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    「神仙の人」ノート その39

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    「神仙の人」ノート その39

     

     

    贖罪

     

     

    日出麿の交霊現象について、ある人は神人のみ業であると言い、ある人は精神病のなすわざと考えた。王仁三郎から「あれは治らん」と聞いた人々はその言を信じつづけた。なぜか日出麿は、そう信じている人にはことさらにそのように振る舞って見せる傾向があった。それは中矢田農園のときから一貫していた。しかし、神人と仰ぐ人にはその片鱗をみせた。それはあたかも対者を映す鏡のようであった。

    おもしろいことに、日出麿を狂人とみなす多くの人々は、直日や楽天社の芸術を中心とする教団活動をひややかにながめ、時にはあからさまに非難し、妨害した。そして彼らは、立替え立直しは、そのような生ぬるいものではなく、対決による体制変革にあると信じた。直日の指導した宗教即芸術即生活というあり方は、魂そのものの立替え立直しという、まことにきびしいものであることが理解できなかったのである。昭和五十五年に起こった内紛の原因の一つはここにあった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P355~P356)

     

    昭和55年に起こった内紛・・・・・・、世にいう“第三次大本事件”のことである。この事件で、結局、大本は三派に分裂してしまう。それぞれの派閥にそれぞれの言い分があって、どの派閥が正しいのか、部外者の僕にはよく分からない(^^;。

     

    昭和13年の三浦博士の診断によると、日出麿師の症状は精神分裂症(※統合失調症)ということだった。しかし、照明館での日出麿師の行状や身体をみていたある医師は、精神分裂症ではないと思ったようだ。

     

    また、精神科医の権威といわれる斉藤寅吉博士は、日出麿師の染筆を見て、「分裂症にはこれは書けません」と言った。
    斉藤博士は日出麿師に興味を持ったのか、「私に診察させていただけないか」と側近の豊田秀満に申し出た。しかし、豊田の報告を受けた直日は、「診察の必要はありません」、「先生は神さまのご都合で、ああしておられるのですから」と返答するのであった。

     

    直日のいう“神さまのご都合で”とはどういう都合なのであろうか。これまでの王仁三郎の言葉や記述のなかでも、あるていど推察できると思うが、一言でいえば、日出麿の身を挺しての“あがない”を指している。“あがない”とは、他者の罪科(つみとが)をつぐない、埋めあわせることである。くわしくいうならば、霊界で罪科に苦しむ霊魂を救うには、神への祈念とともに、その霊魂と因縁のある者が、なんらかの形で、代わって罪のつぐないをせねばならない。その霊魂の負う罪の多寡、また救済する者の祈念力の大小で、“あがない”の規模、期間に差異はあるが、いずれにしても、この形はふまねばならない。このことなくして現界からの霊魂の救済はないといってよい。日出麿の場合、容易に浄化しがたい悪霊、邪霊をわが身に引きいれ、闘い、浄め、救おうとするのである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P359)

     

    側近の質問に対して日出麿師は、「憑霊は憑霊だが、自覚ある憑霊だ」と答えている。日出麿師自身、“交霊”現象が悪霊の憑依現象であることを自覚していたということである。

     

    悪霊たちの罪をあがなうために、あえて彼らを憑依させて、彼らの代わりに自分が苦しむ。そして彼らの罪を帳消しにする・・・・・・
    かつてイエス・キリストが、人類の罪を帳消しにするために十字架にかけられたように、他人の罪を帳消しにするため、自らが生贄(いけにえ)になって苦しむことを“あがない”とか”贖罪(しょくざい)”といいます。日出麿師も、その”あがない”をやっていたのではないかと思われるのであります。

     

    正法では“自業自得(じごうじとく)”といって、「自分で播いた種は、自分で刈り取らなければならない」と考える。要するに”自己責任の原則”を強調しています。
    「自己保存・自我我欲のままに生き、周囲を苦しめてきて、その結果地獄に堕ちて苦しむのは当然のことである。彼の罪を償うことが可能な人間は彼自身のみであって、何人たりといえども、彼の罪を肩代わりすることはできない」・・・・・・、と考えるのであります。

     

    だから正法を学んだ人は、「自己責任が原則ではないか? 悪霊たちの罪を日出麿師が身代わりになって償うことなんてできないのではないか?」と考えてしまう。

     

    この疑問については以前にも説明しましたが、もう一度簡単に説明しておきたいと思います。

    たとえば、ギャンブル好きのCさんが、借金が雪だるま式に増えてしまって、とうとう首が回らなくなって、死ぬほど苦しい思いをしていたとします。

     

    正法的に見れば、「借金をしたのはCさんだから、借金で苦しむのは自業自得である。この苦しみから逃れる方法は、Cさんが借金を返済すればよいのである」・・・・・・、ということになる(^^;。
    こんなのは当たり前の話しだ。しかし、正法者は往々にして、このようなアドバイスをして、「じゃ、頑張ってね」と帰ってしまう・・・・・・、これでは少し冷たすぎるのではないか(^^;。

     

    本当にやさしい人ならば、かわいそうに思って、借金を肩代わりしてやることだろう。つまり、日出麿師のやっていることは、それと同じだということ。他人の借金を肩代わりして、自分が借金で苦しむ・・・・・・、こういうことを霊的に行なっているということなのです。

     

    口先だけの正法者よりも、遥かに神様の御心に近いと思います。
    ただし、問題点がひとつ。それは「ギャンブル好き」という“心の傾向性(※カルマ)”を改善しない限り、根本的な解決にはなっていないという点。

     

    借金を肩代わりすれば、Cさんは一時的に救われるだろう。しかし、「ギャンブル好き」な性格がそのままならば、やがてまた借金で首が回らなくなってしまうことだろう。肩代わりするだけでは、本当の救いとは言えないのだ。

     

    本当の救いは、「ギャンブル好き」な“心の傾向性”を改めるところまで行かなければならない。反省して心を入れ替えることである。これだけはCさんが自身自身でやるしかないのであります。己の心の改革をするのは、他の誰でもなく、自分自身なのだ。こればかりは、たとえ日出麿師であろうがイエス様であろうが、絶対に肩代わりしてやることはできないのです。

     

    このように”贖罪”と”カルマの解消”は、”他力”と”自力”の問題でありまして、どちらか一方だけでは、本当の救いとはならない。自力と他力が組み合って、はじめて本当に救われるのだということをゆめゆめ忘れてはならないと思います。

     

     

    正法に不思議なし

     

     

    さて、日出麿師は、一切の係累を断ち切って非情の世界に没入し、このような尊い仕事をやっていたわけですが(※実際のところ、本当にそうなのかどうかは分かりませんが(^^;)
    信奉者たちは、「以前のように表舞台で先頭に立って教団を引っ張ってほしい!」とか、「これほどの人物を埋もれさせてはならない」とか、思っているものであります。

     

    時を同じくして、直日はこのように信徒に呼びかけた。

    「日出麿先生の現在の状況には、わたしたちでは判断がつかないものが秘められています。それで現在のあの人を、どういう神さまのおぼしめしかは、はっきり申し上げられません。ただ、今日(こんにち)、高い心境に立たれていることはいえます。

    しかし、現在のあの方をわたしは、静かにおいてあげたいのです。わたしの、日出麿への切実な気持は、誰にもわかってもらえないように思いますが、ただ夫としてでなくとも――大本事件解決の鍵を握り、大本のために、現在の状態にはいって行った偉大な人――として、心を配っていただきたいと思います。

    わたしは裏表のない、温かい、あの清らかな生漉(きずき)のような人間性を慕い、それに学んでゆきたいとおもっています。

    人間というものは、どこかに表裏をもって生きているものであります。よく修行のできた人でも、どこかに少しは、息抜きをする裏面をもっているものでありますが、あの人には、それがまったく見受けられませんでした。それは、あの人の生まれつきの天性のようでありまして、そういう、あの人の人間性のなかに、私は、高い<神性>を感じています。人間的にみて、ふしぎさを感じています。

    これは、いわゆる神秘といわれる一時的な超自然的な現象の至り得ない、高い真実の神秘であると私は思います。私は、世に、霊的に片寄りすぎた、それも、あまりに幼稚な動機の神秘観の多いことを思います。それが、よく、ただ奇妙というだけの霊的現象といわれるものに、自己の道徳性をおきざりにしたはかない幻惑を感じ、これを神秘と称されていることがおうおうあります。そういう気持のものとやや似かよった求め方で、あの人を、過去においても現在においても慕う人のあることを、私は、あの人のためにさびしく、気の毒に思うのです」

    また、つぎのようにも言う。

    「(日出麿先生は)未決で苦しめられた日の傷手(いたで)がのこっていられますが、それにしても、一般の人には計り知れない神秘がそのなかに動いていることは事実です。けれども、その計り知れないものを、人間心で、迷信化することはさけたいものです。あれだけの純粋な人としての偉大な過去をもつ人の現在の苦悩は、やがて明日の光明となるものを生み出されるべきであることを信ずるからです」

    (「神仙の人 出口日出麿」P360~P362)

     

    なかなか味わい深い言葉です。
    日出麿師の最大の魅力は、やはりその驚異の霊的能力にあったと思います。確かに霊的能力というのはひとつの“しるし”です。神仏の存在を垣間見させてくれる大きな力です。しかし、いつまでもいつまでもそれに拘泥していては進歩がない。

     

    「正法に不思議なし」と申します。これには二つの意味があると思う。

    一つは、「不思議に思える奇跡現象も、神様の定めた法則に基づいて起こっているのだ。今の科学では解明されていないだけで、本当は不思議でもなんでもないのだ」という意味。

     

    二つ目は、「正法は、日常生活の中で実践するもの。当たり前の生活が正法の生活なのだ。超能力とか魔術とか秘法とか、そういう突飛なものは、正法の生活にはまったく必要のないものなのである」という意味。我々は、この二つ目の意味での「正法に不思議なし」の心境を目指さなければならないと思う。

     

    霊的能力や魔術を利用して、うまく立ち回って、それで一体何になる? 得するだけじゃないか。楽できるだけじゃないか。テストの答えを透視して満点を取って、良い大学に入って、良い会社に入って、位人臣を極めて、それで一体何になる? 心は磨けたか? 豊かになったか?

     

    こう考えてみると、「霊的能力の濫用は、魂修行の邪魔をする」と思わざるを得ないのです。我々は、楽して、得して、出世して、わが世の春を謳歌するために生まれてきたわけじゃない。一言で言うならば、神様の御心を行なうために生まれてきたのであります。その努力の積み重ねが、魂を向上させ、地上をユートピア化していくと思うのです。

     

    霊的能力でカンニングして、うまく立ち回るなんて行為は、自己保存・自我我欲の最たるものであり、人生の目的と使命という観点から考えると、本当に情けない行為だと思われるのであります。

    マギー・メイ

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    マギー・メイ

     

     

    私は未だにこのシングルがどうしてここまで大きなヒットになったか分からない。この曲にはメロディーがない。十分な個性と見事なコードはある、けれどメロディーはない。

    (byロッド・スチュワート)

     

     

     

    (^^;。うーん、確かにメロディはイマイチかなぁ・・・(僕は大好きですけどね(^^;)
    この曲はサード・アルバム「エブリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー」(1971)からシングル・カットされて、当初はB面だったが、最終的に全英・全英の両チャートで一位を獲得している。ちなみにアルバムのほうも、全英・全米で同時に一位になっている。

     

    しかし、このユーチューブの「マギー・メイ」は楽しいねぇ。旧友ロン・ウッド(現・ローリング・ストーンズ)の参加もグレイトだ。曲が途中、「ガソリン・アレイ」に変わるところも泣かせる。お客さんたちも大喜び。
    2004年のライブだから、ロッドも59歳になってるというのに・・・・・・(^^;。若いというか、相変わらずおバカというか(^^。しかし、そのおバカなところが憎めないのだ。

     

    ロック界広しといえども”何をしても許される男”というのはこのお方ぐらいだろう(^^;

    色心不二(しきしんふに)

    >メインページへ 20091122

    色心不二(しきしんふに、しきしんふじ)

     

     

    一般的には<物心一如><心身一如>と称する。事物ないし身体(色)と心が不二・一体であることをいう。仏教の基本的考えかたからすると、事物ないし身体にしても、心にしても、それぞれ独立・固定の実体(我)をもって無関係に存在しているのではなく、無我・空のもとで、関係し合って不二であるとされる。

    (「岩波仏教辞典」より)

     

    古来より、唯物論者と唯心論者が論争を繰り広げてきたが、どちらも偏りすぎているのだ。この地上においては、心だけでも、体だけでも、駄目なのであります。心と体の相関関係をありのままに認め、一方に偏らず、両者を調和させることが大切。そういう精神で人生行路を歩むとき、心と体の相乗効果が生み出され、魂が大いに磨かれることになる・・・・・・、これこそが、この世に生まれ出てくる意味であり、”色心不二”という言葉の真意だと思うのです。

     

    ところで、“霊主体従”という言葉があります。これは、心と体の関係の本来のあり方を示す真理の言葉でありまが、一部の人々は字面にとらわれて、“霊主体従”だからということで、心だけを大切にして、肉体を軽視して粗末に扱う傾向にあります。これは大いなる曲解でありまして、この地上界においては、やはり、心と体は五分五分の関係でなければいけません。

     

    たとえば、人間と自動車の関係で考えてみよう。

    非常に優秀なドライバーがいるとする。そして、ものすごく性能の低い自動車があるとする。その力関係を見ると、9:1の比率である。

     

    このドライバーがその自動車に乗った場合、生み出される相乗効果は、9×1=であります。

    8:2の場合は、8×2=16
    7:3の場合は、7×3=21
    6:4の場合は、6×4=24
    5:5の場合は、5×5=25
    4:6の場合は、4×6=24
    3:7の場合は、3×7=21
    2:8の場合は、2×8=16
    1:9の場合は、1×9=

    このように、ドライバーの力量と自動車の性能が五分五分の時、もっとも大きな相乗効果が生まれるのであります。
    ちなみに、最高のドライバーがいたとしても、自動車そのものがなければ、10×0=で、相乗効果はゼロ。反対に、最高の自動車があったとしても、ドライバーがいなければ、これまた0×10=で、相乗効果ゼロ。

    地上における人間の心と体の関係も、これと同じ関係なのだ。

     

    心も大切にして、体のほうも、心の乗り物として大切にする。心がドライバーで、肉体は車。この両方が不二一体となって人生行路を歩む・・・・・・、これが地上における魂修行の形。ただ、あくまでも主人は心であって、体は乗り物に過ぎない。体とは、心を磨くための道具である。体のために、心があるのではない。心のために、方便として体がある。そういう意味で“霊主体従”ということなのであります。

     

    さて、“色心不二”を哲学的に考えて、「心も肉体も同じものだ」と、一元論的に考えてしまう人たちがいますが、そういうのは知に傾き過ぎている。もし心と肉体が同じものなら、肉体が滅びてしまえば、心も滅びてしまうことになる・・・・・・、そうではないのだ。

     

    この地上には地上のルールがあるであります。心と体が同じものなら、我々は母親から生まれて来る必要などない。あの世からいきなり物質化してくればいいのであります。

    でも、それは許されていない。人間はみな、母親から生まれてくるようになっている。魂は、三ヶ月ぐらいの胎児に宿るという仕組みになっているのだ(※たいていの霊界通信がそのように伝えている)。要するに、「心と体は別物である」ということなのだ。

     

    ただし、別物ではあるけれど、ドライバーと自動車の関係と同じで、“不即不離”の関係なのであります。この”不即不離”の関係を、”色心不二”と表現しているだけのことなのだ。

     

    “不即不離”と“不二一体”とでは、言葉としての意味は異なるけれど、そうした言葉の意味の違いに惑わされてはならない。そういう解釈をやり始めると、迷宮に迷い込むことになる。仏教が難解になってしまったのは、簡単なABCを深読みし過ぎるお坊さんたちのせいなのだ。

     

    ペンシルバニアのインテリ紳士の教訓を忘れてはならない。

    ペンシルバニアの或るインテリ紳士が後妻を貰った。紳士には親父がおり、後妻には一人の連れ娘があった。万事がうまくいってよく治まったのは良いが、余りうまく治まり過ぎてその結果、紳士の親父が後妻の連れて来た娘を後妻に直してしまった。そのためにわけがわからなくなったのが紳士であります。

    わが娘はわが父の妻であるから、わが母である。
    わが父はわが娘の夫であるから、わが子である。
    わが妻はわが娘と言う母の母なるが故に、わが祖母である。
    われはわが父と言う子の子なるが故に、わが孫である。
    わが父はわが子にして、わが娘はわが母である。
    わが妻はわが祖母にして、われはわが孫なり

    ということになって、とうとう頭が混乱して死んでしまった、というのであります。

    (「活学としての東洋思想」安岡正篤著P98)


    再婚相手の娘が、自分の父親と結婚した・・・・・・、たったこれだけの単純な事実を、難しく考え過ぎて、わけが分からなくってしまったのだ。知に傾きすぎると、こういうおバカなことになる。

    これと同じようなことをお坊さんたちはやってきた。その結果、仏教はわけが分からなくなってしまったのであります(^^;。

    日記風に その2

    >メインページへ 20091111

    日記風に その2

     

     

    近畿中心に大雨、警戒を=低気圧、太平洋側を東へ-気象庁

    11月11日9時25分配信 時事通信

     前線を伴う低気圧の影響で、日本列島は11日午前、局地的に強い雨が降った。特に近畿では、和歌山市で午前4時までの1時間降水量が同所の観測史上最大の119.5ミリを記録するなど、猛烈な雨となった。気象庁は土砂災害や河川の増水のほか、雷や突風にも警戒を呼び掛けた。
     低気圧は紀伊半島南部から静岡付近を経て東へ進む見込み。日本海側の北陸でも強い風が吹き、海上は大しけとなって高波に警戒する必要がある。 

    最終更新:11月11日12時35分
     
     
    今朝、といっても午前3時前後ごろ、雨音で目が覚めた。豪雨だ。それに風とカミナリ・・・・・・。
    朝、ニュースを見ると、記録的な雨だったとのこと。
    一応、記録しておくことにしよう。

    正法と占い

    >メインページへ 20091106

    正法と占い

     

     

    よく易を修める者は占わず 

    (※荀子の言葉らしい

     

    【占い】  個人や社会の災厄の原因を探ったり、紛争を解決したり、とるべき行動を決定するために、未知の事実やその意味を告げるしるしを自然現象や出来事に見出す行為。

    人形、賽(さい)、おみくじ、八卦などの小道具を使ったり、夢、手相、骨相を見たり、星の運行、鳥獣の鳴き声、天候など自然現象から判断したり、犠牲獣の内臓、焼いた骨の亀裂を見たり、憑依状態の人間の言葉や精霊のお告げを聞くなど多様な方法がある。

    神の意思を聞くという意味では、キリスト教、イスラーム教、ユダヤ教などの啓示宗教は占いを基本的に否定するが、完全に払拭されることはなかった。

    特にエジプトやメソポタミアなどでは、重大事項の決定は占いによって行われており、旧約聖書は占いに言及し、これを禁じている。

    新約聖書にはキリスト降誕を訪問した占星術の学者、占いの霊に憑かれた女などの記述がある。ギリシャ、ローマの古代社会でも、ゲルマンやケルトの地でも占いは広く行われていたため、キリスト教布教の時代に宣教者たちは信徒が占いの習慣を続けていることを頻繁に嘆いている。中世にも占いの習慣は消滅せず、異端審問の対象に挙げられている。

    (「岩波キリスト教辞典」より)

     

    【卜占(ぼくせん)  吉凶を占うこと。

    筮竹(ぜいちく)を用いる占いを<卜筮(ぼくぜい)>という。

    中国では古くから亀甲・獣骨・筮竹・星象・雲気・夢・干支などを用いた卜占が行われ、儒教の経典である「易経」はもと卜筮の書であり、また「周礼(しゅらい)」春官には太卜、卜師、卜人など卜占を掌る官職が周官として列記されている。

    仏教においては、卜占は衆生を欺き惑わす外道の妖術として否定され、智顗の「摩訶止観」巻4下にも、卜筮は修道を妨げる技能の一つとして排斥されている。

    ただし僧伝資料には、高僧が仏道とともに兼ねて陰陽(おんよう)・暦算(れきさん)に通じ、卜占を善くした事例がしばしば記されている。

    (「岩波仏教辞典」より)

     

    【易学と仏教】  原始仏教ではト筮や占いや呪術にたよることを禁止したが、後代の大乗仏教、特に真言密教では妥協的容認の態度が見られる。

    インドの仏教が中国に伝来した時、中国人がその教理を解釈理解し、教学として整理体系化するのに最も大きな役割を果たしたのは、いわゆる<三玄>(易と老・荘)の古典学術思想であった。・・・・・・(略)

    (「岩波仏教辞典」より)

     

     

    儒教経典の『易経』は占いの書

     

     

    正法では、基本的に「占い」を禁じている。正法は、自助努力を重視する教えだからである。
    安易に「占い」に頼る姿勢は、自助努力を放棄した過てる他力本願にしか過ぎない。

     

    では、なぜ、正法のあらわれの一つである儒教において、占いの書『易経』が重んじられているのだろうか?

