものの姿ではないか。

     

     

    私達は、神の子なのである。一切の苦しみは、私達自身の心の在り方と行いで修正する以外、なくならないのだ、ということを自覚しなくてはならないであろう。

     

     

    正法は、人間の智恵によっては造り出すことのできない、不変の神理なのである。楽をして救われる道を選ぶのではなく、勇気と智慧と努力によって、自らの欠点を修正して苦しみの原因を除いたとき、神からの調和された光明によって救われていくということだ。

     

     

    神は罰など与えはしない。罰は、自らの心の在り方と行為の在り方が、中道の正法を踏みはずしたときから心に曇りを造り出し、それが神の光をさえぎったときに、現象化されてくるのである。つまり、罰は、自分が造り出しているということだ。それを受けないためには、苦しみの原因をつくらないようにすればよいのではないだろうか。

     

     

    自らの転生輪廻をとおして、私達の心のなかには、一切の人生に対する偉大な指導書が記憶されている、ということを知らなくてはならない。その体験された指導書をひもとくことが大事であろう。

     

     

    哲学化された仏典だけが正法ではなく、仏典の正しい意味を理解して行うことが、より重要である。

     

     

    原始仏教であろうと、原始キリスト教であろうと、それが神理であるならば、現代でも通用するのが当然でもある。インドのガンガーの河の流れが、昔も今も変わらないように、神理は不変なのである。変わってしまったのは、人間の心ではないだろうか。正法は、その時代の様相に合わせて説かれて行くが、根本は全く変わっていないのである。

     

     

    高橋信次先生の「心の原点」から、少し抜粋させていただきました。霊的な部分は、すぐに理解することは難しいと思います。しかし、それ以外の部分は、当たり前のことが説かれている。

     

    しかし、この当たり前のことが難しい(^^;。そう簡単にはできない。日々の積み重ねで築き上げていく以外に方法がない。今日学び、今日完成するというものではないのです。実績の蓄積、これが本当の力となっていく。

     

    最低でも10年間、コツコツとやってみる。正法は、たとえるなら、柿の種と同じです。それを手にしたとしても、その果実を今すぐに味わうことができないものなのです。柿ならば、種を植え、実りを手にするまでに八年かかるといいます。正法も同じだと思うのです。

     

    精神世界に興味のある人の多くは、この部分を勘違いしているように思います。すべてがインスタントです(^^;。神理の本を、さぁーっと読み流して、「はい、わかりました」「はい、悟りました」「私は神、あなたも神、ゆえに、私はあなたで、あなたは私」「許しましょう、愛しましょう」。キレイなことだけは言います。

     

    でも、本当に深いところは理解できてもいないし、実際に行動としてあらわれてこない。これは、神理の種を得た段階に過ぎないのですよね。本当に理解し自然な行動として出てくるまでには、この種を大切に育てていかなければならない。

     

    それは、柿の種を、今日植えて、明日、柿を食べることができないのと同じことなんです。最低でも10年、じっくり育てる。コツコツと積み重ねていく。こうした蓄積の期間を、すっ飛ばして、いきなり果実を手にすることは絶対にできないと断言してもよいのではないかと思います。

     

    瞑想かなにかで、ある時、一つの悟りを得て、喜びに満たされるかもしれない。しかし、その喜びは一生を通じて続くものではないのです。長くて10日で、また日常の世界に流されていくものです。少し悟ったぐらいで天狗になってはいけないのです。

     

    10日程度であやふやになってしまう悟りなど、誰もが体験していることなのです。それを鬼の首でもとったように「我、悟れり」などと調子に乗っていると、あっというまに増長魔にやられてしまうことでしょう。偉そうなことは、当たり前のことを当たり前にできるようになってから、言ったほうがよい。

     

    しかし、不思議なことに、当たり前のことが当たり前にできるぐらい成長すると、今度は偉そうなことが言えなくってくる(^^;。結局、偉そうな態度、尊大な態度、傲慢な態度を取っている人というのは、まだまだだということですね。

     

     

    補足 ―― 諸天善神について

     

    諸天善神を阿羅漢と説明しましたが、実は、例外があります。霊界の各次元の最上段階には、その上の次元から降りてきている人たちがいるのです。

     

    たとえば、実際は七次元菩薩界の住人なのですが、あえて、六次元神界の最上段階まで降りてきて、そこに住み、そこで六次元を指導しているような菩薩がいるのです。六次元のまとめ役みたいな存在と言えばよいのでしょうか。諸天善神の中には、そうした人々が結構多いという話です。

    Kommentare (8)

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    Bild von Anonym
    大和 春道 schrieb:
    ヨウスケさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
    ブログのほう、期待しています(^^)。
    DIL掲示板の書き込みも頑張ってください。ではでは。
    29 Nov.
    Bild von Anonym
    ヨウスケ schrieb:
    大和さん、
     