     

    それは、「占い」の原点には、「神意を求める切なる気持ち」があるからであります。こうした切実な気持ちがある時、「占い」は必ずしも正法に反しているとは言えない、と僕は思うのです。

     

    つまりこういうことです。

    正法を学んでいれば、
    「いかに生きるべきか?」、
    「人としてどう考え、どう行動すべきか?」が、自分自身で判断できるようになる。”神様の御心”が那辺にあるかが分かるようになるのであります。そして、その通りに考え、行動することが正法の生き方だと言うことができるでしょう。

     

    たとえば、分かれ道があるとする。
    もし、右は天国に通じる道で、左は地獄に通じる道だと、自分自身で判断できるなら、誰だって天国に通じる道を選ぶだろう。こういう場合、”占い”の必要などないのである。

     

    しかし、正法を学んでいる人でも、どちらの道が正しいのか、どうしても分からない時があると思うのだ。

    どちらも正しいような気がする(^^;。
    どちらも間違っているような気もする(^^;。
    俺のレベルでは、判断できない。家族・先輩・友人たちに相談してみたが、誰も明確な答えが分からない。
    神様にも祈ってみた。「神よ、答えを教えてください!」と。でも、案の定、返事はない(^^;(^^;(^^;。

     

    こんなとき”占い”に必要性が出てくるということなのだ。ギリギリのところまで自助努力で頑張ったけれど、もうにっちもさっちもいかなくなった時、人は”占い”的なものに頼らざるを得なくなってくるということです。それが重要事項であればあるほど、そうなってきます。

     

    特に政治的な決断・・・・・・。古代のエジプト、メソポタミア、ローマ、ゲルマンやケルトの地、中国、また我が日本においても、国の大事を決定するときは”占い”に頼ったという。それが重要なことであればあるほど、人間心で決めるのが恐ろしくなってくるからだろう。

     

    「判断を一歩間違えれば、国が衰退し、多くの民衆が飢え死にするかもしれない」というような時、あなたならどうするだろうか? ホンモノの政治家ならば、何としてでも”神様の御心”を知りたいと思うはずだ。きっと神仏に祈ることだろう。そして神仏からの答えがないとき、卑弥呼のような霊能者にすがることになるだろう。霊言などで”神様の御心”を聞こうとする。あるいは、亀の甲羅を焼いてみたり、易占いにたよったりする・・・・・・。これが「占い」の原点だと思うのです。

     

    だから、”口寄せ”や霊言の類とか、自動書記とか、フーチとか、こっくりさんとか、こういうものは、実は全部”占い”の一種なのです。自分で判断できなくて、他のものに頼ることが”占い”だということであります。
    教祖の言葉、預言者の言葉、神理の書の言葉、こうしたものに頼ることも、拡大解釈すれば”占い”と同じことだということになるのであります(^^;。

     

    こうなってくると”占い”を否定することはできなくなってくるのではないでしょうか?
    ”易”は、そういうギリギリの選択を迫られた者たちが、神託を受けるための一つの方法で、『易経』の言葉は一種の神託だということ。宗教の信者たちが、教祖様から”神のお告げ”を聞いて有難がるように、儒教の人たちは、”易”で占うことで”神のお告げ”を聞いていた。だから『易経』が重んじられたのであります。

     

    儒学を体系化した朱子が次のような意味のことを述べている。

    「易は、人のために占って疑惑を断ちきるためのものである。道理としてこうすべきなら、当然そうすべきである。道理としてしてならぬことなら、してはならぬ。そういう場合、改めて占う必要はない。正しいことで道が二つに分れて迷うときにだけ占うのである。悪いこと、私欲のことについて占ってはいけない (「易」本田済〈ほんだ・わたる〉著)と。

     

    僕は、これはもっともな意見だと思う。正法を学んでいる人は、杓子定規的に”占い”を否定しているけれど、彼らとて、判断に迷うときには教祖に相談したり、神理の書を開いてみたりするのではないか? 自分の心に問い掛ければ、何でもかんでも答えが出るわけでもなかろう。そんなとき、霊能者の霊言に答えを求めたりしてるのではないか? それこそが実は”占い”なのだ。彼らは”占い”をすることをバカにしながら、実は、自分自身も教祖や巫女の”神のお告げ”に頼るという”占い”行為をやっているのであります(^^;。自己撞着もはなはだしいです。

     

    で、結論。
    「占い」の原点は、「神意を問う」ことにある。”占い”も正法の一部なのだ。
    教祖の言葉や巫女の神のお告げを聞くのと、基本的に同じだということなのです。
    だから、宗教家が、”占い”の原点まで否定してしまうのは、自分自身を否定しているのと同じことになっていることに気がつかなければならない。

     

    とはいえ、基本的には「”占い”には頼らない!」という気持ちが大切。だから原則、禁止が望ましいと思います。正法をコツコツ学んでいれば、たいていのことは、「どうすべきか?」判断がつくはずです。「自分で考えて、自分で決めて、自分が行なう」・・・・・・、これこそが魂修行の基本だということを忘れてはならないと思います。           

     

     

    占いの注意点

     

     

    ”占い”を行なう時は、必ず、霊界の何者かが干渉してくる。安易な気持ちで”占い”を行なう者には、それ相応の邪霊が干渉してくるということを忘れてはならない。

     

    だから、やむを得ず占う場合、「神様や高級霊や守護・指導霊の言葉を伺うのだ」という真摯な気持ちが大切だと思います。自己保存・自我我欲を満たすために”占い”を利用してはならない。心の針を高級霊界に向けておく必要があるという事。こうした気持ちが大切だと思います。

     

    また、そうした切実な気持ちで真剣に占ったからには、その結果が納得のいかないものであったとしても、「神の言葉」として受け入れなければならない。己が望む答えを聞くまで”占い”続けるようなことをしてはならない。それは冒涜行為にほかなりません。

     

    それと、占ってもらう場合、ホンモノの占い師に占ってもらうべきであります。”不幸の予言者”に引っかかって、運命を狂わされてしまう場合もありますから、本当に注意しなければならないと思います。

     

    ホンモノの占い師とは、正法の教えによって、人を良い方向に導くことができる占い師のこと。
    不幸を予知したなら、その人の「思い」と「行ない」をどのように改めれば、その不幸を回避できるのかを、的確にアドバイスできる占い師。
    不幸を回避することができないのなら、その不幸にどう立ち向かっていくか、どう受け流していくか、それをアドバイスできる占い師・・・・・・、

    こういう希望の告げる占い師こそがホンモノだと思います。

     

    しかし、そんな占い師がいるのだろうか・・・・・・(^^;。ま、できれば占ってもらわないほうが良いと思います(^^;。

     

    昔ある掲示板で、「タロットや易を独習している」と書いて、ひんしゅくを買いましたが、それは”占い”をするために学んでいるのではなくて、神理の学びの材料として学んでいるということです。特に、「易経」は”占い”の書でもありますが、それ以上に、大変優れた人生哲学の書という面があります。古来より東洋の賢者達は『易経』に学んできました。決してバカにできるものではないのであります。

     

    と言っても、僕には難しすぎて、万分の一も理解できていません。参考書として時間をかけてチビチビと片手間に読み続けて、少しずつ理解を深めていけたらなと思っています(^^;。

     

    ちなみに、僕は、安岡正篤師の易関連の本を読んでいて、”易”に目覚めました。それまでは、”易”に関わると”裏の霊界”に引き込まれるのでは?邪霊に魅入られるのでは?、と思い込まされていました(^^;。

     

    手引き書としては、「易」(本田済著)という本が良いのではないかなぁと思います。実はそれ以外に知らなかったりして(^^;。

     

    「我に数年を加え、五十以て易を学べば、以て大過なかるべし」

    (論語 述而篇)           

     

    昔から、東洋哲学をやる人が結局どこへいくかと申しますとほとんど易経に到達いたします。従って易経に首を突っ込むと一生ものだというぐらい学問の中では面白い、面白いといっては語弊がありますが、小にしてはわれわれの人生から、大にしては国家、人類の運命まで考えることができるたいへんな学問であります。

    (「易と人生哲学」安岡正篤著P81)

     

    「易に通ずる者は占わず」という言葉さえありまして、占う必要がないという見識になって初めて易学をやったといえるのであります。これは易学をやる者の忘れてはならないひとつの根本問題です。易学をやるということは、占を学ぶのではなく、占う必要のない知恵を得る、思索、決断力を養うということであります。

    (「易と人生哲学」安岡正篤著P209) 

    なぜか急に聴きたくなって

    >メインページへ 20091106

    なぜか急に聴きたくなって

     

     

    この曲が急に聴きたくなってCD買ってしまいました。

    80年代のメナードのCM ↓ 。

    いやぁ~、これが始まるとテレビの画面に釘付けになったもんです(^^;。

     

      

    「神仙の人」ノート その38

    >メインページへ 20091101

    「神仙の人」ノート その38

     

     

    巨星墜つ!

     

     

    昭和二十年八月六日、アメリカ軍は原子爆弾を広島に投下した。九日には長崎に。ソ連が八日に宣戦布告して満州(中国東北部)に攻め入り、関東軍は潰滅し、満州国は一挙に崩壊する。日本政府はポツダム宣言を受諾して十五日に降伏、九月二日降伏文書に調印して大日本帝国は終焉をむかえる。日出麿の、屋根に登る行為は、この時期を境にピタリとやむ。

    (「神仙の人 出口日出麿」P323)

     

    昭和20年9月8日、敗戦後の混乱のなか第二次大本事件にたいする大審院の判決が下り、治安維持法違反の無罪が確定。また10月17日には、政府が大赦令を出し、”国事犯”、”政治犯”を赦免。これにより”不敬罪”も消滅し、大本を拘束するモノはすべてなくなる。

     

    十一月八日、日出麿にたいする公判手続きがとり消され、二十日、京都地方裁判所で免訴の判決が言いわたされた。しかし日出麿の出廷はない。

    事件勃発から十年目、昭和二十年十二月八日に、綾部の神苑では”大本事件解決奉告祭”がおこなわれた。綾部、亀岡の神域は町から返還されたが、ダイナマイトの破壊の跡もなまなましく、足をふみいれるのがやっとという無惨な荒れようであった。それでも十年の長きにわたって”国賊”とののしられ、当局の圧迫と社会の白眼にさらされながら、それゆえ、むしろ一層つよく信仰の火を内に燃やしつづけていきた全国の信徒は、眼をかがやかせて綾部に参集した。しかし、ここにも大本事件解決の鍵をにぎった日出麿の姿はなかった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P324~P325)

     

    昭和21年、2月7日、大本は”愛善苑”として再発足。
    やがて、綾部・亀岡の両聖地の再建が始まる。血圧の高いのをおして王仁三郎が陣頭指揮をとる。しかし、八月末、脳出血で床に臥してしまう。

     

    こえて昭和二十二年(1947)も王仁三郎の病状は一進一退をくりかえした。

    そして翌昭和二十三年(1948)にはいってまもない一月十九日、王仁三郎は昇天する。大救世主と仰いでもまだ足りない出口王仁三郎聖師がこの世からいなくなろうとは。信徒にとって、それは信じがたい衝撃であった。しかし王仁三郎は午前八時前、水のひくように、しずかに息をひきとる。破天荒の人生を歩んだ巨人の七十六歳六ヵ月の大往生であった。

    その数日前、王仁三郎は、「わしの役はこれで終わりじゃ」と言った。そしてこの世にのこした最後の言葉はこうだった。
    「ぼたやん、ぼたやん。このぼたやんがなかったら、どんなもんじゃい」
    死の前日、穴太に住む上田正昭(現・京都大学教授)の母親である上田多美が持参した”ぼた餅”(お萩)をすこし食べたあとのことであった。そして昏睡状態におちる。天衣無縫、すべてを超越した王仁三郎の楽天的な最期であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P328~P329)

     

     

    日出麿、カンデイダ症に苦しむ

     

     

    急に咳きこんだ。昭和二十六年(1951)一月十九日午前十時である。一時間以上も連続的に咳がおそう。顔を真赤にして、ひじょうに苦しそうであった。出口亨(※側近)が背中をけんめいにさすったが効果はなかった。咳は止まらず、食欲がおとろえた。蜜柑のほかは、まったく食事を口にしなくなり、衰弱がめだった。医者は風邪だろう、と言う。しかし日出麿の身体は小児のようになる。水をすすめても飲まなかった。その知らせをきいて”すみ”と直日は胸を痛め、一日もはやく、亀岡に迎えたい旨を竹田に伝えた。命をうけた医師の浅井昇と本部に来ていた豊田秀満が、かけつけた。

    日出麿が亀岡に移ろうとしたのは、土蔵下の朝来の流れも吹雪にかすむ二月三日であった。

    その日、日出麿は亨に背負われ、豊田秀満がうしろを支え、和田山からよびよせた木炭車に向かう。母屋の土間の両側には竹田の信徒や町の人々がズラリと並び「センセイ、センセイ」と、すがるように連呼した。亨の背から、その人たちに手がさしのべられた。かけつけた町の人たちも惜別の情にたえず、泣きじゃくった。

    七年八ヵ月の竹田の住まいであった。日出麿を乗せた木炭車は、わだち一つない積雪のなか、煙をたてながら、白銀にかがやく山々をあとにした。

    (「神仙の人 出口日出麿」P335~P336)

     

    王仁三郎亡き後、多忙な二代教主”すみ”をたすけて神務に仕えることとなった直日は亀岡に滞在することが多くなっていた。そういう事情もあり、この病気をきっかけに日出麿師も亀岡に戻ることになった。

     

    昭和26年の節分の前夜、天恩郷に到着した日出麿師は、ただちに、しばらくのあいだ仮寓することになる照明館の二階に上がる。
    亀岡に戻ってから、病気のほうは小康状態を保つ。

     

    6月19日、疾病再発。38.5~40度の高熱と咳が七十余日間も続く。その間も日出麿師は正座のままで横にならず。体重は30キロをわる。精密検査の結果、”カンデイダ”菌が原因と判明。

     

    さて、当の日出麿はむし暑い部屋のなかに、高熱にもかかわらず、どうすすめても横にならなかった。しかも、診察した数人の医師の一様におどろくのは、これほどの高熱が長期にわたってつづくのに、心臓がすこしもおとろえず、胃腸障害も併発しないこと。また、熱とともに脈拍が高くなり死にいたることもあるが、脈拍も平常通り、という事実であった。それは医学上からも判断がつかず、常人とははなはだしく異なる肉体の持主であることが証明された。高須令三夫人の語るところによると、当時、日出麿を診察して帰るたびに高須は「すばらしいお身体だ。おどろいたお身体だ」を連発していたそうである。

    交霊と碁と染筆は、その病状のなかでもつづけられた。信じられないほどの強靱な体力と気力であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P340~P341)

     

    八月二十六日、病状は最悪の状態をしめした。

    知らせをうけて直日がかけつけた。そして、うつ伏せになった日出麿の背に手をおき、さすりながら、一心に「かむながらたまちはえませ」と唱えつづけた。

    三十分ほどしたときだ。日出麿は血膿を洗面器に一杯ほど口から吐く。それがよかった。これほどの大量の膿だと、肋膜に孔があいて、そこから膿が出る場合もあるという。そうなれば、命の保障はない。

    その日から咳がとまる。四十度もあった熱もみるみる下がり、やがて平熱にかえる。体重も日毎に増えた。

    (「神仙の人 出口日出麿」P342)

     

    病いが峠を越して二週間ほどした九月八日、サンフランシスコで対日講和条約と日米安全保障条約が調印された。対日講和によって日本は国際政治の舞台へ復帰することになったが、日米安保は、その後の日本の進路を定めたものといえる。単独講和によって日本の戦後史は大きな節を越した。連合軍総司令部は廃止され「被占領国」から「独立国」になったのだ。その六年前の同じこの月のこの日に、大審院で大本事件の治安維持法の無罪が確定している。

    (「神仙の人 出口日出麿」P343)

     

     

    果てしなく続く交霊

     

     

    それからの日課は、はげしい交霊はつづいたが、ほとんど、未明に起床、終日、囲碁の前に端坐して側近と対局して過ごし、夕刻は早く床に入るという規律正しいものであった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P344)

     

    交霊は一昼夜連続におよぶときもめずらしくなかったし、短時間で終わることもあった。面会者とのあいだに起こる、右のような数々の霊異は、交霊の最中にもみられたが、それらは日出麿にとっては、何でもないことのように側近には思えた。むしろ、日出麿の日々真剣に取り組む”主たるもの”は、目に見えないが交霊による”なにもの”かの浄化にあるとみられた。このころの交霊は、碁盤の前に正座したままで比較的おだやかにおこなわれることが多かった。それでも、あるときは、どういう意味か空中に指や掌でゆっくり輪を描いたり、霊を救うのであろうか、「ゆるす」と言ったり、両腕を開いてまるで地の底から何者かをひきあげるように腕をもちあげたりした。指先を激しくグルグル回したり、時には大声で何ものかを叱咤し、問答をした。激しいときは、それが速射砲のようにつづいた。すさまじい気迫であった。立って部屋を歩きながらの交霊もあって、つぎの間に控え、なれているはずの側近でも顔色がかわり、身体がふるえることがあった。

    こうした連日の交霊に、側近は日々耐えて仕えた。交霊が終わると、天国のような雰囲気に一変するとわかっていたからである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P350)

     

     

    二代教主すみの昇天

     

     

    昭和27年3月31日、二代教主”すみ”昇天。

     

    その危篤の法が全国をかけめぐったとき、高須令三は診察のため三河からかけつける。診察のあと、高須は、つい「お苦しいでしょう」「お寂しいでしょう」とあいさつした。心臓の肥大とぜんそくの発作で呼吸が苦しいはずであった。しかし”すみ”は、「なんの、なんの」と否定して、

    「こうして寝てるとなァ。小鳥がぎょうさんきて話しかけるし、この庭の木がみんなわしに話しかけて遊んでくれるで、楽しゅうて忙しゅうてのう」

    と答えた。獄中でもボッカブリ(ゴキブリ)を友達として”詩”に詠んだ人の臨終の言葉であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P352~P353)

     

    大きな人だったようだ。戦時下の獄中、食糧難の折である。あの王仁三郎でさえ痩せてしまったというのに、”すみ”は相変わらず太ったままだったという(^^;。いや、そういう意味ではなくて、大らかで明るくて天真爛漫で・・・・・・、といういう意味で。内外から”大地の母”と仰がれていたそうです。

     

    二代教主出口すみ

     

    芸術の才能があり、”すみ”が創案した”草木染鶴山織り”は美術的にも高く評価された。
    また”すみ”の天衣無縫の”書”は、書の大家たちや著名人たちを驚嘆させたそうだ。
    70年の生涯であった。

     

    四年(よそとせ)を馴れなじんだるぼっかぶり妻はまめなか子らは増えた

     

    獄中でのこと。ゴキブリの夫婦が毎夜やってくるので、弁当を少し残しておく。ゴキブリ夫婦はそれを食べてから、”すみ”の膝の上で遊んでから帰ってゆく。ある日から、一匹だけが、さびしそうにやってきて、そしてさびしそうに帰ってゆく。看守に聞いてみると、何日か前に、廊下で一匹踏み殺されていたという。

     

    ”すみ”はオスらしいゴキブリに語りかける。

    「嫁さん亡くしたんか、かわいそうやのう。早う次のもらいなよ」

    しばらくしてから、二匹やってきた。一匹が恥ずかしそうにして後ろからついてくる。どうやら嫁さんだ。再婚したようだ(^^;。

    「お、お前嫁さんになってくれたんか。こっちへ来い、こっちへ来い」

    しばらくすると近寄ってきて、夫婦で弁当の残りを食べ、膝で遊んでから帰っていった。その次の日も、次の日も・・・・・・。

     

    その後、大阪の刑務所に移ってから、京都の牢屋に残してきた友達のゴキブリ夫婦を思って詠んだ詩が、上の詩。

     

    このように、大らかさの中に、ゴキブリを思いやる繊細さを秘めている大きな大きな人物だったようだ(^^;。”すみ”の出獄後、ある婦人看守は、”すみ”を慕ってたびたび天恩郷を訪れたという。

     

    さて、”すみ”を失った悲しみの中、直日は大本の道統を継承し、三代教主に。同時に日出麿師は三代教主補に就く。教団名も”愛善苑”から元の”大本”に戻す。

     

    後に直日は道統継承の決意を次のように語っている。

    「私が小さいときから、祖母に聞かされていたこと、父や母から話してもらったことそのままに、世の中が、私の周囲がなってきています。世界の大きな動き、日本のこと、社会の潮流が、お筆先のままに変わってきています。これを神秘といわないで、この世のどこに神秘が存在しましょう。大本は理屈が下手でも、大きなみ力によって生まれてきたもので、そのみ力によって仕組まれ、守られて来たのであります。このみ力によって約束され、定められています故、わたし自身はつたなくとも、わたしは偉大な神の経綸とご守護を信じて、このお道を継がしていただきたいのであります」(「木の花」誌S28年2月号)

     

    直日の教主としての活動は、祈りと農と伝統芸術の研鑽に向けられた。

    大本の芸術活動団体は、まだ事件中の昭和十九年に王仁三郎によって”楽天社”と命名されたが、昭和二十四年にはいると、教団組織のなかに位置づけられた。直日はみずから短歌、茶道、能楽、絵画、書道、陶芸、八雲琴、織物などに精進し、奨励指導した。陶芸では当代の名工といわれる石黒宗麿、宇野三吾、金重陶陽、金重素山らが足しげく訪れ、他の分野での著名人が多数来苑した。

    その精進は、きびしくひたむきであった。宗教と芸術と生活の一致をめざし、ミロクの世のひな型として注目されるようになる。

    (「神仙の人 出口日出麿」P354~P355)

    矛盾は感じているが・・・・・・(^^;

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    矛盾は感じているが・・・・・・(^^;

     

     

    ●疑問点1

     

    ロシア革命のレーニンは、その思想においては誤りがありましたが、人民を救おうとする強い熱意があったため、現在は、五次元霊界の政治家の村に住んでおります。しかし、スターリンは深い地獄に住んでいます。彼が粛清を命じた多くの人びとの恨みの念波が消えるまで、スターリンは、そこから出られないはずです。中国の毛沢東は、わずかに善なる想いと行ないのほうが多かったため、現在、五次元霊界におります。

    (旧版「黄金の法」P87)

     

    歴史のことはよく知らない。
    でも、時々、調べたりすることがあるのだが、レーニンも毛沢東も、信じられないぐらい多くの人を殺している。もちろん彼らが直接手を下すわけではない。しかし、彼らが粛清を命じている以上、彼らこそが真の殺人犯だ。

     

    もし、彼らの大量殺人が真実だとするならば、彼らが現在、天国(※五次元の善人界)にいられるはずがないと思うのであります。
    僕は、おそらく彼らの大量殺人は真実だと思う。

     

    つまり、レーニンも毛沢東も地獄に落ちているのではないかと思っている。だから、旧版「黄金の法」の上記の部分がどうしても納得できないのだ。
    いったいどのように考えれば良いのだろうか?・・・・・・

     

    ●疑問点2

     

    最澄は、八二二年に亡くなりますが、それから千百六十四年が経過した現在(一九八六年)も、無間地獄で反省行に打ち込んでおります。

    (旧版「黄金の法」P151~P152)

     

    この部分も本当に考え込んでしまう。
    高橋信次先生の「心の発見 科学篇」196ページにお釈迦様の生命の本体と分身について書かれている。それによると、

    本体はお釈迦様で、

    分身は不空三蔵(705-774 真言六祖)

    天台智顗(538-597 中国天台宗開祖)

    伝教(767-822 最澄)

    空教(いったい誰やねん?(^^;)

    木戸孝允(1833-1877 維新三傑の一人)

    以上の六名で成り立っているらしい。

     

    つまり最澄(※伝教大師)は、お釈迦様の生命体の一部であると説かれているのであります。ところが大川先生は、その最澄が現在、地獄の最深部に落ちていると言う・・・・・・。これは悩みますねぇ・・・・・・。

     

    ちなみに高橋先生は、「空海の伝えた”密教”は真の仏教ではなく、バラモン、ヨギストラーと仏教がミックスされたもの」で、「空海自身も真に神理を悟っていなかった」といった意味のことを語っています。

     

    大川先生は、
    「最澄は本来七次元菩薩界の光の天使だったが、現在は無間地獄に落ちている」と言い、
    「空海は現在八次元如来界で、法の研究にいそしんでいる」と言う。
    また、”密教”については、「原始仏教に立ち返って、釈迦が始めて悟りを開いた頃の精神に戻ろうとする動きであった」(「黄金の法」P155)
    と考えているようだ。

    ※僕は、密教は真の仏教ではないと思う。お釈迦様は、マントラとか加持祈祷とかを否定していた。手印なども説いていないと思う。正法には、高額な伝授料を支払って学ばなければならないような秘密の教えなどないのだ。

     

    最澄と空海の評価が逆になっているのであります(^^;。
    これは困ったことだ。
    いわゆる”交叉証明”というヤツができていないのだ。同レベルの霊視能力を持った二人の霊能者が、あの世の”最澄”の姿を霊視したとする。当然、両者の霊眼に映る最澄の姿は同じであるはずだ。

     

    もし、正反対のことを言うとするならば、二人は同レベルの霊視能力とは言えず、一方が間違っているか、双方が間違っているかのいずれかである。両者が正しいということは、論理的にはあり得ない・・・・・・。

     

    どちらかがデタラメ、もしくはどちらもデタラメ(^^;。これはつらいですねぇ・・・・・・。
    宗教の難しいのはこういう点です。宗教組織に入ってしまうと、こちらが正しいのだから、それと違うことをいうもう一方は間違いである!、悪魔の教えである!、と断定せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。そして、くだらない論争やらが始まる・・・・・・(^^;


     

    その点、組織に属していない自由人である私たちは気が楽だ。
    「疑問は感じるけれど、霊能力のない我々には分からぬことだ。どーでもいいじゃん(^^;。大切なのは、自分自身が八正道の生活を心掛けることなんだから」と、気楽に割り切れるから。

    「神仙の人」ノート その37

    >メインページへ 20091021

    「神仙の人」ノート その37

     

     

    思い詰めてしまわぬよう身体を動かそう

     

     

    冬のながい但馬の郷に住む直日は、もちろん夫への心づかいに余念がない。同時に、ここでも農業に励むことで生計をたてた。木村町長の斡旋で畑十二アールが手にはいった。

    直日はかすりの着物ともんぺ、手拭で頬をつつみ、菅笠か麦わら帽子をかぶり、手甲に布きゃはん、手弁当で、早朝から四キロの道を通った。田植えや稲刈りはもちろんのこと、草刈り、肥くみから開墾まで数人の手助けの信徒とともにはげんだ。事件で受けた心の傷痕を作業で癒そうとするかにみえた。

    (「神仙の人 出口日出麿」P308)

     

    「・・・・・・故郷の綾部を離れ亀岡に移っていた私の心は粉々に砕かれましたが、なんとしても子らを育て夫を看護しつつ生き貫かねばと、山深く但馬竹田に越し百姓をすることにしました。そこでも特高刑事の監視がつづき、世人から訳もなく浴びせられる好奇的な冷たい視線に堪えねばなりませんでした。追われる獣のような暮らしに、夜は心がふるえ、とりとめのない夢もみた私の吐息は死を欲す思いさえこもっていたものを、つねに私を力づけてくれたのは第一に、幼子の母なる私への無邪気な仕種でした。

    それと、黒白のけじめは正されず、思わぬ陥穽への晴らし難い憤りを私は己を励まし渓ふかく篠茅萱(ちがや)を刈ることで忘れようとし、這うように畠を耕し麦播き麦踏むことなどで和らげようとしました」(※出口直日 談)

    (「神仙の人 出口日出麿」P309~P310)

     

    大本事件の裁判はまだつづいていた。直日はそのなかで農事に励み、茶道、書道、短歌、謡曲など伝統芸術の習得と指導にもけんめいな努力をした。夫への気配り、裁判、誹謗、生活の重圧のなか、たゆみない精進によって必死に生きようとする者のみが味わいうる真の”遊び”の境地が、切り開かれていったのである。直日は後年、こう書く。

    「わたしが農の暇に歌の道に精進したのも、また、大本事件解決のため弁護活動していたころ、きょうだいと茶の湯に遊びましたのも、農に生きつつ、生を楽しむためであり、茶の湯の遊びもまた同じです。

    世に生命(いのち)がけで絵を描くとか、生命を打ちこんで陶を作るというような言葉がありますが、生命がけで真に遊ぶことが、真剣に生きることにもなりましょう。それで人生に芸術的趣味をもつことは人生を真剣に豊かに生きてゆくために欠くことのできないものとおもわれます」

    (「神仙の人 出口日出麿」P311)

     

    「昭和十九年のころには、私たちの住んでいた静かな田舎町にも、たびたび空襲警報が発せられるようになり、人々の心はひからびてしまい、他人の行動をいちいちうるさく干渉した時代でした。この時分に個人の自由とか、趣味などということはもってのほかで、稽古事でもしようものなら、こんな時節になんたることかと、すぐ非国民呼ばわりされるころでした。ことに田舎の人の口はうるさく、また私たち一家は”大本教”で、王仁さんの子や孫ですから、人々の注目を、よけい浴びていました。そういうなかで、母は土蔵にはいって謡曲をうたったり、十三絃を弾いたり、鼓をうったりするのです。友達と外で遊んでいますと、鼓や謡声が時々もれていたりするのです。そのたびに友達に聞こえないかと、ひやひやしたものでした・・・・・・」 (※三女・出口聖子〔きよこ〕 談)

    (「神仙の人 出口日出麿」P312)

     

    直日もまた深く傷ついていた・・・・・・、「死にたい」と思うくらいに。
    しかし、病める日出麿師を看病しつつ、子どもたちを育てていかなければならなかった。

     

    直日は、食べていくために農作業に励んだ。田植えの時期などは、早朝から夜の八時頃まで、手慣れぬ作業に没頭した。

     

    百姓の道にひたすらはげみゆかむ寂(しず)かなる生を願ひつつ(※出口直日)

    草刈れば痛き心も慰むに昼の日中も草刈りにけり(※出口直日)

     

    アレコレと思い悩むのは、我々の悪い癖だ。
    ウジウジ考え込むぐらいなら、身体を動かすことだ。考えているヒマがないほど仕事に没頭することだ。
    そうこうしているうちに、たいていの問題は”時の流れ”が解決してくれるものなのであります。

     

    心の傷や肉体の病いも、”時の流れ”が癒してくれる。”日にち薬”、”時にまさる良薬なし”であります(^^;。たとえば料理の時、包丁で指を切ってしまったとする。そんなとき、どれだけ真剣に「元に戻れ」と祈ったり、思い悩んだところで、その傷は治りはしないだろう。でも、バンドエイドでも貼って、その傷のことを忘れて、しばらく日常を生活を続けていれば、「治れ!治れ!」とことさらに祈らずとも、知らないうちに、自然に、勝手に治ってしまうモノなのだ。

     

    時、至らねば、解決しない問題というモノがあって、そんな場合、どれだけ思い悩んだところで、時が来るまでは絶対に解決しない。
    思い悩めば思い悩むほど、心と身体は消耗してしまい、
    つまらぬミスを犯したり、
    注意力散漫になって、交通事故を起こしたり、
    ガンなどの病気になってしまったり、
    イライラが募って、怒りっぽくなって、周囲と不調和になってしまったりして、どんどん別の問題が積み重なってしまうことになる。

     

    そんなときは、思い悩むヒマがないぐらい、別のことに没頭することだ。取りあえず問題から目をそらして、テレビドラマに熱中する(^^;、飯でも食べて昼寝する、習い事をする、農作業に没入する、仕事にのめり込む・・・・・・、すると気がつかないうちに時が流れ去って、やがてその時が来て、さしもの難問題も自然消滅してしまう、ってなもんであります(本当か!?(^^;)

     

    もちろん、何でもかんでも放置しておけばいいってモノではありません。たとえば虫歯になったら、悪化しないうちに歯医者さんに治療してもらったほうがいいです。自分でできることは、できる限りやって、自分の手の届かないことはあきらめて、時に委ねる。「人事を尽くして天命を待つ」というヤツであります。 

    とにかく、悩んでも仕方のないことをアレコレと悩み続けて精神を病んでしまう人がケッコー多いそうですから、そうならないために、悩むヒマがないほど、別のことに没頭するのがよいという話です。

     

    考え過ぎてダメになった人の笑い話のような笑えない話しを一つ。

     

    ペンシルバニアの或るインテリ紳士が後妻を貰った。紳士には親父がおり、後妻には一人の連れ娘があった。万事がうまくいってよく治まったのは良いが、余りうまく治まり過ぎてその結果、紳士の親父が後妻の連れて来た娘を後妻に直してしまった。そのためにわけがわからなくなったのが紳士であります。

    わが娘はわが父の妻であるから、わが母である。

    わが父はわが娘の夫であるから、わが子である。

    わが妻はわが娘と言う母の母なるが故に、わが祖母である。

    われはわが父と言う子の子なるが故に、わが孫である。

    わが父はわが子にして、わが娘はわが母である。

    わが妻はわが祖母にして、われはわが孫なり

    ということになって、とうとう頭が混乱して死んでしまった、というのであります。

    (「活学としての東洋思想」安岡正篤著P98)

     

    (^^;・・・・・・。これは実話だそうです。この死んでしまった紳士は単純な話を、難しく難しく難し~~く考え過ぎてしまって、ノイローゼになって、おそらく自殺してしまったのでしょう。
    このように考え過ぎるとロクなことにならない。考えても仕方のないことなら、考えることに時間を費やすよりも、スポーツとか、読書とか、テレビを見るとか、友人と遊ぶとか、そういうことに時間を費やしたほうがいい。そうしていればこのインテリ紳士ももっと長生きできたものを・・・・・・。

     

     

    竹田でのエピソード

     

     

    さて、竹田時代も不思議は続発した。引用しておこう。


    土蔵にうつって以来、あたらしい変化がみられた。機嫌のよい、つまり交霊の少ない日は、「昨日はすまんア」と、荒れたことを詫びながら”槍さび”や”六校寮歌”、そして詩吟、即詠などが大きな声で歌われるようになった。

    朝来川の河原にもその歌声は聞こえた。朝から「アッハハハハ」の高笑いもあった。そんなときは、かつての日出麿のやわらかくあたたかい天国的な雰囲気が部屋中にひろがった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P313~P314)

     

    竹田の町でもエピソードは少なくない。
    郵便局の前のポストを見て日出麿は言った。

    「用心悪いのォ」

    スタスタ通り過ぎた。側近がポストをためつすがめつしても、変わったところはない。しかし、その言葉を聞いた地元の藤尾定一が、局員に聞いてこう報告する。その時に限ってポストの郵便物の取出口の鍵がかけられていなかった、と。

    ある日は電信柱をトントンと叩いたり、足で蹴ったりした。頭のおかしい人が、意味なくやる行為のように見える。しかし後方にいた日向良広は、「あァ、この電信柱は何かあるな」と思う。案の定、何日かすると電信関係の人がやってきて根元から掘りおこしていった。根元が腐っていたという。

    地元の信者を供にして散歩することもあった。ある橋の上で立ち止まり、下手の方を見る。そして「ここは学校になるなァ」と誰に言うともなく口にする。数年後に中学校が建った。また、べつの日であるが、国道ぎわの小高い台地の下を通りかかったところで、その台地を見上げ、「ここに立派な学校が建つなァ」と、つぶやく。地元の者もそんな噂も聞いていなかった。やはり戦後に中川小学校の校舎が建つのである。

    もう一つ。日出麿は、ある家の枝にたくさん実をつけた柿の木を見ながら、

    「この柿は、三つしかのこらんか」とぽつりと言った。家人はおかしなことを言うと思った。その後、風が吹いたりして、実はバラバラと落ちた。のこったのは三つしかなかった。

    散歩の道すがら、「御免」と、よく他所(よそ)の庭のなかを通りぬけるが、そのさきにはまちがいなく道があった。こんなところに、と付き添う者はおどろく。どこを歩いても道に迷って別院に帰れないということはなかった。山野から町の隅々まで知りつくしているといったふうであった。着ながしに帯という身なり、懐手をしながら、ほそい畦道をまっすぐに、トットトトという感じですすんだ。供の者といえば、難路に足をとられ、おどるようにしてしたがった。村の人たちは唖然として眺め、別院にやってきて言う。

    「わたしたちでもヒョロヒョロ歩く道を、こう、飛んでいかれるようで・・・・・・。ふつうの人とはちがいますなァ」

    そしてつけ加える。

    「どう考えてもおかしいですなァ。養生する人が元気で、お付きの人がフラフラして・・・・・・」

    (「神仙の人 出口日出麿」P314~P316)

     

    竹田にうつったころは、町の人たちも日出麿のことを病気だと思っていた。散歩する日出麿を、立ち止まって物見たかく眺めた。しかし、時とともにその評価が変わっていった。

    「病気々々言うけれど、病気とちがう」となり、そのうち日出麿とすれ違うと、頭を下げるようになった。ある家の前で、日出麿が口のなかでブツブツと言うと、その家ではかならず良いことが起こるという例がかさなり、口づたえに伝えられたからでもある。よその家の庭や軒先を通りぬけても、やがてその家の人々は「先生に通っていただきました。こんな有難いことはない」と言ってよろこぶほどに変わった。町の人はいつしか「別院の先生」とあがめるようになった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P317)

     

    昭和二十年もすすむにつれ、日本の敗色はますます濃厚となり、日出麿の交霊はより一層荒れた。傍目に耐えられないほど苦しむこともしばしばであった。側近がこりもせず張り替えていた障子の紙、修理をくりかえすふすまの骨も容赦なく折られた。食事をもっていっても暴れるので、側近は入口の戸をあけ、食事をおいてすぐ逃げだすことも多かった。その食事もあまり食べず、夜も寝ない。そんなときは近侍も眠らなかった。「東京、東京、東京」、あるいは「白骨、白骨」など、あえぎあえぎ叫んだ。朝、起きるやいなや日本各地の地名を叫びながら、部屋中を歩きまわることがあった。そうした翌日には、かならずその地方が爆撃を受けていた。しばしば人の名前を叱咤するように叫んだ。それは、あとでわかることであるが、その空襲で犠牲となった信徒の名前であった。

    別院の母屋の大屋根によく登った。きまって日本のどこかでアメリカの爆撃機がとんでいる間であった。隣家の屋根にまでたびたび上がり、となりから苦情が出た。「大阪、大阪」と大声で叫びながら、木綿の筒袖姿で座布団を頭からかぶって外へ飛び出し、近くの諏訪橋の下に隠れたりもした。その数日後の新聞に二月十五日の大阪空襲の記事が掲載される。神戸、明石、姫路の空襲のときも、東京のときも同様であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P319~P320)

    自殺について

    >メインページへ 20091010

    自殺について

     

     

    自殺はなぜいけないか?

     

     

    唯物論を突き詰めると、人生なんてものは無意味なものということになる。だから生きている間は、多くの快楽を味わったほうが得だ。苦しくなったら自殺すればいいのさ。自殺すれば、自分という存在は消滅して、苦も楽もヘッタクレもないのだから・・・・・・ということになる。

     

    しかし、ほとんどの宗教ではそのように考えない。しばらく、宗教や霊界通信の教えに目を向けてみよう。

     

    キリスト教では、人間の命は神の創造の業であり、人間は自らその命を放棄する権利を有していない。そのため、自己の命を自己の意志によって絶つ自殺は、神の意志に反する傲慢な反逆であり、神の愛を否定する絶望であり、しかも公共の善と自己愛に反する行為として大罪だとみなされた。

    (「岩波キリスト教辞典」P468)

     

    一般に、殺生は十悪の一つに数えられ、波羅夷罪を犯すものであるとして、五戒の一つであるから、自殺といえどもそれに抵触するものとして禁じられている。だが、病などで死期が間近い病人が、病に苦しみ、自らの存在が僧団の他の比丘らに多大の迷惑をかけているとの自覚の結果、自発的な断食・断衣・断薬などにより死地に赴くことはその限りでない、とされる。

    (「岩波仏教辞典」P424~425)

     

    (944) 人間には自分の命を絶つ権利がありますか。

    「いや、その権利は神にのみある。我意によって自殺する者は、彼を地上に送った神の命に背くものである」

    (「霊の書」アラン・カーデック編P170)

     

    他者のために、自分の利益や楽しみを犠牲にする事は、神の前では最大の価値がある。それが愛の法にかなっているからである。生命は地上の所有物の中で、人間が最も価値をおくものである。従って、同胞のためにこれを投げ出す者は、罪を犯すものではない、彼は献身を行うのである。だがその前に、彼は自分の生命が死よりも大事ではないのかと、一度問うてみねばならない(※アラン・カーデックの注解)

    (「霊の書」アラン・カーッデック編P174)

     

    (957) 自殺の結果は、本人の霊の上に、どのように及びますか。

    その結果は、個々の場合によって違う。と申すのは、罰が、どのような経過で自殺に至ったか、その状況に応じて色々違ってくるからである。先ず、自殺者全員がひとしく受ける罰は、失望落胆これである。他は、それぞれの事情で異なる。自殺者の中にある者達は、死後すぐに誤りを償いさせられる。他の者達は、償いをするとしても、自分が放り捨てた人生よりも、更に辛い新しい人生で、やり直しをさせられるだろう」

    (注解 ※アラン・カーデック) 自殺の結果は個々の場合ですべて違っている、という上記の解答は、観察によって確かめられている。ただし、その中の幾つか、突然に生命を失ったものの場合は、暴力で生命を奪われたものと同じ結果を示している。右の場合の特色は、霊肉をつなぐ紐が丈夫で切れにくい、切断の瞬間、非常な抵抗を示すことである。これに対し、自然な死の場合は、生命の紐は徐々に弱まり、生命がすっかり燃えつきる前に、千切れていくのである。暴力的に生命を失った場合の結果の第一は、一般に死後に味わる精神的混乱の期間が永びくこと。第二に、自分は未だ地上で生きているいう錯覚を、当分の間もちつづけるということである。霊肉間にある引力のために、自殺者の幾つかの場合、まだ肉体の中にあるような意識をもち、自分は死んだ筈なのに死んでいないので、激しい苦悩と恐怖を経験する。これは本人が自分で縮めた生命の期間ほども続くものである。自殺の結果がすべてこうだとは限らない、しかし、自分で生命を縮めた者は、勇気と忍耐を欠いたことの結果から逃れるわけにはいかぬ。いつかは、何らかの方法で自己の誤りを償わされることになる。実は、ひどく不幸な地上生活を送った霊達が、次のように言っている。自分達はその前生で自殺したということ、それで自から志願して新しい試練を引き受け、甘んじてこれを耐えたのだということ。ある場合は、自殺したが現世との何かの引っかかりができて、幸福な国を目指しても、道は閉ざされ、徒にもがいているということである。またある場合は、ただ唯あるのは無益な事をしたことの悔恨、それから受け取るのは失望ばかり、こういうことである。

    宗教、道徳、及び全哲学大系は、自殺は自然法に反するものとして非難する。その根本原理は、人間には自分の意志で生命を縮める権利はないということである。しかし、なぜ我々にその権利がないのか。なぜ我々は自分の苦しみに終止符をうつ自由をもたないのか。この点、心霊主義は自殺の実例によって、下記のように主張できる。自殺は道徳違反として、間違いであるだけでなく、得るものは何一つなく、更に償いまでしなければならないのであると。この心霊主義の教えは、単に理論にとどまらず、我々の前に展開される事実なのである。

    (「霊の書」アラン・カーデック編P176~P178)   

     

    問 「自殺した者は霊界でどうなるのでしょうか」

    シルバーバーチ 「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機が一ばん問題です。キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です

    問 「でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう」

    シルバーバーチ 「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよかろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千年何万年も苦しむという説は事実に反します」

    問 「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」

    シルバーバーチ 「もちろんです」

    問 「神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか」

    シルバーバーチ 「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです(※大和注1)。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為に過ぎません。果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一ばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

    しかし、すでに述べたように一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。が一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過ごしあったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

    いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。一たん書き記したものはもう二度と書き換えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。

    いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て来ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が”この男にはこれだけのものを背負わせてやれ”と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。

    宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵(こしら)えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです

    (「古代霊は語る」近藤千雄編訳P124~P127)