     ブログの立ち上げについてのアドバイスありが
    とうございます。少し勉強してみようという気になり
    ました。大和さんのブログなども参考にしながら。

     またいつもDILでの投稿読んでいただいていたようで、
    ありがとうございます。読者がゼロにならないかぎり
    今後も続けようと思っておりますので、よろしくお願
    いします。
    27 Nov.
    Bild von Anonym
    大和 春道 schrieb:
    ヨウスケさん、お久しぶりです。とはいっても、DILの掲示板で毎日のようにヨウスケさんの書き込みを拝見していますので、実は久しぶりといった感じがしません(^^;。コメント、どうもありがとうございます。これは、ブログというやつで、僕のようなパソコン音痴でもできます。また、設立も更新もすべて、会社の通勤の途中、インターネットカフェでやっています。非常に簡単です。ヨウスケさんも是非ブログを立ち上げてください。今までのヨウスケさんの膨大な文章を、ブログなどの形で残すべきだと思います。もちろんホームページでもいいのですが。北海道は、もうすごく寒いでしょうね。これからもよろしくお願いします。ではまた。
    26 Nov.
    Bild von Anonym
    ヨウスケ schrieb:
    大和さん、お久しぶりです。

    大和さんらしさが、たいへんよく出ていて、興味深いです。
    思想的には、私とは方向性が微妙に違いますが、正法
    神理を発展させようという志に対しては、敬意を表します。
    まじめに神理を語り、議論しようという仲間が一人でも増
    えることは素晴らしいことだと思います。
    このHPでの大和さんの真摯なメッセージが機縁となって、
    菩提心に目覚めた多くの法友達が集うことを期待してお
    ります。
    26 Nov.
    Bild von Anonym
    佐々木宏明 schrieb:
    ロックを評価して頂いて、非常に嬉しいですね。最近はフュージョンのデオダートに戻りましたが、グランド・ファンクなどを聞いてると周囲から、理解出来ない地獄音楽だと言われてます(笑)。ただ、2歳の子供がロックの曲がかかると、誰も囃していないのに自然と踊るのですね。また、風邪で、ずーっと寝込んでいた子供がオーレンジャーの曲で、よろけながらも立ち上がってテレビの前で応援したという話も聞いています。ジャンルを問わずに楽しめるのは幸福の観点からも有利だと思います。

    所で、八正道のポイントは「正しさ」の見極めだと思います。では例えば中学生に八正道ができるでしょうか?高校生では?大学生では?社会人1年生では?結婚したら?子供が出来たら?中年なら?老人なら?死んだら(笑)?いったいいつになったら「正しい」に自信がでるのでしょう?片寄らない正しさを知る為には一度両方に片寄ってみる必要があります。では自分の人生で全部の両極端を体験してそれから片寄らない「正しさ」を体得出来るのでしょうか?

    釈迦教団は出家者の僧団でした。なぜ出家したかというと、観自在のプロになる為です。だから阿羅漢というレベルが霊道という現証が必要でした。所が、釈尊は、その後出家を戒めました。なぜかというと法が伝播されるとむしろそれを実践する在家者の存在が必要であり、出家は現実逃避に利用されるからでした。つまり、在家者はそのまま菩薩行への道が開かれているからです。そして我々は在家です。

    在家の我々は、法の概要が理解出来た時点でレベル的には阿羅漢です。であれば、我々に必要なのは八正道よりも六波羅密多でしょう。八正道は主に「思い」の点検に使います。出家者には重要な項目ですが、我々は日々社会生活で揉まれる存在です。であれば、布施波羅密多の和顔愛語や物施、法施など、あるいは持戒波羅密多の不邪淫や不妄語、不飲酒、そして羼提波羅密多などの研究と実践がより「実」がないでしょうか。

    例えば、不邪淫でも、イエス様の「汝、色慾をもって女性を見たるは、すでに姦淫したるなり」という言葉も、これが結婚後の男性に言われるなら道理ですが、これが結婚前の男性に言われるならそれは縛りでしかなく、不毛です。

    今世が在家の修行なら我々は今世、菩薩への道を歩いていると思った方が良いでしょう。であれば八正道という思いの点検と六波羅密多の実践項目を通して、「正しさ」の認識力を高めながら、世の中へ仕事を通して貢献するというのが本来でないでしょうか。信次先生時代、300人の霊道者がいました。それらの方々は、今、ほとんどおかしくなっていると言われます。なぜでしょうか?阿羅漢が目標だからです。霊道を開いて「我、偉し」となった途端に、皆、悪霊の餌食になったからです。私の家内でさえ霊道は開きました。見えたり聞こえたりしました。それはそれで、心が澄んでいたならそういう事もあるでしょう。では認識力という点ではどうでしょうか?世の病める方々に適切なアドバイスができたでしょうか?やはり、まだまだ未熟であると言わざるを得ません。

    特待生が学校を卒業して、すぐ名医になれるでしょうか?やはり誤診をしたり、患者様から教えられたり、自分自身の欠点を克服していって、それなりに体験をふまえて、はじめて名医と言われるようになりますが、それでも慢心したらそれで終わりです。
    我々も、その他、禅定波羅密多や精進波羅密多の実践項目に取り組んで、その中で発生する思いの点検に八正道という基準をもってくれば、日々認識力が高まっていくのだと思います。