    【大和注1】 ― いずれにせよこのケースはごく少数なのです

    シルバーバーチは、地獄霊が関係する自殺は少数だと考えているのだろうか?僕は、自殺の大半に地獄霊が関係しているように思うのだが・・・・・・ 

     

    人間の目的は仏国土、ユートピアの建設です。あの世からこの世に生まれるときは、百人が百人、こんどこそ自分の業(カルマ)を修正し、この世を調和すると決意して出生します。ところが地上の大気にふれ、この世の環境に染まってゆくうちに、こうした目的を忘れ、自己保存の想念に支配されてゆきます。

    自殺の心理は、その極点に近いものです。いうなれば自己保存の自意識が過剰なために(※大和注2)、自らそうした行為に追い込んでゆくからです。自殺は調和という神の目的から、大きくはずれた行為であり、神にたいする冒涜、反逆であって、人間否定を意味します。ですから悪のうちでも、自殺は最悪の部類にはいります。

    (「心の対話」高橋信次著P166)

    【大和注2】 ― 自己保存の自意識が過剰なために

    ”自己保存”は、「自分の安全だけは守りたい」、「自分だけは生き残りたい」、という思いではないだろうか? 「自殺は自己保存の極点」という説明は、ちょっと理解に苦しむのだが・・・・・・。どう考えればいいのだろうか? この文章は明らかに説明不足だと思う。

     

    自殺者の死後の世界は暗黒地獄です。一寸先分からぬ真暗な穴倉のようなところに閉じ込められての苦しみの連続です。鼓膜が破裂しそうな轟音が鳴り響くところとか、得体の知れぬ生物が意識のなかに入り込んでかきむしるのです。頭痛や幻想に襲われても、この世では麻酔や疲労が救いになって眠ることができますが、暗黒地獄ではそれができません。意識だけはハッキリしており、それでいて真暗ですから自分の体がとこになるのかもわかりません。

    自殺は「光」を否定した想念ですから、こうした暗黒界に自らを引き込み、客観的に説明のできない自殺は、その苦しみが長期にわたります。ゆめゆめ、こうした想念に支配されないようにしたいものです。

    (「心の対話」高橋信次著P167~P168)  

     

    仏教説話集「ジャータカ」に次のような話しがあるという。

     

    むかし、キツネさんとサルさんとウサギさんが仲良く暮らしていた。彼らは、もと人間だったが、前世で悪業を重ねたせいで、今世は動物に生まれ変わっていた。だから、「今世は善行を積み重ねて、再び人間に生まれ変わりたい」と強く強く願っていた。

    ある時、彼らは行倒れの老人に出会った。何とかして助けよう思った彼らは、自分たちに出来る精一杯のことをやった。サルさんは木に登って、木の実や果物を集めて、老人に差し出した。キツネさんは、全速力で遠くの川まで走って行き、魚を獲ってきた。

    ところが、何の取り柄もないウサギさんは、一生懸命がんばってみたけれど、何もとってくることができなかった。己の非力さが悲しかった。「でも、こんな私でも、きっと何か出来ることがあるはずだ」と、ウサギさんは必死になって考えた。その時、閃きが走った。

    ウサギさんは、キツネさんとサルさんに火を焚いてもらい、そして老人に向かって言った。「私には食料を集めてくる力がありません。だから、どうぞ、私を食べて元気になってください」。そう言い残して、ウサギさんは火の中に飛び込んだ・・・・・・

     

    これは完全な自殺だろう・・・・・・。だから、このウサギは暗黒地獄に堕ちるというのか! そんな馬鹿なことがあってたまるか。

     

    教祖が、「自殺は、神に対する反逆で、最悪の罪だ」と言ったからという理由で、このウサギは地獄に堕ちたと主張する宗教バカがいる。宗教ドグマとは本当に恐ろしいものだ。心の奥底では、「この健気なウサギが、本当に地獄に堕ちてしまうのだろうか?」という疑問が渦巻いているはずなのに、それを誤魔化して、本当の自分を偽っている・・・・・・。悲しいことです。

     

    さて、では仏教説話「ジャータカ」では、このウサギの行為をどう見るか?
    実は、その死にかけの老人の正体は帝釈天という神様でした。帝釈天は、「善行を積みたい」と思っている感心なキツネとサルとウサギに目を留め、彼らに善行のチャンスを与えたのでした。

     

    彼らの行為を見て、帝釈天はどう思われただろうか。

    「キツネよ、サルよ、そなたたちの改心は本物だ。来世はそなたたちを人間に戻してやろう。
    しかし、ウサギよ、そなたは自殺という最悪の罪を犯してしまった。暗黒地獄で永遠に苦しみ続けるがよい!!!」

    ・・・・・・と思ったか?

     

    いいえ違います。キツネとサルに感心したのは当然のことですが、自殺したウサギに対しては、感心を通り越して、衝撃を受けたのであります。
    帝釈天は泣いた。

    「身を捨ててでも人のためになろうとしたそなたの行為こそ究極の慈悲行である!」

    そしてウサギの究極の行為を後世の人々に伝えるために、ウサギの身体を月に昇らせたという・・・・・・

     

    ↑月のウサギさん(ウィキペディアにある画像)

     

    ※仏教では、仏に対する供養のため、あるいは、他者を救うために我が身を捨てることを”捨身(しゃしん)”という。この”捨身”は、要するに”自殺”のことなのだが、布施(※愛の実践)の最上のものとして、また利他精神に基づく崇高なる自己犠牲として、仏教では尊ばれている。

    「薬王菩薩という人が、仏への供養としてその身を火中に投じ焼身供養した」という話が法華経に書かれているのですが、こういうのが”捨身”です。あと有名なのが、お釈迦様の前世である薩埵王子の”捨身飼虎(しゃしんしこ)”の話し。崖下で飢えている虎とその七匹の子を救うため、薩埵王子はその身を投げ、虎に食われたという・・・・・・。

     

     

    誰でも死にたくなるときがある、それを恥じることはないのだ

     

     

    「自殺はいけないっ!!!」・・・・・・、
    そんなこと分かってるって(^^;。
    でも、生きることが苦しくって、苦しくって、もうどうしようもなくなった時、誰だって「死にたい!」って思うものではないだろうか。

     

    あのお釈迦様でさえ”自殺”を考えたことがあるのだ。

    それはお釈迦様が、「我いま悟りを得られぬなれば、生きてこの座をたたぬであろう」と決意して、ピッパラーの木の下に座してから二十一日目のことだった。

     

    お釈迦様は七日目に大悟されたが、「はたしてこのまま心の調和を維持し続けることができるのかどうか?」、一抹の不安があったため、さらに座り続けたのでした。来る日も来る日も心の調和は不動でした。そして二十一日目、心の調和に完全に自信を持つに至ったが、お釈迦様はこうも考えた。

     

    私の悟った法は、、まことに深遠である。賢者のみが知り得るものだろう。どうして、何の疑問も持たずにこの世的な快楽に耽り続けている人々に知ることができようか?
    さすれば、私がこの法を命を削りながら説いたとしても、私の努力がまったく報われぬことは火を見るよりも明らかである。

    それに、やっと手に入れたこの不動の心の調和を崩したくないのだ。今のこのままの心の状態でこの世を去ることができれば、これほど幸せなことはない・・・・・・

     

    こう考えてお釈迦様はその夜から食事をとらずに肉体舟の衰えるのを待とう、と決心したのであります。
    要するに”自殺”を決めたということです。もちろんこの場合、「苦しくて苦しくて、もう死にたい」という理由ではありませんが、どういう理由であれ”自殺”は”自殺”です。

     

    おこがましいことですが、この時のお釈迦様の間違いを2点、指摘しておきたいと思います。
    まず、衆生済度に絶望してしまった点。そして、「己の心の調和を乱したくない」という利己的な思いにとらわれてしまった点。この二つの間違いが、お釈迦様に”自殺”を決意させたのであります。

     

    もし、この時、本当に”自殺”してしまっていたら、おそらく、お釈迦様といえども、天上界に帰ることはできなかっただろうと思います・・・・・・
    もちろん、この時、お釈迦様は指導霊の指導によって、己の心の誤りに気づき、自殺を思いとどまります。そして、これ以後45年間、衆生済度のため、一切の利己心を捨て去り、燃え立つような思いで神理伝道に東奔西走するのであります。

     

    ただ、大悟されたお釈迦様でさえ、利己心に惑わされたり、絶望したりして、自殺しようとしたことがあったということは事実であります。あの偉大なるお釈迦様でもそうなのですから、我々凡人が「死にたい!」と思ったり、本当に自殺してしまったりするのは、ある意味、当然ではないかと思うのです。

     

    宗教の教えや霊界通信などでは、自殺のことを、「臆病者の逃避行為で、最悪の罪」と冷たく切り捨てていますが、それはチョット厳しすぎるのではないかなァ~なんて僕は感じてしまうのであります。

     

    人間ってそんなに強くない。現に、「生命は永遠なり!死を怖れるな!」と、大声疾呼していた宗教家が、医者からガンを宣告されたとたん、”青菜に塩”状態になってしまった、なんて話がザラにある。世の中には、病い、借金、大失恋、イジメ等々の地獄の苦しみが、ゴロゴロと転がっているのだ。

     

    もし、自分がそういう苦しみを背負うことになったら、どうだろうか? 余裕か? まったく平気か? いつもニコニコしていられるか? ・・・・・・、嘘をつくな! 誰だって一度や二度、「死にたい!」と思ったことがあるはずだ。
    「自殺は臆病者の逃避行為で、最悪の罪だ」なんて言うだけの資格のある人間なんて、そうそういるもんじゃない。

     

    少なくとも僕は、今までに何度も「死にたい!」って思ったことがある。特に唯物論に毒されていたころはひどかった・・・・・・

    19歳の頃なんて、本当に危なかった。
    その頃、僕の心のなかは将来に対する不安でいっぱいだった。自分にまったく自信が持てなかった。弱虫だった。すべてを悲観的に考えた。考えれば考えるほどつらくなった。でも、考えることを止めることができなくて、どんどん自分で自分を追いつめてしまった。

     

    あの時、もし病院に行けば、きっと「鬱病」とか「ノイローゼ」とか診断されていたことだろう。
    霊的に見たならば、地獄霊に、おそらく半分以上憑依されていただろうと思う。
    生きるのが本当につらかった。出口の分からない真っ暗な迷路の中で、絶望して、うずくまってしまった・・・・・・、そんな日々だった。

     

    あの時は、本当にいつ”自殺”してもおかしくないような状態だった。
    なぜ、持ちこたえることができたのか?、ハッキリ言ってよく分からない(^^;。たまたま運が良くて、何となく持ちこたえることができただけなのだ(※もちろん実際は守護霊様が守ってくださっていたと思うのだが・・・・・・)。

     

    もし、もう少し苦しかったなら、きっと”自殺”していたと思う。僕はそういう弱い人間なのだ。だから偉そうなことがいえない・・・・・・
    でもだからこそ、僕には”自殺”する人の苦しさが、少しだけ分かるのだ。あんな苦しい目にあえば、誰だって、生きているのがイヤになるって、実感として分かるのだ。

     

    ”自殺”した人のことを臆病者呼ばわりするような人は、そういう苦しみを知らないか、よっぽど強い人なんだろう。
    でも、どんな人でも、いつか必ず大きな壁にぶち当たって、にっちもさっちも行かなくなって、苦しくて苦しくて、「死にたい」と思う日が来るだろう。その時に”自殺”した人の苦しみが少しだけ分かるだろう・・・・・・

     

    僕には、宗教の理論理屈を振りかざして、「自殺はいけません」なんて、簡単に済ますことができない。
    たとえば、キリスト教では、「自殺は神の意志に反する大罪だから、自殺してはいけません」と説く。

     

    これではお話しにならない。たとえその理論理屈が真実だとしても、そんな血の通っていない理論理屈で、「死にたい!」と思っている人の”苦しみ”が消えるだろうか? 消えるはずがないのだ。死にたいくらいに苦しんでいる人の”苦しみ”を消せもしないのに、「自殺はダメだ」と宗教ドグマを押しつけるのは、本当に心ない仕打ちだと思う。

     

    その人の”苦しみ”を軽減させて、生きる希望を与えることが、宗教家の役割ではないか。それを忘れて、いたずらに、「自殺はダメです」を繰り返すだけでは、単なる偽善者に過ぎない。

     

    もっとひどいのになると、
    「自殺者でストレートに天国に戻った者はいない。自殺者は100%地獄に落ちる。そして、この世での苦しみの数十倍数百倍の苦しみを受けることになる。自殺しても苦しみから逃れることができないばかりか、今よりももっともっと苦しまなければならなくなるだろう」・・・・・・と説く。

     

    これでは脅しだ。この説教が真実だったとしても、「こんな説教を聞かされて、自殺を思いとどまって、この世で地獄の苦しみを味わい続ける人の身にもなってみろ!」と言いたいのだ。

     

     

    自殺防止対策について 

     

     

    では、どうすれば、「死にたい」と思っている人の苦しみを軽減させ、希望を与えることができるのだろうか。

    どうすれば、苦しみを耐え抜くことができるのだろう?
    どう生きる勇気が湧いてくるのだろう?
    どうすれば希望の光が射し込んでくるのだろう?

     

    ①宗教的な人は現実的な対策を疎かにして傷を深めてしまう

     

    根本治療ということで考えるならば、八正道の実践に尽きるだろう。しかし、八正道の生活には即効性がない。どちらかというと予防医学的な感じだ。
    だから、いつ”自殺”するか分からないような人には、もっと即効性のある対症療法的な考えや応急処置的な考え方が大切だろう。

     

    人間関係で苦しんでいる人、借金苦で苦しんでいる人、病気で苦しんでいる人・・・・・・、人それぞれであります。そして苦しみの解決法も、人それぞれだということなのです。つまり、現実的に考えて、対応策を考えることが大切だと思います。

     

    たとえば、お腹が痛いのに、歯医者にいってもダメです。その道の専門家に相談することです。借金苦の人は借金苦解決のプロに相談する、恋愛で苦しんでいる人は恋愛経験豊富な人に相談する・・・・・・、こうした現実的な対応を疎かにしてはならないでしょう。

     

    宗教的な人は、そういうのをバカにして、何でも祈れば解決するとか、念仏を唱えれば大丈夫とか、そういう非現実的なことを信じ、傷口を広げてしまうことが多いと思う。たとえば、僕の場合、奥歯が虫歯になった時、光明思想にかぶれていて、「本来虫歯なし!と念じ続ければれば、治るかも」なんて、信じこもうとしていた。

     

    でもどんどん悪くなって、痛みに耐え切れなくなってきて、歯医者にいった頃にはもう手遅れで、その奥歯を抜く羽目に陥ってしまった・・・・・・。本当にバカなことをしたものだと思う。現実的な対応を疎かにすると、こういう目に遭うということです(^^;。

     

    ②悪霊対策も大切

     

    自殺する人の精神状態というのは、まず間違いなく、正常ではない。冷静に自殺することなんて出来ないと思う。取り越し苦労して、どんなことでも悪いほうに悪いほうに、悲観的に考えてしまい、もう何が何だかわけが分からなくなってしまっているのだと思う。
    たとえば、二者択一の場合、ヤマカンで選んでも、当たる確率は50%もある。ところが、悲観的な人は、「どうせ俺なんて運が悪いから、外れる確率100%さ」なんてことを思ってしまう。

     

    こういう悲観的な心は、「波長同通の法則」により、悪霊を引き寄せてしまうということを知らなければならない。
    いつもいつも悲観的なことを考えていると、やがて悪霊に完全憑依されてしまう。そうなってしまうと己の心の王国の統治権を、悪霊に譲り渡したのと同じことで、自分で考えて、自分で行動していると思っていても、実際は悪霊の操り人形だ。

     

    そして最後は生きているのがイヤになって、”自殺”に追い込まれり、廃人と化してしまうのだ。僕はこのように自殺者の大半は、悪霊の影響を受けていたと思うのだ。
    だから、逆に考えれば、悪霊の影響を断ち切ることが”自殺”防止につながると思うのです。

     

    通常、「反省」することによって、悪霊の影響を断ち切ることができるのですが、悲観的な精神状態の人はよほど注意しなければならない。
    なぜなら悲観的な人が「反省」行をすると、どうしても自分イジメになってしまうのだ。自分の悪や恥を顕微鏡で覗いては、「自分はなんて悪い奴なんだ。なんて情けない奴なんだ。こんな奴は死んだほうがましだ! だから自殺しよう・・・・・・」ということになってしまうのだ。これでは逆効果。

     

    ③健康生活に立ち返ること

     

    だから、ひとまず「反省」はワキにおいて、別の角度から攻めるべきだろう。
    まずは、健康生活に立ち返ることだと思う。

     

    元気モリモリの人が自殺したという話しを聞いたことがあるでしょうか? おそらく無いと思うのです。自殺する人は、やはりどことなく暗い影があって、どことなく疲れ気味で、どことなく不健康な感じがする。

     

    それは心身は一如だからです。「健全な肉体に健全な魂が宿る」と申します。つまり肉体を健全な状態に戻せば、悲観的な心の傾向も薄れていくということなのです。そうなると悪霊のほうは、「類は友を呼び、類でないものは反発しあう法則」によって、憑依したくても憑依できなくなってしまうのです。

     

    悲観的な心を楽観的な心に変えるのは、なかなか難しい。何しろ心というものは五感でとらえることができない。だから心の変革なんて雲をつかむような話なのだ。それに比べて「健康生活」の実践というのは、成果が形として現れてくるから、心の変革よりは遥かにやりやすいし、やりがいもあるというものだ。

     

    たとえば、悲観的な人は、不眠症の気があるものだ。夜、ぐっすり眠ることができない。で、昼間、うつらうつらしていることが多い。これは不健康な生活の見本だ(^^;。これではいけない。

    これを改革するには、昼間一所懸命からだを動かすこと。定職を持っている人は、一所懸命働く。仕事に没頭すること。身体を動かさない仕事の人や定職のない人は、散歩とか健康体操とか、とにかく身体をよく動かすこと。そうすれば、必ず、夜、眠ることができるだろう。それでも眠れなければ、眠らずに、読書でもすればいい。とにかく朝は6時~7時ぐらいに起きて、昼間は活動する。しばらくすれば、夜、起きていたくても、起きていられなくなるものだ。

     

    それと”食”。これはとにかく感謝して食べること。また「足ることを知る」実践として腹八分目を心がける(※これは本当に難しいことです(^^;)
    それぞれの地方に伝わる伝統的な料理が一番いいのだが、グローバル化した今、なかなか難しい。とにかく肉は少な目、アルコールは適量、できるだけ間食はせず、感謝して、「美味しい、美味しい」と思いながら食べること。

    ※肉食は絶対ダメという宗教もあるが、聖書や「心行」などは肉食を否定していない。仏教でも、与えられたものならば、肉でも感謝して食べる。

     

    「玄米正食」とかにこだわる人がいるが、こだわり過ぎは、かえって良くない。山奥で自給自足で生きて行くならそれもいいだろうが、社会のなかで生きている人は、「正食」にこだわり過ぎると、周囲との調和を保つことができなくなるだろう。

     

    好きなものを食べて、酒もタバコもやる人で、60、70まで生きている人が幾らでもいる。「正食」じゃなくても長生きの人はケッコーいるのだ。ところが「正食」にこだわっているのに長生きできない人もいるものだ。健康に執着する心が、かえって健康によくないのであります。

     

    ”笑う”こと。「笑う門には福来る」であります。姿勢や顔の表情は、心に影響を与えます。良い姿勢、笑顔は心を明るくする。悪い姿勢、暗い表情は、心を暗くして、悪霊を引き寄せる。だから、”笑う”ことです。笑っている人には、神の光が射し込み、悪霊は近づくことができないのであります。

    また、腹の底から笑うことは、最高の呼吸法だと言われています。ヨガ式の呼吸法は、なかなか難しいものがある。間違った呼吸法をやっていると、脱腸になったり、寿命を縮めたりするらしい。その点、”笑う”自然呼吸法は、小難しい理論もルールも何もない。ただ腹の底から”笑う”だけだ。これが一番の健康法なのです。もし、一日に一度、本当に腹の底から大笑いすれば、その夜はぐっすり眠れるに違いない。

     

    ④神理の書と愛読書

     

    一日15分でもいいから神理の書を読むことだと思います。神理の書を読むと、神仏の光が心に射し込みます。そんなとき悪霊は近づくことはできません。
    神理の書は、お経のように意味も分からず、読み流してはいけない。大切なのはそこに書かれていることを理解し、それを生活のなかで実践すること。

    ※心が弱っているときは、光明思想系統か老荘思想系統の書物が良いと思います。自分の心の状態に応じて読む本を選択するということも大事なことだと思います。

     

    また、神の光は神理の書だけに秘められているわけではない。小説やマンガや映画にも秘められているのだ。
    小説やマンガなどを読んで、胸が温かくなったり、涙が止まらなかったり、そういう経験をしたことがあると思います。そういう時、間違いなく神の光が心に射し込んでいると思います。そんな本を愛読書として欲しいです。

     

    ⑤正しい信仰を持つ

     

    やはり、唯物論は危険だと思います。今の日本の教育を受けると、まず間違いなく唯物論者になってしまう。唯物論者は、「死ねばすべて終わる」と思っているから、苦しくなったら比較的簡単に”自殺”を選択してしまう傾向があると思うのです。

     

    唯物論が本当に真理であるのならば、それはそれでよいだろう。でも本当に真理か? 僕は一面の真理にしか過ぎないと思うのです。やはり神仏も霊界も存在すると思う。そうした本当の真理を学び、真理を生きる努力を積み重ねていくことで、心は正しい方向に成長し、たくましくなって、苦難を乗り越えてゆくことができると信じているのであります。

    雑感21

    >メインページへ 20091004

    雑感21

     

     

    DIL・関谷さんのブログの最新記事を読んで、今、考えさせられている。

     

    その記事によると、先月、ある幸福探求者が自殺してしまったそうだ。

    「神との対話」こそ最高の書物だと確信し、その教えを広めようとしていた女性・・・・・・、とのことだから、一連の流れから推測すると、以前DILの掲示板で「神との対話」の言葉を紹介していた方のことだろう。

     

    その方とは一面識もありませんでしたが、その書き込みから彼女のイメージがある程度できあがっていたので、「自殺した」というニュースは非常にショックでした。

    何はさておき、まずは彼女のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。・・・・・・・

     

    さて、僕が考えさせられていることについて少し書いておこう。
    ただし、これは彼女に対する批判ではない。それはわかってください。
    自分自身に置き換えて、感じたことであります。

     

    宗教の教えを紹介するということは、いい加減な気持ちでやってはいけないことなんだなァ・・・・・・、そう思った。

    「この教えは素晴らしい。この教えによって私は救われた。だからこの教えを一人でも多くの人々に伝えたい!」
    こう言って多くの人々を伝道してきた人がある日突然、人生の苦しみに耐え切れずに自殺してしまったら・・・・・・、
    「本当にその人はその教えによって救われていたのだろうか?」と考え込んでしまうのだ。

     

    そしてもう一歩踏み込んで考えると、「もしかしたら、その教えが原因で自殺してしまったのではないか?」とも思えてくると思うのだ。
    もし仮にそうだったとするなら、素晴らしいと思っていた教えには、実は猛毒が秘められていて、時限爆弾のように、その教えもある時期が来ると、学んだ人々を不幸にしてしまうということになる・・・・・・、これは本当に恐ろしいことだ。

     

    僕がこのブログで行なっていることには、そういう危険な面があるのだ。厳粛な気持ちにならざるを得ない・・・・・・
    本当に「正法」なのか? 猛毒が秘められているのではないか?
    その猛毒で自分が殺られるだけなら、何の悔いもないと思う。信じたのは自分だから・・・・・・
    でも、もしこのブログを読んだ人が猛毒で殺られてしまったら・・・・・・、そう考えると本当に恐ろしいのだ・・・・・・

    「神仙の人」ノート その36

    >メインページへ 20090927

    「神仙の人」ノート その36

     

     

    昭和18年6月17日、直日は子どもたちを連れて、中矢田農園から兵庫県朝来(あさご)郡竹田の大本竹田別院に転居。
    王仁三郎が釈放され、中矢田農園に住むようになって、またまた大きな渦が巻き起こってきたからである。

     

    王仁三郎が戻るまでは、夫の日出麿師が非情の世界に没入してしまっている以上、直日が踏ん張るしかなかった。弾圧の嵐の中、世の人々から「逆賊・国賊」と罵られながらも、大本の支柱となって奮戦してきたのだ。その間、直日は、世間の人々の心の裏表をイヤと言うほど味わったという。

     

    ところが、王仁三郎が戻ってくるやいなや、それまで距離をおいていた人々が、手のひらを返したように、再び群がってきたのだった。それは王仁三郎の影響力の大きさから考えれば当たり前のことなのだが、理屈では理解できても、気持ちのほうが釈然としない。割り切れないのだ。

     

    しかも、夫の日出麿師は、今もまだ深い深い闇の中を彷徨している・・・・・・。
    事件解決に向けて大きく前進した今は、日出麿師の療養に専念したい・・・・・・、静かに暮らしたい・・・・・・。こうした思いから、亀岡を去ることにしたのである。


     

    一方、一年二ヵ月余の穴太・長久館での生活を終えた日出麿が、竹田の山里に姿を見せたのは六月三十日であった。こうして、朝来川の流れに沿うしずかな町並みの別院で、一家そろっての生活がはじまる。子どもたちは竹田の学校に転じた。

    (「神仙の人出口日出麿」P298)

     

    昭和18年の秋ごろのこと。

     

    ・・・・・・直日は、
    「元男さん、この戦争はどうですやろ」と声をかけた。日出麿は即座に、

    「負けですなァ、アッハハハ・・・・・・」

    と声高に笑う。その問答をうしろに聞いていた側近の樅木喬成はいぶかった。日本が負けるなど思う人のいない時代であった。

    (「神仙の人出口日出麿」P300)

     

    大の大人が、ふすまや柱に筆で、文字やら絵やら、書いたり描いたりする。常軌を逸した行為だ。しかし、後からよくよく考えて見ると、それらの文字や絵は、どうやら爆撃機による”空襲”を暗示していたように思われるのだった・・・・・・。当時は、日本がそんな状況に陥るなどと、誰も夢にも思っていなかった時代であります。
    日出麿師には、近い将来、日本に訪れる運命がハッキリと見えていたようである。

     

    ある日、神戸の信徒が、日出麿はうどんが好きだと聞いて、心をこめてうどんを打ち、夜行列車に乗った。すでに播但線に連絡がなく、その夜は姫路で泊まり、翌朝の一番列車で八時ごろ竹田に着いた、日出麿は、いつも朝食をはやくとったが、その日にかぎって箸をとらない。やがて、その信徒が日出麿のもとに挨拶のため顔をみせる。とたんに「うどん」と大声がとびだした。さっそく、台所に渡されていたうどんが調理され、届けられる。日出麿はさも美味しそうに食べ、機嫌よく、「おかわりッ」と催促する。信徒の誠心が通じていたのである。

    以前から、この種のことはめずらしくなかった。そのうち、日出麿が「うどん」と言うと。手元にうどんがなくても、お湯をわかして待つようになった。うどんが届くとさっそく湯を通して、日出麿にもって行く。日出麿は「バカに手回しがいいですな」と言いながらよろこんで食べる。

    (「神仙の人出口日出麿」P300)

     

    その昭和十八年秋、日向が王仁三郎に、日出麿の数々の神秘の日常を報告した。すると王仁三郎は、

    「それはあたりまえだ。わしの後継ぎがそれくらいなことができなくてどうするか」と、応じる。そして、きびしい交霊に関しては、

    「わし以上のはたらきをせねばならん日出麿は、まァ三十年くらいは修行してもらわねばならぬ・・・・・・」

    (「神仙の人出口日出麿」P301)

     

    そして昭和19年。


    竹田の冬は寒く長い。手足はかじかみ、吐く息は白くかすむ。
    しかし、日出麿は火鉢一つおかず、足袋もはかず、ズボン下も着用せず、袷(あわせ)の着物一枚で、終日、背筋をただし端座で過ごす。閑散とした部屋である。食事も細い。身体を壊さないのが不思議であった。物も人もみな凍る耐え難い寒さのなかでの”業”はつづく。

    (「神仙の人 出口日出麿」P301)

     

    雨漏りがひどいので、裏の蔵に居をうつす。そこでも火の気はいっさい絶ち、電灯もつけず、暗闇の中、袷一枚の正座が続いた。

     

    また、土蔵に入ってからは荒れることがおおくなった。眼を半眼にし、あるいはゆるく、あるいははげしく極限の環境のなかで交霊をつづけた。時には、手元にある机や側近のおいた物をなげつけ、踏みつぶした。電灯はこわれ、コードは引きちぎられ、障子の紙ははがれ、ふすまの骨はおちた。側近は疲れはて、もう辛抱ができないという極限までおいこまれていった。

    心身ともに凍る、ある日。はげしい交霊の一段落したとき、日向は思う。

    ――毎晩こんな状態でいったらどうなるんだろう――

    ひるむ気持ちにむち打ってきたが、これ以上耐える自信はない。同時に、今後の日出麿のことをふかく案じたのである。その一瞬、

    「業やでな!」

    たかい澄んだ声が、間髪いれずひびいた。

    「その、先生の一言が身体にジーンとしびれわたるのを感じました」と日向はのちに述懐する。

    こうして、その年(19年)も春を迎え、夏が過ぎて秋になる。戦況が急変する。アメリカ軍の攻撃が激化し、日本は窮地におちこんでいった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P302~P303)

     

    昭和19年、20年頃の世界は惨憺たる状態でした。地獄霊たちの跳梁跋扈も凄まじかったと思われます。それ故でしょう、”運霊”の役割を担う日出麿師の”交霊”もいっそう激しいものとなっていったのであります。

     

    昭和20年に入り、アメリカの大型爆撃機B29の大編隊が、来る日も来る日も、日本本土を爆撃し、都市という都市が廃墟と化した。それは、かつて当局から徹底的に弾圧された”大本”のすがたと同じだった。
    ”大本”に起きたことが、まさに今、日本に起こってしまったのだ・・・・・・。

     

    この年、側近の石原が徴用されたので、那須弥惣吉が日出麿の付き添いをつとめ、津田良則が加わる。津田が側近になる、その数日前のこと。

     

    津田は、直日の勧めで、一家を上げて紀州勝浦から竹田に疎開してきた。二、三日して、津田が、竹田別院の前まで行くと、玄関付近に日出麿師と那須が立っている。津田の姿を見た日出麿師が、「津田はん、部屋へ来な」と声をかける。

     

    津田はいそいそと別院の土間を通ってうしろにしたがい、土蔵の六畳の部屋に控えた。ややあって那須が母屋の方に姿を消すと、隣の三畳間から「津田はん、肩もんでくれ」とのやさしい声がかかる。津田は「ハイ」と声を弾ませて日出麿の肩に手をかけた。寒いだけでなく、部屋のなかは殺風景そのものであった。調度品の一つもないわびしい部屋で肩をもむ。そのとき、「津田はんは箱根の生まれじゃったなァ」との言葉を聞く。覚えていたのである。津田は感無量となり、身体に強烈なしびれが走った。「津田はん、いくつになる」と尋ねた。津田はやっとのこと、四十一歳でございます、と告げる。日出麿はしばらく考えるふうであった。そして「何年生まれだ」とかさねて聞いた。明治三十七年でございます、と答える。しばらく間がとぎれ日出麿は、

    「そうか、わしは四十七歳になったか・・・・・・。えらいことはかなわんわい」

    としずかに、しかしはっきりと口にした。自分の年をかろうじて思い出したふうであった。昭和十一年の初頭以来、九年の歳月がながれていた。津田は「ご苦労さまでございます」と反射的に言う。日出麿は「アッハハハハ」と大きく笑う。それきり会話はつづかなかった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P305)

     

    そして、数日して側近に連なったその初日・・・・・・。


    その初日である、津田は、こんどはうってかわってきびしい目をした日出麿から、「貴公はだれじゃ」とつめ寄られた。言われた方は、ただおろおろするしかない。当然である。前日には慈愛のこもった言葉があり、覚えていてくれたことに感激した。それが一瞬にして吹っとんだのである。津田はドギマギした。すると今度は拳骨が飛んできた。反射的に身構えると日出麿は「柔道か」と言い放ち、取って投げた。津田にとってははじめての日出麿の荒(すさ)みはショックであった。

    この直後、ある先輩が耳うちする。

    「そんなときは、先生にお怪我でもあるといけないから、お詫びをして手を縛らせていただきなさい」

    おそれおおいことと思いながらも津田はつぎの交霊のおり、手を縛ってみた。それから数日後のこと。日出麿が息吹きをしたり、立ったり座ったりなどした。交霊である。いらいらした様子であった。そして津田をみつめる。しばらくして両手を前に突き出して言った。

    「津田はん、縛ってくれ」

    津田はびっくりした。とんでもありません、もうお許しください、とあとずさりした。しかしつぎの日出麿の一言を聞いてさらにおどろく。

    「わしは縛られた方が楽なのじゃ」

    思いがけない言葉であった。津田は愕然とした。そして、涙のまじる声で詫びながら手をゆるく縛った。縛りながら津田は思う。――あァ、先生自身、交霊というものはどうしようもない現象なのだ。そして、これ以上はない苦しみを味わっておられるのだ――と。

     

    津田は、側近の任を退いてから、なおもこう回想している。

    ――あァたまらん、だれか代わってくれないかなァ――と思うときがあります。すると先生は、”かわれ、かわれ、去(い)ね”と、ご機嫌がわるくなります。お機嫌のよいときは一生でもお傍におりたいと思っていても、さてとなると逃げだしたくなりました。

    私はみました。先生の怖い顔を。それは魂の底までふるえ上がるような眼です。そしてまた優しいやさしい、とけこんでしまいそうな黒水晶のような眼を・・・・・・」

    (「神仙の人 出口日出麿」P306~P307)

     

    日出麿師が自分から「手を縛ってくれ」と言ったということですが、それは単なる精神異常者ではないということを証明しているように思います。

    しかし、まあ、とにかく日出麿師の側近は、本当に本当に大変だったようですな(^^;。

    ユートピア運動と自己変革

    >メインページへ 20090927

    ユートピア運動と自己変革

     

     


    我々が安心して裸足で歩き回るためには、世界中を牛の皮で覆い尽くせばよいだろう。でも、そんなことができるだろうか?・・・・・・

    我々は、そんなスケールの大きなことに取りかかる前に、まず、わずかな牛の皮を利用して靴を作り、それを履くべきだ。

    そうすれば世界はそのままでも、その人にとっては牛の皮で覆い尽くされているのと同じことになる・・・・・・

    (「入菩薩行」の言葉をアレンジした)


     

    環境や体制を変えればユートピアが来るのではない。
    己が悟ったとき、地獄のような環境のままで、間違った体制のままで、そこがそのまま天国に変わるのだ。

     

    かつて共産主義者たちは、革命を起こして、共産主義体制に変えれば、ユートピアが来ると思っていた。
    しかし、いくら素晴らしい体制になったとしても、そこに住む一人一人の心が不調和だったら、真のユートピアを築くことはできない。彼らは体制を変えることばかりに血道をあげていて、自分自身の心の変革を疎かにし過ぎたのだ。

     

    ユートピア運動と自己変革は、できるかぎり同時進行が望ましい。一方だけに片寄ってしまうと、必ずと言っていいほど、おかしくなっていくものだ。

     

    ※参考文献からの引用 ↓

     

    そのころ本郷の弥生町に、河口慧海老師が雪山精舎(せっせんしょうじゃ)を結んで、シャテデーバの『入菩薩行』というものの翻訳を講義しておられ、わたくしは友人に誘われてその会に参加した。わら半紙に謄写されたテキストだったが、その中にこういう言葉があったのである。

    「この地球を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足(はだし)で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったにひとしい」

    というのである。
    わたくしはどんなに感激してこの一文を読んだであろうか。この言葉こそ、わたくしの心に第二の転機をあたえたものであった。 

    (「わが精神の故郷」山田無文著P40~P41)

    真の勇者

    >メインページへ 20090927

    真の勇者

     

     


    この世でいちばん勇気があるのは、ピーナツをひとつだけ食べて、そこでやめられる男だ。

    チャニング・ポロック/劇作家

    (「思わずニヤリとする言葉」晴山陽一編より)


    う~ん、確かに苦笑いするしかない(^^;。確かにその通りかもしれないのだけれど、大袈裟さとスケールの小ささとの落差に、思わずニヤリとしてしまう。

     

    ちなみに高橋信次先生ならば、こうなる。

     

    真の勇者は

    過去にとらわれず

    未来を望まず

    今に生きる者をいう

    (「心眼を開く」P202)

     

    真に努める者は勇者である

    勇気は知恵から生まれ

    知慧(仏智)は怠りなく努めるそのなかから生ず

    (「心眼を開く」P184)

     

    かっこいいですねぇ~、えらい違いです。ハハ(^^;

    「神仙の人」ノート その35

    >メインページへ 20090913 000

    「神仙の人」ノート その35

     

     

    第二審の判決下る

     

     

    日出麿が穴太にはいってから三ヵ月半後の七月三十一日、第二審の判決が下った。二審の公判は、一審判決の終わった昭和十五年を皮切りとして、百二十回におよんでいた。その間の弁護費用は高額にのぼったが、直日を中心とする信徒たちの苦しい生活費をきりつめての自発的な献金によって支えられた。きびしい監視のなかで命がけの活動であった。それは、長期間の裁判をたたかいぬく原動力となった。

    予審の記録は、判事がつごうよく書いた、まったくの虚構であったとの大本側の主張は、二審の公判でも展開された。その訴えを受けた大阪控訴院の高野綱雄裁判長は、京都の中立警察署に足を運び、訴えのなかで無視しえない日出麿の収監以来の症状を看守人からつぶさに聞き調べた。結局、高野は日出麿が完全に異常をきたしていたという心証をうる。同時に、被告全員の調書がおなじ内容であることにも疑惑の目がむけられた。これらにもとづいて、大本の全被告が口をそろえて言う予審調書の虚偽性についての検討がなされていった。警察官を次つぎに調べ、調書の任意性が検討されたのである。

    さて、判決である。不敬罪のほかごく一部をのこして、当時もっとも重い罪とされた治安維持法違反は無罪となる。それは一審の判決がくつがえったことを意味した。太平洋戦争下での裁判で、同法で起訴されながら無罪になるということは、いかに起訴自体が不法なものであったかを物語るものである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P280~P281)

     

    弁護団の夜を徹しての資料作成と、長期にわたる毅然たる弁護が花を開き、直日はじめ信徒の祈りと努力、日出麿の受難と犠牲が実ったのである。裁判長・高野綱雄は、信念をもち権力に左右されない人として評判をとっていた。当時の社会風潮からすれば予想できない判決であったが、裁判長の公正な判断と勇気、宗教への理解がその決断となったのである。この裁判は、のちに”裁判史上特筆にあたいする”とまで言われる。密室での拷問をもとにした調書の虚構が証明され、ついにさしもの大事件がくつがえったのでる。

    (「神仙の人 出口日出麿」P281~P282)

     

    右の判決にたいし、大本側の不敬罪の有罪について、検事側は治安維持法の無罪にたいして、それぞれ大審院に上告した

    大本の検挙や有罪の判決を派手に報道したマスコミも、二審の判決の記事は紙面の片隅に小さく報道しただけであった。ために大本邪教観は戦後ながく尾をひいた。しかし大きな喜びがあった。被告のなかでももっとも長く収監されていた王仁三郎、”すみ”が保釈され、出所を許されたことである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P282)

     

    王仁三郎の髪はすっかり白くなっていた。王仁三郎は”すみ”とともに愛犬をつれて中矢田周辺で散策を楽しんだ。孫たちに囲まれ、水浴びもした。警察の監視はなおつづき、大戦下の世相はきびしかったが、二人にとっては、生涯ではじめてといっていい家庭的雰囲気のなかでの悠々の日々であった。そのなかで王仁三郎は、穴太・長久館の日出麿の身をふかく案じた。

    農園の直日宅に落ち着いてから十日たった八月十七日。自ら筆をとり、日出麿宛てに便りを書く。使者を通じて伝えられた。色紙には、こう書かれていた。

    長年幽閉不自由の身も漸く闇雲晴れて無事出所したり  御安心ありたし  元男  日出麿どのも長らく困苦と荒修行を為し  遂に大本事件は無罪の判決に青天白日を迎へ  欣喜にたゑず  最早元男の荒行も効を奏し  此上続行するは却而天授の身心を破るおそれあり  本日より荒行を絶ち飲食を十二分に採り  身心の恢復を祈られたし 

    先は右の由承知ありたく幸便に託し我意を伝へ候也

    五月闇晴れて天地の光かな

    十七年八月十七日        王仁
      元男殿

     

    色紙の表に富士の山を描き、その裏側にしたためたものだ。その文面には王仁三郎の日出麿を気遣う心情がよくあらわれている。そしてここで、日出麿の異常が何のためのものであったか、その一端が、すこし明らかにされた。

    (「神仙の人 出口日出麿」P282~P283)

     

    しかし、荒行は止まなかった。止めることはできなかった。いつ果てるとなくつづく。否、この一つの解決を終えて、いっそう熾烈の度をくわえたといえる。一つの成果をえて、なお猛然と勇を鼓して、より巨大な相手に挑戦した観がある。

    「わしは、これから大業にはいらんならんのでな」

    と、長久館の納屋のなかで真ッ裸になって座り、一週間の業をおこなうと言う。九月のはじめのこと、藪蚊の大群がせめたてた。身体中に黒ゴマをふりかけたように蚊がおそいかかる。みかねた側近がひきとめるが、聞きいれない。この時は四日目の夜、「もうこれで終わりました」と言って中止している。

    また、側近の席をたったすきに、居間の側にあった(つくば)いの下にかがみ、蛙の恰好(かっこう)をすることもあった、「グッ、グッ」という声も発する。あわてた側近が「早うおはいりください」と言うと、「ハイ、それまで」とコロッと態度が変わる。真夜中に幽霊そのままの姿をすることもあった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P284)

     

    こういう一コマもあった。王仁三郎がこの年の十月十九日に、郷里穴太にでかけ、産土の小幡神社に参拝した時である。南尊福は日出麿に「聖師さまが今、穴太にいらっしゃいます」と告げた。しかし「わしは行かん、あんた行ってこい」と突き放し、会おうとしない。南は王仁三郎に会い、そのことを報告する。王仁三郎は「そうやろ」とポツリと言った。何ゆえに「そうやろ」なのかはよくわからない。

    (「神仙の人 出口日出麿」P286)

     

    第二審の判決で、治安維持法違反に関して無罪に。そして、とうとう王仁三郎と”すみ”の保釈が認められる。事件勃発から実に6年8ヵ月ぶりに出所(”すみ”は6年4ヵ月ぶり)を許されたのである。

     

    ここで出所直後のエピソードをひとつ(「奇蹟を起こす霊的秘密」に書かれてた話し)。

     

    昭和17年8月7日、亀岡に戻ってきた王仁三郎は、さすがに痩せて、髪も白くなっていた。一方”すみ”のほうは、戦時中で食糧不足だったにもかかわらず、相変わらず太っていた(^^;。
    誰かの質問に、”すみ”は朗らかに答えた。