    高校生よりは大学生、大学生よりは社会人、独身よりは妻帯者、従業員よりは経営者、中年よりは老人と徐々に認識力は上がっていきます。(中には例外もありますが。)法の概要が理解出来、世の中にいて、何か人の役に立つ仕事を通して、認識力を高めていく過程は、すでに阿羅漢を越えて菩薩への道を歩いてると思います。少なくとも僅かばかりの霊能力を期待して反省禅定で悪霊に翻弄されるより、安全な道程でないでしょうか。
    15 Nov.
    Bild von Anonym
    大和 春道 schrieb:
    佐々木さん、コメントありがとうございます。なんか、書き込むまでに、いろんな関門があるようですね。ごめんなさい。これに懲りず、また書き込んでください。

    佐々木さんも、以前から八正道の難しさを指摘されていましたよね。いろいろ教えてください。

    ジャクソン・ブラウン聞きましたか(^^)。バーボンをロックでですか。いいですねえ(^^)。確かに、ボトルネック奏法の南部フィーリング漂う曲が収録されています。昔、南部の黒人たちが、バーボンなどのボトルの首の部分を切り取って、それでギターの弦に触れてスライドさせながら弾きはじめたんですよね。ジャクソン・ブラウンのその曲は、コテコテのブルースではなくて、やはりメロディーが美しいんですよ。メチャクチャかっこいいです。ライナーノートに、「道端で、まるで辻説法でもするかのように歌っているような感じがする」って感じのことを書いていましたが、確かにそんな雰囲気もあります。まるで吟遊詩人ですよ。

    ロックといえば、ある宗教の教えでは、悪魔音楽だそうですが、僕は違うと思います。確かに悪魔崇拝のロッカーたちもいることでしょう。でも、それは一部です。世界中で、ロックやその他の流行歌を聴いて、いったいどれだけ多くの人々が、勇気づけられ、慰められていることでしょう。それは、クラシック音楽の比ではないと思います。たとえば戦後、国民に活力を与えたのは美空ひばりであって、高級なクラシック音楽ではありませんでした。もちろんクラシック音楽は、素晴らしいと思います。でも一般大衆のなぐさめは、やはりポピュラー音楽なんですよ。そうしたものを簡単に悪魔音楽だと切り捨てるなんて・・・、ったく「ふざけるな」って感じです。
    15 Nov.
    Bild von Anonym
    佐々木宏明 schrieb:
    ようやく書き込みが出来ました(笑)。パスワードを拒否され問い合わせたら、環境設定でcookie項目とセキュリティ項目の再設定を要求され、再挑戦したら連絡用メルアドで悶着が起こり、ついにekplorerからsafariに切り替えて語るも涙のゴールインです。さて、八正道に関しては、私も最近感じる所があるので、またゆっくり談義したいと思います。ところで、ジャクソン・ブラウンの新曲、聞いてみました。我々の年代は、岡林信康とかPPMのスタートだったので、何の抵抗もなく浸れます。バーボンのロックなどが合いそうですね。私は、フォークソングからハードロックそしてブルースへと進行しましたが、もともとは民謡でのデビュー?だったので、アコースティックには何か惹かれるものがあります。音楽はいいですね。
    14 Nov.
    Bild von Anonym
    大和 春道 schrieb:
    「心行編」、久々の更新です。以前は、神理の基本三部作をテーマにやって欲しいという要請が強かったので、意に反し、心行編、正心法語編を途中で打ち切り、いきなり「太陽の法編」に突入してしまったという経緯がありました。僕個人としては、「心行」というお経は、正法神理の基本中の基本だと思うので、まず「心行編」だと思っていたのですよね。ということで、まず「心行編」からボチボチとやっていきます。

    心行編で、一番困っているのは「八正道」についてです。できていない人間が語ることではないのですよね(^^;。また、信次先生の解釈とオーソドックスな解釈との相違点について、どのように説明していくか。ここも悩みのタネです。実は、こうした疑問は今に始まったことではありません。僕も僕なりに八正道を考えてきたのですが、あまりにも難しい!まったく進歩しなかったのですよね。これは僕自身だけの問題ではなくて、高橋信次先生の教えを学ぶ人々共通の悩みだと思います。実際八正道でアラハンの悟りに至った人が、どれぐらいいるのだろうか?少なくとも、僕の知っている人の中には、一人もいないのです。

    僕個人の現時点での考えでは、八正道とアラハンの悟りを結びつけることが、よくないのではないか?というものです。つまり、八正道は、どう考えても、よい教えだと思うのです。それを実践することは、絶対にすばらしいことです。ところが、八正道を実践したら、アラハンの悟りに至れるという前提で実践しているから、だんだんと苦しくなってきます。これだけ頑張っているのになぜ悟れないのだろう?やり方が間違っているのだろうか?こうした悩みに落ちてしまいます。大体、8割9割の人がダメなんですから、現実問題、八正道で悟ろうとすることは、たいていの場合ひとつの執着になっていくと思うのです。

    それよりも、悟ると悟らない関係なしに、八正道はよいことだからやるんだ、という発想に切り替えたほうがよいのではないかと思っています。僕自身は、そういう気持ちで八正道に取り組んでいます。
    14 Nov.

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