    「ああ、いい修行さしてもろたで。わたしの人生の中で一番楽でけっこうな修行やった」

    すると前を歩いていた王仁三郎が振り向いて言う。

    「何ぬかしとんじゃ、アホか。わしをあんなとこへ入れやがって。もう二度と入ってやるかい。わしが出たからは、今日から日本は負けはじめじゃ」と(^^;。

    この言葉は腹立ち紛れに発せられた何てことのない言葉に思えるのだが、実は予言だった。

    大本営発表では、この日以降も「日本、連戦連勝!」ということだったので、ほとんどの国民は日本が勝っていると思い込んでいた。
    ところが実際は昭和17年6月のミッドウェー海戦のあたりから雲行きがおかしくなっていて、王仁三郎が出所した8月7日には、米軍がガダルカナル島に上陸し、本格的な反撃が始まっているのだ。翌日8月8日の第一次ソロモン海戦(※注1)を契機に南太平洋の日本軍は総崩れになっていく・・・・・・

    王仁三郎が予言した時、周囲の人はおそらくピンと来なかったと思われるのですが、後になって良く考えてみると、あれは予言で、しかも当たっていたということに気づくのであります。

    【注1】第一次ソロモン海戦 ― この戦いは、戦術的には大勝利を収めたものの戦略的には敗北であっと言われている。この後、半年にわたるガダルカナル島を巡る激しい消耗戦で、日本軍はジリジリと体力を奪われていくことになる。

     

    話を戻して・・・・・・、

    亀岡に戻った王仁三郎は、「大本関係者が全員出所した今、もはや荒修行を続ける必要はない」という旨をしたためた便りを日出麿師に送った。

     

    しかし日出麿師の奇行はなおも続いた。
    もし、日出麿師が、当局の追及を逃れるために狂人を装っていたのだったのなら、もはや逃げ隠れする必要がなくなった今、狂人のフリを続ける必要はない。しかし、日出麿師の奇行はおさまるどころか、さらに過激度を増していった観があるという。やはり狂っていたのだ・・・・・・。

     

    さて、王仁三郎と”すみ”が釈放されたという報を伝え聞いた人々が監視の目をくぐって中矢田農園にかけつける。彼らは日出麿師のことも伝え聞いていたので、直接、王仁三郎に質問する者もいた。
    以下は、その手の質問に対する王仁三郎の返答。少し長いが、重要と思うので、すべて引用しておく。

     

    ――あのようなお方がなぜ、そのようなご病気になられたのか――

    この疑問がみんなの胸に去来し、心を暗くさせた。地方には、”病気”としか伝わらなかったのだ。そして、中矢田の寓居に王仁三郎をおとずれ、面会できたよろこびとともに、この点をたずねた者も少なくなかった。しかし、戦況の予言や類いまれなユーモアを連発する王仁三郎も、日出麿のことに触れられると口をつぐんだ。素知らぬふりをし、回答を避けた。たまに言及する場合は「癒らぬ」とはっきり断言し、信者の心をいっそう暗くさせた。それは当局のきびしい監視を考えての発言であったのかもしれない。保釈後もいささかの油断もならなかったのである。そしてこの王仁三郎の言葉により――日出麿先生の再起はむつかしいらしい――との風評が全国に伝わった。

    しかし王仁三郎は、ごく一部の人々には真意を告げていた。保釈から帰ってまもなくのことだ。日出麿の側近である石原には、小さな声でこうもらしている。

    「(神業は)いまは日出麿が六分、わしが三分、全国の信者が一分やっているのだ」

    また、日向良弘が「日出麿先生が蛙や幽霊などの恰好をされるのは、どういうことでしょう」と聞くと、

    「お筆先に”餓鬼や虫ケラまでも助ける”とあるが、日出麿はいま、蛙や蛇の霊までも救っているのだ。この世で、まだ迷っている幽霊も救っている。あらゆる霊を天国に運び上げるのが、あれの使命なのだ」

    としんみりした口調で教えた。道院の道名”運霊”のはたらきを指して言ったのであろう。

    (「神仙の人 出口日出麿」P287)

     

    昭和十八年(1943)にすすんで春。甲府市の土屋達臣が王仁三郎に面会した。その帰り際に土屋が、もっとも気になっていたことを尋ねる。

    「日出麿先生のご病気は治らないものでございましょうか」

    王仁三郎の口からはやはり一言の返事もない。土屋はかさねて聞いた。「日出麿先生のご病気は・・・・・・」と。やはり黙(もだ)したままだ。土屋は不安になった。機嫌でも悪くされたのか、たいへんなことを聞いたのか。これ以上の質問はやめようと思った。王仁三郎はしばらくの沈黙のあと火鉢のそばを立ち、おもむろに座敷机に向かった。そしてそこで一枚の色紙にすらすらと染筆する。そこには、この歌がしたためられてあった。

    もつれたる世の糸口を握りしめミロクの機(はた)織る奴は何者

    ミロクの機を織る奴はなに者・・・・・・。土屋はこの歌の真意がもちろんわかった。ミロクの世(理想世界)建設にむかって神の仕組みの機を織っているという意味である。もうこの歌で十分であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P288)

     

    大阪の上田朝成が夫人とともに王仁三郎に面会したおりだ。話の腰をおって、突然、王仁三郎がこう言う。

    「日出麿あかんで」

    投げ出すような口調だ。王仁三郎を敬慕することなら人に負けない植田も、この発言におどろき、胸が波打った。彼はこう申し立てた。

    「聖師さま、日出麿先生は私たちの手のとどかないところにおわします大神人でございましょう」

    弾圧中にも日出麿を夢に見て、かずかずの神徳(おかげ)を受けていたからであった。それでも王仁三郎は柳に風とうけながし、無言のまま、つと席を立つ。そして、戸棚のなかを探り、三宝柑を一つ取り出す。

    「孫がじきに取ってしまうから隠しておくのや。これをお前ら二人でお食べ」

    と、手渡した。しばらく沈黙の時間が経過する。やおら、ポツンと王仁三郎は言う。

    「日出麿は、わしよりおおきい仕事をするのやで」

    (「神仙の人 出口日出麿」P288~P289)

     

    同じころである。亀岡在住の成瀬言彦はやはり王仁三郎を訪ね、「日出麿さまのご近況はいかがでいらっしゃいますか」と問う。王仁三郎はこんな答え方をした。それは、日出麿の行状はたんに警察の目をごまかすためだけのものではない、との内容であった。「あれはご苦労なご用をしとるんやぜ。すこぶる力のある霊が邪魔ばかりするので、神さまがこれを改心させいと言わはるんや」

    そして言葉を継いだ。

    「こいつを改心させるには、誰かの身体に憑からせて修行させんならんが、誰にでもというわけにはいかん。まァ、わしか日出麿しかあらへんが、わしの代わりに日出麿の身体に憑からせてあるんや。たいへんなご用やな」

    ついに気を許し、真相の一端を告げたのである。ところがである。一ヵ月後にも成瀬が同じことを聞いたとき、王仁三郎は前とはうってかわって日出麿のことをクソミソに言う。成瀬はその急激な変化におどろき、ただ茫然とした。その日、成瀬は――涙の落ちるにまかせ日記を書いた――と後年のべている。

    このままではとても気持ちがおさまらなかった。それからまた一ヵ月ほどして、成瀬は心を決して王仁三郎に三たび聞いた。

    「日出麿さまのご近況は・・・・・・」と、王仁三郎の目をじっと見ながら、内心はビクビクしていた。王仁三郎は、「ウム、おなじこっちゃ」とだけ言う。成瀬はそれだけではあとにひく気になれない。それが通じたのだろうか、王仁三郎は「もっとこっちゃへ来い。もっと来い」と近くに手招きした。彼は額があたるほどに近よる。そこで王仁三郎はおもむろに、低く、しかし力のこもった声で告げた。

    「いまにな。もう一度、上げもおろしも、行きも戻りもでけんときが来るんやぜ・・・・・・、そのときがきたら、誰が出てもアカヘンのや。日出麿だけじゃ。日出麿が神の威勢を出すのや。ほかには誰が出てもアカン」

    それを聞いた成瀬は、感激のあまり涙があふれた。頬のぬれるのを気づかなかったという。

    (「神仙の人 出口日出麿」P289~P290)

     

    さらに、日出麿の側近である南尊福夫人も王仁三郎に、日出麿のことを問いただしている。そのとき、王仁三郎はこう具体的に答えた。

    「大本の神業を妨害する悪魔が、わしを八ッ裂きにして釜に入れ、殺そうとしたのがこんどの大本事件や。その悪霊がこれ以上、暴れないように日出麿の肉体につけてやったんじゃ。そのおかげで、わしは無事に刑務所から出所することができた。
    お前らに憑けようものなら半時も体がもたぬ。狂い死にしてしまう。日出麿だからああして保っておるのじゃ」

    そして今後の状態については「日出麿の霊が勝っているときは様子がよいし、悪霊が勝っているときは荒れている。だんだん悪霊が改心するにつれて、日出麿もよくなるのじゃ」と見通した。

    日出麿の行状、その原因と目的がここで明らかになったようだ。おなじ時期に、徳島の松本マツ子は、王仁三郎から「いま、日出麿には、どえらい霊をかけている」と聞いている。

    (「神仙の人 出口日出麿」P289~P291)

     

    正法が流布されていくときには、必ず魔が競い立つと申します。ユートピアの建設を邪魔しようとする。正法が広がれば広がるほど、彼らの地上での生活の場が縮小して行くからです。だから、必死で邪魔する。潰そうとする・・・・・・、
    これが大本弾圧事件の霊的な背景だと思われるのです。

     

    だから何度も言うように、本当に世の中を良くしていくためには、この世的な努力だけではダメであって、どうしても霊的な活動が必要なのであります。そしてその霊的活動のなかでも最も厄介なのが魔王たちを改心させることで、これができなければ、真のユートピアを築くことも決してできない。

     

    しかし、魔王を改心させることは、凡人である我々には99.9%不可能・・・・・・。そこで王仁三郎や日出麿師のような人たちが、魔王クラスの霊を担当して、我々の代わりに苦しみを引き受けてくださるということになるのであります。

     

    現実界に理想の世、平和な世界をきずくには、どうしてもこれらの霊界の悪霊を改心させなければ根本的な建設にならない。そしてその役目は、凡人にできるものではない。王仁三郎は事件前に、こうもらしている。

    「どんな悪霊でも腹へ受けいれて、よく保ち、よく耐えて、これを改心せしめ得る者は、いまの世において、わしと日出麿とよりほかにない」

    日出麿はいま、それを体内に受け、たたかいながら浄化、調伏し、改心させようとしているのだ。さきの、信徒にたいする王仁三郎の言葉からも日出麿の交霊の直接原因は、その巨大な霊との対決をいえ、日出麿のよく使う”業(ぎょう)”という言葉も、個人的な修行の意味でなく、以上の内容を含んだものと思われる。開祖の”筆先”には、

    悪神の大将を往生させて、天下太平に世を治めるぞよ
    悪の身魂を改心させて、善一筋の世にいたすぞよ

    とくりかえされている。また”日の出の神のご苦労”によって世界が良くなるとの神示が明治・大正期の筆先に出ていた。大本の筆先に、重要かつ謎の神として登場する”日の出神”が、日出麿の使命であることは前にものべた通りである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P293)

     

    さて、では王仁三郎は、なぜ日出麿のことを、「日出麿はあかんで」などと、クソミソに言ったのだろうか?
    これもなかなか微妙かつ難しい問題だ(^^;。「神仙の人 出口日出麿」の編者が、うまくまとめているので引用しておく。

     

    それは、まだ事件中で警察の目を意識したこともあろうが、また一つには王仁三郎が日出麿の果たすべき役割のいかに大きく重要で、しかも困難きわまるものであるかを誰よりよく知っていたためと思われる。日出麿には、”運霊”の道名が示すように、自らの霊をめぐらし、世界のもっとも凶悪な霊を浄化するという独自の活動を存分に遂行するには、没入できるしずかな環境が必要であった。いっさいの係累を絶ったのも、そのためであろう。ところが信徒としては、一日もはやく事件後の霊的活動の境涯より脱し、事件前の姿に復帰してほしいと熱望する。この期待は、王仁三郎の死後、とくにつよくなる。このときもし、王仁三郎の日出麿に関する右の発言がなかったならば、全信徒の待望から、日出麿は今日まで自己の神業に没頭することが困難であったかもしれない。日出麿には、世俗をはなれ、独自の霊的活動に没頭できる場がなければならず、王仁三郎の言葉は、そのための配慮であったとも考えられるのである。

    ちなみに、後述する竹田時代には、静岡の信徒の一部が日出麿にたいする独善的な期待から「日出麿先生お出迎え」と記したのぼりをおしたてて乗りこんだことがある。また、島根の信徒のあるグループはぎょうぎょうしく”献上品”なるものを持参し、日出麿をつれ去ろうとしたが、ともに日出麿の一喝にあい、ほうほうのていで逃げ帰っている。その他、教団本部の一部にも、地方にも、大小なくこれに類する動きがあった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P294~P295)

    「神仙の人」ノート その34

    >メインページへ 20090913 000

    「神仙の人」ノート その34

     

     

    天運は数運に合致する

     

     

    ●昭和16年12月8日、太平洋戦争(※大東亜戦争)が始まる。

    昭和16年11月、ハル・ノートを突きつけられ、追いつめられた日本政府は対米開戦を決意。

    昭和16年12月8日未明、ハワイの真珠湾を攻撃。アメリカ、イギリスに宣戦。

    緒戦は日本の大勝利だった。開戦からわずか100日余りで、東南アジアを支配していたイギリスを蹴散らし、フィリピン、ジャワ、ビルマでもアメリカ・オランダ・イギリス軍を打ち破ってしまった。日本国民は酔いしれた。

    しかし、ミッドウェー海戦での敗北(※昭和17年6月)から戦局が悪化していく。

    昭和17年8月、米軍ガダルカナル上陸。

    昭和18年2月、ガダルカナル島敗退。

    昭和18年5月、アッツ島守備隊玉砕・・・・・・。

    昭和19年7月、サイパン島陥落。

    昭和19年10月のレイテ沖海戦では、神風特別攻撃隊が初出撃。

    昭和20年3月、東京大空襲。死者約10万人(その後、人口の多い都市が順番に焼き払われていったそうだ)

    昭和20年4月、米軍、沖縄上陸。約10万人の兵士が戦死、一般住民も10万人近く死亡。

    昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下される。死者約14万人。

    昭和20年8月8日、ソ連が中立条約を破って日本に宣戦し満州に侵攻。

    昭和20年8月9日、長崎に原爆。死者約7万人。

    昭和20年8月15日、降伏・・・・・・。

     

    そして昭和十六年十二月八日未明、太平洋戦争に突入する。六年前の第二次大本事件の突発した同月同日であった。大本が壊滅させられたように、この日から日本もおなじ運命をたどることになる。大本にはそうした日時の符合がしばしばあり、偶然の一言でかたづけられないものがある。天運は数運に合致するといえる。

    (「神仙の人 出口日出麿」P275~P276)

     

    昭和13年2月18日、中国の道院で、次のような神示が降ろされている。

    「数運は天運と相合す。尋仁(※王仁三郎)は化世(かせい)の大責を負う者、必ず数運と天運の輪転(りんてん)に循(した)がい、以て世間諸劫(せけんしょごう)の障(さわり)を受く也」

    訳  「出口王仁三郎は世界を進化発展させる大責任を神より負わされている。ゆえに王仁三郎の肉体をもって示す数運は、天から与えられた運命として地上に実現し、世界を動かしていく。そのために、贖い主として世間のもつ劫の障害をうける」

    (「出口王仁三郎が語る霊界の最高機密」出口和明著P66より)

     

    あるいは、開祖”なお”のお筆先には、「大本は世界のかがみ」とある。

    その意味を簡単に説明すると、

    大本はひな型で、
    大本に起こったことが日本に移り、
    やがて世界に移る・・・・・・、

    また、反対に、
    世界で起こったことは、
    日本に移り、
    やがて大本に移る・・・・・・、

    ということであります。

     

    世界地図をよく見ると、日本列島と世界の国々が相似形になっていることが分かるでしょう。

    たとえば、北海道と北アメリカ、四国とオーストラリア、九州とアフリカ、本州とアジア・ヨーロッパ、あるいは、琵琶湖とカスピ海、瀬戸内海と地中海・・・・・・、これらを比較すると合わせ鏡のようになっていて、驚かされるのであります。

     

    こうした不思議な事実から、「日本は世界の”ひな型”である」と主張する神道家たちがケッコー多いのだ。そして大本では、さらに付け加えて、「大本は日本の”ひな型”である」と主張しているのであります。

     

    たとえば大本では、”太平洋戦争”のひな型は、”第二次大本事件”だと考えているそうだ。僕にはそれが本当かどうか、よく分からない(^^;。眉唾ものだとは思うけれど、とりあえず彼らの分析を見てみよう。

     

    彼らは、いろいろな出来事の日付とかを調べていて、気づいたのだ。それは次のようなことだ。

    第二次大本事件は、昭和10年12月8日未明に始まり、大審院の判決が出た昭和20年9月8日で終わる。その間9年9ヵ月。

    太平洋戦争は、昭和16年12月8日未明に始まり、サンフランシスコ講和条約が締結した昭和26年9月8日で終わる。その間9年9ヵ月。

     

    第二次大本事件から、ちょうど六年後の同月同日に太平洋戦争が起こって、大本と同じように、大日本帝国はコテンパンにやられてしまう・・・・・・。しかも、大本事件の大審院の判決が出た日と、講和条約が締結した日も、ちょうど六年ずれた同月同日・・・・・・。

     

    こうした”日時の符合”が単なる偶然で済ませられるか? いや済ますことはできない(^^
    やはり、「数運は天運と合致するのである!」、「大本は世界の鏡なのである!」・・・・・・というワケだ(^^;。

     

    確かに不思議な話しだ。大本では、こうした不思議な”日時の符合”が数多くあるそうだ。
    しかし、いつも思うのだが、そんなことを調べるのに膨大な時間を費やすのは、非常にもったいないことではないだろうか?

     

    たとえば、ノストラダムスの予言なんかでも、解読者たちが、凡人には到底思い浮かぶことのできないようなワケの分からない理屈をこねくり回して、「ノストラダムスの予言の的中率は驚異的だ!」と大絶賛していた。
    ところが、肝心の「1999年、人類滅亡」の予言が大ハズレして、「解読者たちのあの緻密な分析は一体何だったんだ!?」と物笑いのタネになってしまった(^^;。

     

    また、解読者たちの「1999年、人類滅亡」説を信じて、人生を狂わせてしまった人も大勢いる。僕なんかもその一人で、幼い頃に刻まれた「1999年、人類滅亡」説が、ずーっと心のなかに残っていて、「どうせ人類は滅亡するのだから!」という前提で、人生の岐路を、右するか左するか、選択してきたような気がする。今、振り返ると、それは非常に愚かなことだったと思う。

     

    あるいはマニアックな神道研究家たちは、日本地図を広げて、色んな神社を線で結んでみたり、コンパスで丸を描いて、幾つかの神社を結んでみたりして、地図を丸や三角や四角の線だらけにして、「あっ、ここにダビデの紋章の六芒星が浮かび上がった! やはり日本とユダヤには深い関係があるのだ!」とかいった、とんでもない飛躍をして喜んでいる(^^;。

     

    そして、各地の神社仏閣を巡って、「磁場調整をしたから、もう大丈夫!」とか、「光の柱を打ち立てたので、もう大丈夫!」とか、ワケの分からないことを厳かに宣言する・・・・・・(^^;。「そんなことをやってるヒマがあるのなら、もっと他にやるべきことがあるのではないか?」と、思わず突っ込みたくなってしまうのであります。

     

    また別の人は、年月日や時刻の数字を、足したり、引いたり、かけたり、割ったりして、やれ「3になった」とか、「666になった、彼は悪魔だ」とか、ワケの分からないことを主張したり、くだらない解釈を試みて、「とうとう謎が解けた!」と自画自賛・・・・・・(^^;。情けない話しです。

     

    大本の人たちが主張する、”日時の符合”なんかも、これらとさほど変わりがないのではないか?と、僕なんかは思ってしまうのだ。こうした研究に熱中して、色んなことを次々と発見をすると、そりゃ、面白いのかもしれないけれど、ハッキリ言って、それは単なる時間つぶしに過ぎないと思う。

     

    そうした研究の成果が、人生の指針になるとはとても思えない。そんな研究をしたからといって、心が豊かになることもないだろう。智恵の目が開けることもないだろう・・・・・・。

     

    そうした研究に明け暮れることや、そうした研究の成果に学ぶことと、正法を学び実践することとは、まったく別のことなのだ。ここをハッキリ押さえておかないと、神理を学んでいたつもりが、実際は大切な時間をムダに浪費していただけだった、ということになりかねない。

     

    最近(※2009年時点)では、”2012年にアセンションする”とかいう予言が話題になっている。色んな人が色んなことを、まるで見てきたかのように滔々と弁じている(^^;。
    ホピ族の予言とか、エドガー・ケイシーとか、日月神示とか、バシャールとかを引っぱり出してきて、「これから人類は必ずこうなるである!」と、強引に決め付ける(^^;。ノストラダムスの時と似たり寄ったりだ(^^;。こんなことばかりを主張している人たちには、お互い、注意しましょう。

     

     

    世の乱れに比例して激しさを増す霊がかり状態

     

     

    昭和17年4月18日から、穴太(あなお)の長久館に移る。ちなみにこの日、東京は初の空襲を受けている。この頃はまだ皆が緒戦の勝利に酔いしれていた時である。

     

    長久館の玄関脇の十畳の書院にはいってからは、たんたんとした日常であったが、交霊時は農園の時とその激しさが変わらない。特に翌月七日の珊瑚海海戦、それにつづくミッドウェー海戦、ガダルカナル島の攻防と戦争の様相が苛烈化するにつれ、交霊状態はいっそう激しさを増した。一日中、さらに真夜中でも正座で過ごした。夜も昼もなかった。渾身の力をもって没頭した。あるときは両手をふりあげたり、追いはらうような様子をしたり、大声で叱ったり、問答したり、立ったり、座ったり、また「プッ、プッ」と息吹きをしたりする。

    (「神仙の人 出口日出麿」P277)

     

    このころ食事を二日、三日とらないこともしばしばあった。そして何かつぶやく。世界各地の地名らしき言葉も聞こえる。側近の知る地名もあるが、知らない地名、あるいは人名と思われる言葉もひんぱんに口をついて出る。それに伴う激しい叱咤や動作も、それが何を意味するのか、かたわらの者には、まったく分からなかった。断片的な言葉や行動のなかに一人で何役も、しかも何かを演じているらしいことは、かろうじて想像できた。霊的なことである、と頭では理解できても、現実に接すると混乱し、時には逃げだしたい心情にかられる。なお、交霊中の言葉は甲高く早口で、時には口ごもるようで聞きとりにくい。ながく側近に使える者は日出麿が、大事なこと、つまり神界の秘事に属すると思われることは、わざと口ごもって発音し、側近にもわからないように配慮している様子がうかがえるという。相手に聞かせようと思うときは、いつもよく透る発音をした。
    この時期から、碁を打ったり、染筆をして過ごす時間が増えた。

    (「神仙の人 出口日出麿」P278)

     

    戦争などで大勢の人々がいっぺんに死ぬと、受け入れる側の霊界のほうも混乱するという。お昼時になると食堂に大勢のお客さんたちが詰めかけてきて、食堂はてんやわんやの大騒ぎとなる。それと同じことだ。

    また成仏できない霊たちが地表をさまよい、生きてる人に憑依したりして、地上に混乱を引き起こす。

    戦争で大切な人を失った人たちは、悲しみに暮れ、誰かを憎んだり、怨んだりする。そして、そうしたマイナスの想念エネルギーが、地獄界をさらに活性化させ、相乗効果によって、地上はますます混乱し、地獄界はますます増大していく。

    日出麿師の使命が、こうした迷える霊や地獄霊・動物霊の救済や、魔王たちの調伏にあるとするなら、戦争が激しくなればなるほど、当然、”霊がかり”状態も激しさを増すというものだろう。

    「神仙の人」ノート その33

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    「神仙の人」ノート その33

     

     

    汝、真の狂人なりや否や!?

     

     

    昭和十五年(1940)二月二十九日、第二次大本事件の一審判決が京都地方裁判所の大法廷で言いわたされた。事件勃発から四年三ヵ月の歳月が流れていた。その一審では王仁三郎は無期懲役、二代教主の”すみ”は十年、ほかの幹部も十五年から二年の懲役。罪状は治安維持法違反と不敬罪、出版法、新聞紙法違反であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P267)

     

    1940年4月、王仁三郎の三女・八重野が急性肺炎で危篤状態におちいる。「もうダメだ!」ということで、母親である二代教主”すみ”はたった一日だが、未決監より帰宅を許される。この時、”すみ”は日出麿師にも会っている。

     

    ”すみ”は日出麿にも会った。その翌日、刑務所にもどるまぎわのことである。

    「結構でございました。昨日はひじょうに尊いお姿をおがませていただきました」

    ともらした。側にいた内藤照雄が「日出麿先生のことでしょうか」と聞く。”すみ”は「そうや」と言いのこして去った。そのころほとんどの者は、日頃の異様な言動から日出麿は真に狂っていると思いこんでいたときである。内藤が、心の内で驚喜したことはいうまでもない。

    さて、八重野の病気のことである。”すみ”が刑務所に戻ってから、日出麿は石原に柊(ひいらぎ)の枝木を取ってくるように命じた。その柊をもち、八重野の家に向かう。絶対安静という八重野のいる部屋にはいる。石原が止めたが強引に入室した。そこで柊の枝木を部屋の四隅に刺して歩く。すむと、「これでいい」とひとり言しながら部屋をあとにする。柊は昔から悪魔祓いに使われる。四隅に刺すのは、四方祓いの意味かもしれない。ともかく、その晩から、八重野の病状はすこしずつ快方に向かい、回復は無理といわれた危篤の患者が、やがて全快する。

    (「神仙の人 出口日出麿」P269)

     

    誰が見ても狂っているとしか思えない日出麿師だが、”すみ”はそんな日出麿師を見て、「尊いお姿」と言った。なぜだろうか? 社交辞令のようなものか? それとも何か深い意味が込められていたのか?

     

    たしかに日出麿師には不可解な点があった。どう見ても狂人に見えるのだけれど、その狂人のワケの分からない言動には、深い意味が秘められていて、それが後々になって明らかになってくる・・・・・・、ということがケッコーあるのだ。

     

    たとえば、日出麿師の行為と八重野の回復には、因果関係があるのだろうか?
    日出麿師が柊を部屋の四隅に刺したので、八重野は回復したのか?
    それとも、回復する時期と、日出麿師が柊を刺した時が、”たまたま”重なっただけなのか? 

     

    こうした不思議なことが年に一度ぐらい起こるだけなら、”たまたま”だということになるだろう。しかし、こうした不思議な出来事が頻繁に起こるとしたなら、いったいどう考えれば良いのだろうか?

     

    ある時、日出麿師が二階から硯と筆をもって飛ぶように降りてきて、無地の砂子の六枚屏風に歌をスラスラと一気呵成に書き上げた。そのあざやかな墨痕に、直日も側近も、目を見張ったという。歌の内容も、筆の運びも、とても狂人のものとは思えなかったからである。

     

    こうした事がたび重なるので、この頃から、側近の者は、「日出麿師は、当局の監視が続行されているので、わざと狂ったフリをしているのではないか?」と思うようになってきた・・・・・・
    嗚呼、日出麿師の振る舞いは、本当に完全に狂っているのだろうか?、それとも正常と狂気が交錯しているのだろうか?、あるいは大いなる神意によるものなのか?・・・・・・

     

     

    人の心を映し出す鏡のように

     

     

    ある日(※昭和15年の夏)のことである。二階に松並高義という事件前の幹部が挨拶にきた。日出麿はともてなつかしがり、静かな人なつっこい表情で、昔日とおなじように話しをはずませた。その態度、応対は以前とすこしもちがわなかった。自分の境遇について「こんなえらいことはかなわんわい」とももらし、胸襟を開いていた。ところが、その席にべつの者が来た。とたん日出麿はガラリと変化した。粗暴な態度になるのである。

    このように、このころから、狂っていると決めてかかる者の前では、とくにそのとおりの行動をとった。というより相手の想念を受けてそのように反応するのであろうか。

    (「神仙の人 出口日出麿」P273)

     

    こうした逸話もなかなか意味深だ。
    自分を慕う者に対しては、元の日出麿師に戻って接し、自分を狂人だとバカにする者に対しては、狂人の如く振る舞う・・・・・・。もし、こうしたことを意識的にしているとするならば、「日出麿師は、実は正常なのである」と言うことができるだろう。要するに”狂ったフリ”をしているということだ。

     

    仮にそうだとして、なぜ、そんなこと(※狂ったフリ)をする必要があるのか?
    特高に引っ張られるのがイヤだから、ということだろうか? でも、自分を慕っている者には、「実は、俺は狂っていないんだよ」というサインを出して、安心させる。彼らが日出麿師を警察に売るようなマネはしないだろうから・・・・・・

     

    しかし、こうした計算心があったとしたなら、ハッキリ言って、ガッカリだ。そういうのは”兵法”であって、宗教家のやることではないからだ。
    日出麿師は、そんな策士タイプの人間ではないと僕は思う。鏡というものは、立ち向かう人の姿をそのまま映し出す。しかめっ面の人にはしかめっ面で応え、微笑んでいる人には微笑みで応える。「気に入った相手だから綺麗に映そう」とか「こいつは嫌いだから醜く映してやれ」などという計らい心が一切無い。日出麿師の場合もそれと同じではないか?

     

    鏡のごとく、悪霊が近づけば荒れ狂い、心の綺麗な人が訪れれば胸襟を開く。荒れ狂っているときも、元に戻っているときも、それはそれで”ありのまま”、”あるがまま”の日出麿師だったのではないかなぁ・・・・・・、という気がするのです。

    努力について

    >メインページへ  20090829 000

    努力について

     

     

    自助努力は正法行者の基本姿勢

     

     

    「努力なんて必要ない」という教えを説く人たちがいるようだ。その中には高橋信次先生の”教え”を学んだという人もいるから呆れかえって、開いた口がふさがらない。信次先生からいったい何を学んでいたというのだろうか(^^;。

     

    正法では、「知恵・勇気・努力」の三位一体の行為を重視している。
    「知恵」と「勇気」と「努力」は三位一体であって、どれか一つだけあっても意味がない。また、一つでも欠けてしまうと、これまた意味がなくなってしまう。

     

    たとえば、「知恵」はあるけど、「努力」がキライで、「勇気」もない人間・・・・・・、はたして、こんな人が正法を実践できるだろうか?
    あるいは、「知恵」も「勇気」もあるけど、「努力」しない人間・・・・・・、こんな人も、本当の意味において正法を実践することはできないだろう。

     

     

    中庸を得ることが大切

     

     

    また、「知恵・勇気・努力」のそれぞれに関して、中庸ということ、かたよらない中正の道が大事だ。中庸を得ていない「知恵・勇気・努力」は、自分も他人も傷つけてしまう。

     

    どれだけ頭の回転が良くて、「知恵」があったとしても、他人を不幸にするために使ったり、自分だけが得するために使ったり・・・・・・、こういう小ざかしい「知恵」、悪「知恵」は、ハッキリ言って中庸を得ていません。自分も他人も良くなるようにと、頭を働かせることが、本当の「知恵」。

     

    「勇気」なんかでも、匹夫の勇になってしまってはいけない。怖いもの知らずと「勇気」とは、似て非なるものであります。前に一歩踏み出すことだけが「勇気」なのではない。相手をぶっ飛ばすことだけが「勇気」じゃない。
    時と場合によっては、あえて踏み止まること、あえて退くこと・・・・・・、これが真の「勇気」であることもあるのだ。

     

    自分の間違いに気づいたら、素直な気持ちで謝ること・・・・・・、これもまた大きな「勇気」であります。間違いを誤魔化すために、ご大層な屁理屈を声高に主張してみたり、相手が自分よりも弱そうだったら威嚇してみたり、怒鳴ってみたり・・・・・・、そんなのは「勇気」でも何でもない。

     

    あるいは「努力」。
    たとえば、暴力団の組長を目指して「努力」する・・・・・・(^^;。こういうのは「努力」の方向性を間違っている。自分も他人も良くなっていく方向で「努力」することが、中庸というものだ。

     

    また、「努力」は、人に見せるためのものではない。人に認めてもらいたくて、「努力」をアピールしている人がケッコー多い。「俺はこんなに頑張ってます。どう? 凄いでしょ!?」ってな感じ(^^;。

    それとか、同情してもらおうと思って、苦しげな表情を浮かべながら「努力」したりなんかして(^^;。これは苦行僧たちの得意技だ(^^;。断食して、痩せさらばえて、いかにも「我は聖者なり」ってな顔で、人々にアピールしている。そして、人々から称賛されて、うれしがっている。こういうのは自己顕示欲の塊で、自己顕示欲を満たすために、「努力」をアクセサリー化していると言わざるを得ない。

     

    そうかと思うと、自力天狗の「努力」家なんてのもいる。自分が必死に「努力」して成功したから、他人には手厳しい。「あなたが成功できないのは、単にあなたの努力が足りないだけなのです。もっともっと私のように頑張りなさい!」なんてことを平気で言う(^^;。

     

    また、頑張りすぎて、燃え尽きてしまう人もいる。「努力」は大切だけれど、精神を病んでしまうような「努力」のやり方は間違っている。「努力」は、長く長く継続してこそ意味がある。長く続かせるためには、頑張りすぎてはいけないのだ。

     

    人生を、最初から最後まで全力疾走しようとして、頑張れば頑張るほど、その人の苦しみは大きくなっていく。そして、そもそもそんなことは絶対にできないことなのだから、途中で絶望して、すべてを投げ出してしまいたくなる。でも、投げ出してしまったら、人生の敗北者だ。負け組だ。俺なんて生きる価値がない・・・・・・、こうした葛藤に苦しみ、やがて精神を病んで行き、最後に燃え尽きてしまう。

     

    頑張り過ぎはいけないのだ。頑張ることが、「努力」ではないのだ。「努力」は、無理をしないで、一歩ずつ一歩ずつ積み重ねていくもの。「頑張りすぎ」の状態とは、マラソンを、50メートル走と同じスピードで、完走しようとして頑張っている状態(^^;。そんなことできるはずがないのだ。それをやろうとしているのだから、必ず挫折する。当然のことだ。

     

    ペース配分が大事なのだ。「実践、実践!正法は実践しなければ意味がないのである!」と絶叫して、四六時中気張っていては、身も心もボロボロになってしまう。息抜き、リラックス、頑張らない時間・・・・・・、これが絶対に必要なのだ。

     

    心理学なんかで、「努力逆転の法則」を説く人がいる。「頑張れば頑張るほど、うまくいかなくなる」という法則だ。
    これは誰でも経験することだ。「努力!努力!頑張るぞ!頑張るぞ!」と、しゃちほこ張っていると、無駄な力が入って、かえって失敗してしまう場合が多いのだ。

     

    たとえば、どうしてもこの学校に入りたいと思って、必死に努力して、試験のとき緊張しすぎて、頭が真っ白になって、不合格になってしまった・・・・・・なんて話しをよく聞く。これなどは「努力逆転の法則」と言えるだろう。

     

    しかし、それは「努力」したから失敗したというわけではないのだ。もし彼が「努力など必要ない」とか、わけの分からないことをほざいて、遊び呆けて試験に臨んだならば、最初から彼の不合格は99.9999999%決まっていたはずだ(^^;。「努力」したからこそ、彼には可能性が開けたのだ。

     

    「努力」が悪かったのではなくて、プレッシャーへの対処法を心得ていなかったということ。プレッシャーを受け流すことができていたならば、きっと、「努力」によって培った本来の実力を発揮することができたはずなのです・・・・・・

     

    「努力」だけではダメなのだ。プレッシャーをものとしない度胸、失敗を恐れない「勇気」も大切。そして「知恵」も大切。「知恵」のある人は、色々な考え方ができる。「失敗したらどうしよう」と思わずに、「失敗してもいいじゃないか?死ぬわけでもなし。また頑張ればいいのだ」・・・・・・、こう考えることでリラックスできる。緊張がほぐれる。すると本来の力を出すことができるようになるから、結局うまくいく・・・・・・、ってなもんです。

     

    まあこういう感じで、結局、「知恵・勇気・努力」の三位一体の行為がもっともよいと言うことです。

    「努力など必要ない」なんて甘い言葉は、一面の真理に過ぎず、そんなものを真に受けてしまってはいけない。「自力あっての他力」という言葉を忘れてはならないと思います。

    「神仙の人」ノート その32

    >メインページへ  20090826 000

    「神仙の人」ノート その32

     

     

    病院では何かと不自由なので、直日は当局に自宅療養の申請をした。切実な思いであった。公判停止の命令が出たためであろう、それは受け入れられた。余命いくばくもないと当局もみたのであろうか。あるいは、泳がせてみて不穏な動きがあれば、ふたたび検挙、取調べをする考えがあったのかも知れない。ともかく日出麿は約八ヵ月の京大病院生活を終え、直日たちの住む中矢田農園に身を移す。昭和十四年十月二十七日のことである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P257)


     

    ●昭和14年(1939)、第二次世界大戦勃発。

    1939年9月1日、ドイツ軍、ポーランド侵入。9月3日、イギリス・フランス、ドイツに対して宣戦。
    孤立を深めていた日本は、1940年、ドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を結ぶ。これによりイギリスを支援しているアメリカとの対立がさらに深まる。
    この後、日本は、ABCD包囲網によって経済的に追いつめられていくことになる。

     

    約四年ぶりの帰還であった。
    変わり果てた姿での帰還であった。もともと痩身だったが、過酷な拷問で、さらにやつれ果て、フラフラの状態だった。歯もわずかしか残っていなかった。

    第二次大本事件勃発当時37歳だった日出麿師も、まもなく42歳を迎えようとしていた・・・・・・

     

    「病根は意外にふかく、治癒の見込みはまったく立たない。こういう状態の患者の肉体は長くともあと十年しかもたない」・・・・・・

    精神病学の権威者である三浦百重博士は、そう宣告した。王仁三郎の後継者として将来を嘱望され、栄光の道を歩んでいた日出麿師を待ち受けていた運命はあまりにも過酷であった。

     

    当初の三日間は、事件前とさほど変わらず、このまま快方に向かうのではないかと期待された。よろこびはあふれた。

    が、それもつかの間であった。期待に反して日出麿のその後の行動は、とりとめのない極端な分裂症状を呈しだした。話すことは雲をつかむようなわからないことばかりとなり、人の問いにもあらぬことを言った。返事もない。意志の疎通はとれなかった。

    そうしたなかで、闇のなかに正座したまま、上体を前後、左右にゆすり、そして息を吹いた。プップと軽く、時につよく息吹く。しかしそれは、寄せくる霊を払っているようにもみえた。

    日増しに肉づきはよくなった。健康の回復は人々を安堵させたが、日常の動作の荒れようは顕著となっていく。あるときは何者かをきびしく叱るように、時には、日向や同じく側近となった石原雍久に向けて、平手、拳骨がとび、物が投げられる。障子や窓ガラスは破られた。それはまさに、すさんだ”霊がかり”の状態であった。こうした日出麿の”霊がかり”状態を、だれからともなく”交霊”とよぶようになる。文字通り、他者の霊との交渉を意味する。しかし、この交霊をたんなる発狂の状態とみる人がこの時期はほとんどであった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P259~P261)

     

    日出麿師の状態を客観的に見るならば、「拷問に耐えきれなくなって発狂してしまった可哀想な人」ということになるだろう。

     

    霊的に見るならば、「日出麿師は地獄霊に憑依されている」ということになるだろうか?

    地獄霊に憑依されるのは、憑依される側にもそれなりの原因がある。憑依現象というものは、波長同通の法則によって引き起こされるからだ。
    つまり、「日出麿師は、拷問の苦しみのなかで、誰かを憎み、神を呪い、心を曇らせてしまった。その結果、地獄霊を引き寄せてしまったのではないか?」ということだ。

     

    あるいは、「神罰が降ったのだ」と言う人もいる。
    詳しい経緯は知らないけれど、第二次大本事件の数年前、日出麿師が王仁三郎の引退を画策したとか、しないとか・・・・・・、そんな事件があったらしい。その罰があたって、気が狂ってしまったのだ、というのである。

     

    いずれにせよ、”光の天使”が志半ばで発狂してしまい、不様な姿をさらすなんて話しは、あまり聞いたことがない。日出麿師が本当に”光の天使”だったのなら、神様が守ってくださるはずだ。でも日出麿師は狂ってしまった。本当にホンモノの”光の天使”だったのか??? 日出麿師なんて、所詮その程度の人間だったのだのではないか? そして、その程度の人物を後継者に指名した”大本”教団も、所詮たいしたことないのではないか?・・・・・・、こうした推理も成り立つだろう。

     

    総じて、淡々とした態度と日常であったが、その交霊は一日に数回あった。交霊の前には予兆があり、何かぶつぶつと問答や話があった。気づかずにいると、側近はうろたえねばならなかった。交霊は、側近に向けられるものではないが、側にいるとその乱暴は、時に殺されてしまいそうなほどの気迫であった。しかし、終わってみると、いつもそこにはおのずからの節度があった。交霊とは何を意味するのであろうか。石原雍久は当時のことをこのように述懐する。

    「ご交霊の状態をよく見ていますと、一区切り一区切り、そのようすが変わっております。私は、お姿を拝見していて、道院名が”運霊”であることを思い出しました。このご交霊は、救世のご用であると思ったのです。ご交霊がはげしいときなどは、一人や二人では手におえないこともあります。憑霊にお身体をおまかせになっていることもありますが、先生の態度には節度がありましたので、私はそのまま見守っておりました。

    ”憑霊にお身体をおまかせに”とあるが、日出麿がかつてノートに書いた、つぎの一項が思い出される。

    ――わたしの守護神は、直接わたしの肉体におらない。たんに、肉体を直接守護する最下級の霊が止まっているだけで、絶えず、入れ代わり、いろいろの人の霊がかかって来ているのである。そして、その霊魂のつぐないを、自分の肉体がしてやっているのである。だから、自分の気持はつぎから次へと変わっているのである。一方、このようにして、自分の最下級の霊魂(すなわち副守護神)は、修業させらてゆき、力づけられていくのである――

    これは日出麿のことであって、かならずしも一般に通用するものではない。以前から日出麿はここに書かれてあるように、肉体から自己の本霊(守護神)を自由に出し入れしていたようである。こうした本霊の脱出したあとの肉体は、それを維持するだけのひくい精霊(副守護神)のみが宿り、第三者からみれば虚脱状態の精神異常者のようにも見えるのである。この時期、そしてこれからものちも日出麿は、右のように、自分の体内に救済すべき凶霊を引き入れ、その浄化に全力をあげていたもの思われる。これは後年の言葉であるが、みずから「憑霊は憑霊だが、自覚のある憑霊」と口にしている。”自覚ある”ということは、肉体が憑霊に完全に占拠されているのでなく、日出麿の霊魂が、その憑霊の存在を容認していることを意味する。それは巨大な力をもつ悪霊との戦いであり、個々の救霊でもあった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P260~P262)


     

    日出麿師の発狂状態を好意的に解釈した場合、上のような説明になる。「発狂状態もまた神仕組みなのだ」と言うわけだ(^^;。

     

    道院・紅卍字会に降りた神示で、日出麿師の道院名が”運霊”と示されたように、日出麿師には「迷える霊魂を導き、天上界に運ぶ」という使命があるのだ。
    想像を絶する破壊と殺戮の時代がまもなく訪れるだろう。世界は闇に沈むだろう。魔王たちは各国の指導者たちの心のスキに忍び込もうとして暗躍し、地獄霊・動物霊たちは地表を跳梁跋扈し、人々の心を惑わせていた・・・・・・。

     

    宗教家たちが口先だけで、「許しましょう。愛し合いましょう」と、叫んだところで、そんなものは単なる空理空論に過ぎず、現実の世界平和に一ミクロンも貢献していなかった(^^;。もはや口先だけでは、どうにもこうにもならない切羽詰まった時代だったのだ。

     

    この大動乱の時代を終わらせるためには、現実社会での現実的な動きも大切なのですが、それとは別に霊的な面から働きかけていくことも非常に大切なのであります。その中でも一番やっかいなのが、魔王たちを調伏することであります。

     

    個々人が世界平和を祈る・・・・・・、こうした霊的な働きかけもあるでしょう。しかし、その程度のことで魔王たちの動きを封じ込めることは絶対にできない。やはりその道の専門家、たとえばモーセとかミカエルのような超強力な霊力の持ち主でなければ無理なのであります。もし、そうした専門家が、自分自身の楽しみを捨て去り、本気になって命がけで戦ったとしても、そう簡単に魔王たちを改心させることはできないのです。

     

    日出麿師の青年時代のノートに、「一切の身辺の係累をかなぐり棄てて、思うままの世界を跋渉することは、自分が狂者にならない限りとてもできない。・・・・・・」(大正12年4月8日)とあるが、まさにその通りでしょう。

     

    己の利益とか地位とか名誉とかに執着したり、
    家庭の団欒、恋人や友人との語らい・・・・・・、こうした慰めを求めている限り、人は守りに入らざるを得ない。
    守りに入った人間が、地獄の魔王たちに立ち向かい、彼らを改心させることなど、到底できるものではないのだ。

     

    キチガイになって、世間体なんか気にしないで、命、地位、名誉、称賛、金、色恋、家族、友等々、俗世間のしがらみをすべて断ち切って、はじめてこうした大きな任務につくことができるのだと思います。
    そしてまさにそれこそが、日出麿師の役割だったのではないか?、ということであります。

     

    まだ日出麿師が正常だった頃。五条署の独房の中で日出麿師は、 「できません」「いや、わたしにはとてもできません」と、何者かに向かって、何らかの任務を断り続けていた。そうした一人芝居のようなことが一週間ほど続き、とうとう、「やります」と、応じたのである。この後から、狂乱状態に陥ってしまったのだ。

     

    いったい日出麿師は、如何なる任務を引き受けたのか?
    この時、日出麿師の声を聞いていた近くの独房の大本信者は、「日出麿師は神がかりで問答していたのではないか?」と思ったという。もし、そうだとして、日出麿師は神霊といったい何を約束したのか? これは”神との黙契”といって、永遠の謎であります。

     

    その謎について、「神仙の人 出口日出麿」の編者は、こう推理している。
    ”神との黙契”の内容は、
    「狂者となって、一切の身辺の係累をかなぐり棄てて、今後、猛威をふるうであろう魔王たちを調伏せよ」といった感じのものだったのではないかと・・・・・・。

     

    これはあくまでも推測だ。編者は日出麿師に心酔しているから、どうしても何でもかんでも日出麿師に都合良く解釈してしまいがちだ。
    大本関係者にも派閥のようなものがあって、日出麿師を認めない人たちは、神罰が降って気が狂ってしまったのだ!という意見があることは先ほど示しておいた。ちなみに私はどう見ているか?というと、「よくわからん!」というのが本音です(^^;。

     

    さて、では具体的にどうって魔王たちを調伏するというのだろうか。霊力で封じ込めるのか? あるいは神理を諄々と説いて改心させるのか?
    以前にも触れたが、日出麿師は、そういうスタイルではない。
    日出麿師の場合、地獄霊たちをあえて自分自身に憑依させて、彼らの苦しみを自分で引き受けて、そして、彼らが自分の過ちに気づくまで、大きな愛で包み込む・・・・・・、といった感じのやり方のようであります。

     

    これがもし本当なら、かなりキツイやり方だと思います。特に魔王クラスを憑依させるのは、本当にキツイと思う。一歩間違えたら、自分自身が逆に地獄の底に引きづり込まれることになってしまう・・・・・・。

     

    日出麿師の”交霊”は、その時々で、凄まじく荒れたり、それ程、荒れなかったりと、決まった形はなかったそうです。それは要するに、憑依させた霊に応じて、千変万化するということ。成仏できなくて迷っている程度の地獄霊ならば、それ程、苦しむことなく成仏させることができるだろう。しかし、魔王を憑依させたら、さあ大変。のた打ち回ることになる・・・・・・


     

    ある日、散歩から帰った日出麿は、玄関で立ちどまり、「ここの家はどなたの家ですか。門札がありませんなァ」と、ひとりごとを言う。石原はさっそく門札をつくる。日出麿にしめすと、その表面に揮毫がなされた。自分の名前ではなく”有悲閣(ゆうひかく)”と書いた。有悲閣。なんとさびしい命名だ。日出麿自身、ふかい海の底にいるように暗い黄泉の苦しみを嘗めていたのだろう。それは当時”湃溟(はいめい)”と、大きく揮毫したことでもわかる。湃は、波の逆巻くいきおい、またその声を意味する。溟は遠くふかくして薄暗く、あるいは黒い海をいう。日出麿は激流と暗黒の深淵に彷徨していたのである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P266~P267)

    「神仙の人」ノート その31

    >メインページへ  20090808 000

    「神仙の人」ノート その31

     

     

    昭和10年12月8日、第二次大本事件勃発。逮捕された信徒たちには、過酷な拷問が加えられた。

    昭和11年2月、拷問で正気を失った日出麿師、”強度の神経衰弱”とみなされ、五条署から京都第二日赤病院へ。

    昭和11年4月、再び五条署に移される。
    明らかに精神に異常を来している日出麿師を、当局は「狂人を装うもの」とみなし、取り調べを仮借なくすすめた。

     

    警察による日出麿の「警察聴取書」作成は、中立売署で、この十一年の五月二十二日にはじまり、六月二十四日の第十六回で終わる。ついで京都地方裁判所検事局・小野謙三検事による聴取が七月三日から七日まで四回おこなわれた。その取り調べは、弁護人の介入をいっさい許さないなかですすむ。七月十三日、小野検事は治安維持法違反の容疑で日出麿を起訴し、身柄を五条警察署から中京区刑務支所に拘留した。

    翌十四日、予審判事による日出麿の第一回の訊問が隣接する京都地方裁判所ではじまった。第二回は八月、この訊問のあいだも接見は禁止された。そして、日出麿にたいするこれらの訊問調書がのちに大きな問題となり、大本弾圧事件に一つの転機をもたらすことになるのである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P238~P239)

     

    昭和12年1月、第三回予審訊問。このころ山科の京都刑務所に移される。

    昭和12年4月、第四回。その後しらばく中断。

    昭和13年6月、第五回・・・・・・、そして7月4日の第二十回目で、予審訊問が終了する。

     

    昭和12年7月7日、支那事変(※日中戦争)起こる。

    北京郊外の廬溝橋で、日本軍と中国の国民党軍が戦闘状態に。日本政府は不拡大方針を定めたが、結局、戦線は全中国に拡大し、泥沼化。
    アメリカ・イギリスは蒋介石を援助し、日本はますます孤立化していく。

    ●昭和13年3月、国家総動員法が成立。

    国を挙げて戦争を遂行する体制をつくるための法律。これにより政府は、議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限を与えられた。

     

    最終予審訊問の二十日後、弁護人の林逸郎は日出麿師に接見するが、日出麿師の常軌を逸した言動に衝撃を受け、接見から三日後、京都地方裁判所にたいし、日出麿師の精神鑑定の申し立てをおこなう。

    精神鑑定を命じられた京都帝大医学部精神病学主任教授の三浦百重博士が提出した鑑定書・・・・・・。

     

    一、出口元男は、現在真実の精神病にかかり、病名としては精神分裂症が最も疑わしきものなり

    二、本病症発生の時期は、昭和十二年三月ころと推定され(※大和注 実際は、2月頃)

    三、現在異常の程度よりすれば、知性の完全なる運用は全く望むべからず

    (「神仙の人 出口日出麿」より)

     

    ・・・・・・・。京都地方裁判所は、この鑑定書にもとづき、日出麿師にたいする公判は、ほかの被告と分離しておこなうことを決めた。

     

    こえて昭和十四年(1939)一月三十日、分離公判が開かれ、公判準備手続きのため庄司裁判長の日出麿にたいする訊問がおこなわれたが、日出麿がひょうぜんと法廷から退場したため、わずか五分で閉廷が宣せられ、心神喪失症であることがみとめられたのである。
    その訊問の記録がのこっている。

     

    京都地方裁判所 治安維持法違反被告事件公判準備手続速記録

    裁判長 いったい、大本というものはどういうものだ

    出口 よいところだと思いますけれども・・・・・・

    裁判長 よいところとは、どういうところが・・・・・・

    出口 そうでございます、どういうところというて、世のなかを立替えるのですから、ともかく・・・・・・

    裁判長 立替える?

    出口 ヘェッヘ

    裁判長 どうして

    出口 私がやると思います

    裁判長 どういうわけで

    出口 私が奮闘力戦してやります

    裁判長 ウ

    出口 ヘェ、舟を造ります。一艘・・・・・・そうして行きます。それより他おへん

    裁判長 元男が”立替え立直し”をするというのか

    出口 私でございます。ヘッヘェー、そうでございましょうとも、どうしても

    裁判長 王仁三郎がやるのじゃないか

    出口 王仁にはできませぬ。王仁は小さい、ヘッヘェーあんなこっちゃおへん

     

    なんとも意味深長にひびく内容ではある。もちろんどんな口調で語ったのかは分からない。しかしここには、王仁三郎をかばう心や、このような状態になった動機がかくされているようにも、また、その後の日出麿の活動の片鱗をうかがうこともできる。そして、この訊問にたいする答えは”俗界”への別れの言葉ともなったのである。

    その一週間後の二月六日、答弁はことごとく常軌を逸しているとして公判の停止が決定する。日出麿は、責付出所のうえ中京区刑務支所から京大付属病院精神科に即日、入院させられることとなった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P251~P252)

     

    年表を見ると分かると思うのですが、当時の日本は激動の時代でした。

    ”大日本帝国”という視点から見たとき、大本への弾圧は、ある意味、当然のことだったと言えるかもしれません。

    国民が一致団結して、この激動の時代を乗り越えてゆこうとしているときに、国の言うことを聞かないような連中は、”国賊・逆賊”だ!、ということです。

     

    たとえば、会社などでもそうだろう。会社の偉い人たちが決めた方針に従わず、「こうやったほうがいいんだ!」と言って、勝手なことばかりやる社員は、きっとクビになるだろう。たとえその社員のやり方のほうが理に適っていたとしてもだ。不条理な話しだが、組織とはそういうものだろう。

     

    しかし、宗教家というものは組織に呑み込まれてしまってはならない。いや、宗教家だけがそうなのではない。すべての人々は、神様を第一にしなければならないのだ。国や会社の方針が、神様の御心に反する時、我々は、神様の御心を最優先させるべきなのだ・・・・・・。ま、こういうことは、口で言うのは簡単ですが、実際にできるかどうか?、非常に難しい問題だと思います。

     

    現に当時、宗教家たちも一般大衆も、神仏の御心よりも、国家を優先してしまった・・・・・・。弾圧されるのが怖くて、腰砕けになってしまったのだろうか?・・・・・・。一般大衆がそうなってしまうのは仕方ないことだろう。しかし、宗教家が国家権力にビビッて、尻尾を巻いて、神理を曲げてしまったのだとしたら、どう評価すればよいだろうか? 残念ながら、そういう宗教家をホンモノだと認めることはできないと思います。

     

    そう考えてみると、神様を最優先した大本は、本当に立派な宗教だったと言えるだろう。また信者たちも非常に信仰心が篤かった。大多数の信者は、国に弾圧されても無抵抗主義を貫き、人々から「国賊!逆賊!」と罵られても耐え忍び、最後の最後まで決して屈することがなかったそうです。

     

    ちなみに、「生長の家」創始者の谷口雅春先生は、

    「天皇陛下は現人神で、大日本は、その天皇陛下の国なのだから、宗教家たちは国の方針を神の御心と受け止めて、すべからく従うべきである!」

    という感じの考え方だったと思います。だから大東亜戦争なんかも、”聖戦”だと考えて、国家に協力的だったそうです。これは正しいことだったのか?

     

    僕は、非常に微妙な部分があると思っています。谷口雅春先生は、天皇陛下を現人神と信じていた。だから、天皇陛下の国である大日本帝国に協力することは、谷口雅春先生にとって、神様第一主義の実践だったのだ。そういうふうに見れば、「間違っていた!」と決め付けることはできないだろう。

     

    しかし、実際問題、天皇陛下が、「大宇宙大神霊」そのものであるはずがないのであります。たとえ天皇陛下であっても、あるいは、どんなに偉い政治家であっても、間違う可能性はあるのです。なのに、谷口雅春先生は、「天皇陛下は神だから、無謬である」と考えていたと思う。これは盲信・狂信ではないのか?と思わざるを得ないのであります。

     

    天皇陛下は偉大な光の天使だったかもしれないけれど、やはり人間だったのです。その人間・天皇陛下を、究極の神と同格と考え、その考えを信徒たちに真理として説いてしまった。そこに問題点があったのではないかなぁ~と、密かに僕は思っているのであります。 

     

    やはり宗教指導者には、「国師」としての気概が必要なのではないだろうか? 国の方針が、神仏の御心に反していたならば、大統領であろうが、総理大臣であろうが、天皇陛下であろうが、言うべきことを、言うべき時に、ハッキリ言う・・・・・・、こうした気迫のない宗教指導者たちは、一からやり直したほうがよいのではないかなぁ~と、密かに思ってみたりするのであります(^^;。  

     

    仏教のある宗派の僧侶たちが、敵国の指導者を呪い殺すために、神仏に祈った・・・・・・、なんてアホな話しを聞いたこともあります。ま、これはデマだとしても、実際、浄土真宗なんかは戦争に協力的だったそうです。そんなものが本当の仏教であるはずがないのであります(※浄土真宗の教えが間違っているということではなく、当時の浄土真宗の指導者が、仏教を曲げたという意味)

     

    2500年前のこと。
    釈迦族の男子は弓術などに長けており、他国の人々も一目置いていました。
    その釈迦族の人々は、偉大な悟りを開いた元・王子のお釈迦様に帰依し、その教えを守るようになりました。

     

    ある国に王子がいた。この王子は幼い頃、釈迦族の人々に屈辱を味わわされ、「いつか復讐してやる!」と心に決めていた。そして、やがて王になり、「時が来た!」と感じ、軍勢を率い、釈迦族を攻めたのであります。

     

    釈迦族の兵士たちは、防衛のため、弓を放ちました。彼らは弓術に長けていましたから、狙いは、恐ろしいほど精確でありました。
    次々と兵士たちが負傷していくのを見た王は、「これはまずい!逆にやられてしまうのではないか?いったん退却しようか?」と怯えました。

     

    しかし、軍師のような人が、王の弱気を見抜き、アドバイスしました。

    「王よ、案ずるなかれ。
    釈迦族の者どもは、仏教に帰依していて、その戒めを固く守っていると聞いています。その戒めの中に”不殺生”というのがあるのです。

    王よ、確かに彼らの弓術の腕前は恐るべきものであります。しかし、負傷兵たちの中で、致命傷を負った者が一人でもいるだろうか。軽傷の者ばかりであります。

    彼らは、かたくなに不殺生の戒めを守っているのだ。
    王よ、恐れる必要など全くないのです・・・・・・」

     

    気を取り直した王は猛攻撃を開始しました。
    こうなってしまうと、戒律を守っている限り、いくら本来勇猛な釈迦族であっても、手の打ちようがありません。
    結局、釈迦族の者たちは、最後まで、不殺生戒を守り抜き、全滅してしまうのであります・・・・・・

     

    これが本当の仏教者の姿ではないでしょうか? 確かに、「他国の幼い王子を辱めた」という原因があって、その結果として、滅ぼされたのだから、因果応報の理といってしまえば、それまでのことだろう。釈迦族には、確かに驕りがあっただろう。それは仏教徒として恥ずかしいことかもしれない。しかし、敵の猛攻撃にさらされて、反撃する実力がありながらも、戒めを守り抜き、滅亡していったその壮絶な姿は、仏教徒として最高のお手本だと思うのです。子孫の繁栄をあきらめて、正法に殉じた彼らこそ真の仏教者であります。

     

    ※僕は、「日本国民のすべてが釈迦族のようであれ!」とは思いません。愛する家族を守るため、また子孫の繁栄のために、戦争なんか大ッ嫌いだけど、あえて銃を取る人も、ギリギリの選択をした立派な人だと思う。ただ、仏教を奉じるお坊さんたちが、それをやってしまったらお終いだと思うのです。ところが、大東亜戦争の時、戦争に協力するアホなお坊さんたちがいたということです。

     

    命を守るため、反撃して、敵を殺してしまっても、誰も責めはしないでしょう。現在ならば、正当防衛ということで、罪に問われることもありません。
    釈迦族の末路を見て、「何と愚かな・・・・・・」と、小バカにする人もケッコー多いです。

     

    もし、日本民族が大東亜戦争の時、不殺生戒を守って、滅亡していたら、今の私たちは存在しません。そう考えると、「不殺生戒なんて無視してくれて、本当によかった」・・・・・・と、僕なんかは思ってしまう。

     

    でも、それはまだまだ心境が低いというだけのことです。真理に生きるということは、真理のために死ぬということでもあります。神の御心に反した生き方をして、この世で生き延びるぐらいならば、真理を貫いて死ぬことこそが、真理に生きるということなのです。これぐらいの覚悟ができているのが、真の正法者だと思います。われわれは凡夫でありますが、少しでも真の正法者に近づいていくために、心を磨いていかなければならないと思います。

     

    同昭和十四年三月十三日、さきの鑑定書を証拠に、林弁護人による告発がなされた。それは「日出麿事件」として各新聞紙上にいっせいに大きく取り上げられ、当局を狼狽させるものであった。大本事件全体のターニングポイントともなった。その告発とは、精神病的症状を示していた日出麿にたいする二十回にわたる予審調書(供述書)のうち、昭和十二年三月以降の分についても理路整然と綴られており、これは松野孝太郎予審判事の作文によるもので、公文書偽造行使罪だ、としたのである。

    (「神仙の人 出口日出麿」P253)

     

    予審判事の訊問調書は虚構であるとしたこの告発は当局に衝撃をあたえ、希有の不祥事件として、法曹界にもセンセーションをまきおこした。

     

    ところが、この告発にたいしても司法部は強権を発動する。大阪控訴院が告発内容を取り調べ、日出麿の病床日記を取りよせ、林弁護人を召喚して事情を聴取するなど八方手を尽くしながら、ついに五月、その告発を不起訴処分にしてもみ消してしまうのだ。この一事をみても、当時の裁判がいかに横暴な国家権力の行使であったかを充分に推測することができる。

     

    しかしこの告発は、その後の事件全般の法廷闘争に転機をもたらし、弁護団は受け身の立場から、積極的攻勢に転じることができたのである。弁護団は、”当局の嫌疑は大本の信仰に対する認識不足や誤解ないし曲解にもとづくもの” ”筆先や霊界物語は神示である” ”自動書記や神懸かり現象は実際に存在する” ”国体変革の意図はなく、不敬罪や治安維持法の適用は不当である” また ”各自の調書は不法な圧迫によって作成したものが多く、むしろ人権蹂躙こそが問題である” 等々と、あらゆる角度からの立証と主張をくりひろげた。ここに、やっと被告人たちの真実の声が、日の目をみる機会があたえられたのである。

     

    塵一つのこさず地上から抹殺される運命にあった大本が、直日を中心とした弁護支援活動によって、当局の取調べと公判に疑惑の目が向けられるようになり、好転の兆しをみせたことは、まさに死地に生を得るの快挙であった。九死に一生といえるものであった。そして、その逆転劇の陰の主人公は、出口日出麿その人であった。

    (「神仙の人 出口日出麿」P253~P254)

     

    現在でも、国家権力の横暴さには呆れてしまうことがありますが、ファシズムの嵐吹き荒ぶ当時の日本の状況というのは、呆れるどころではなかった。何一つ悪いことをしていない人間を拷問にかけて、無理矢理に自白させたり、発狂させたり・・・・・・。そして発狂した人間を、「発狂を装っている」として、さらに厳しく訊問し、挙句の果てには勝手に調書を偽造する・・・・・・、こういうことをやっておったわけです。

     

    こんなことをやっていて、なにが”神国”だ!? 天皇陛下は、偉大な光の天使だったかもしれないけれど、臣下たちの中にクソ野郎どもが、ケッコーいたのだ。選民意識に酔いしれて、自分が偉くなったと勘違いして、人間の道を踏み外してしまった連中だ。

     

    根っからの悪人ではないのだが、盲信・狂信で、分からなくなってしまうのだ。「正義は我にあり!」と思い込んでいるから、悪だと思う相手に対しては、無茶苦茶なことを平気でする。本当に恐ろしいことだ。人間、中味ができてもいないのに、選民意識を持って浮かれていると、こうした落とし穴に落ちてしまうものだ。本当に注意しなければならないと思う。

     

    ※共産主義のの勢力に対しては、多少荒っぽいやり方も必要だったと思う。なぜなら彼らの狙いは暴力革命だったから。しかし、どこかですり替わって、「国の方針に異を唱える者は全員、国賊・逆賊で、弾圧しても良いのだ! いや弾圧しなければならないのだ!」ということになってしまったのだろう。国のためを思って、あえて苦言を呈する者たちもいるのだ。そういう憂国の士たちまで弾圧するのは、狂気の沙汰だと思います。