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心の王国を支配せよ 00072>メインページへ 20060216 00072 心の王国を支配せよ
真我と偽我
肉体の支配者は、己の意識すなわち魂であります。そして、意識・魂の中心部分が、心であります。この心は、最終的には神につながっていると言われています。「人間みな神の子」というのは、そういうことなのです。
肉体とは、意識・魂を乗せて進むための物質の舟であります。肉体のことを「原子体」といいます。肉体舟が消滅すると、私たちの意識・魂はどうなるのでしょうか。雲散霧消してしまうのでしょうか?そうではないようです。肉体が消滅しても、意識・魂は、「光子体」という物質ではない体に乗って、個性を維持したまま、あの世で存在し続けるのであります。あと「霊子体」という体があるそうで、これに関しては、よく分かりません(^^;。おそらく意識・魂の中心部である心を包み込むような体だと思います。
この世の人間は、「原子体」「光子体」「霊子体」の三重構造になっていて、それらは「霊子線」というコードでつながっているそうです。おそらくこのコードが最終的に神にまでつながっているのだと思います。「原子体」と「光子体」をつなぐ部分が切れたときが、肉体生命の死を意味します。
しかし、神とつながっているというけれど、われわれの心は、なぜか、神様のように立派なものではありません。なぜでしょうか? その理由は、心には、「真我」と「偽我」の部分があるからなのです。真我とは、神と直結している本当の自分、神の子としての自分、本来の自分です。これは非常に立派であります。では偽我とは何か?遠い昔、神の子として誕生したときには、偽我というもは無かったのです。しかし、転生輪廻の過程で、肉体という舟を通じて、偽我という偽りの心が芽ばえてくるのです。
肉体自体は「悪」ではないのです。肉体は、私たちの三次元の乗り物に過ぎません。自動車と同じです。自動車は、本来、人間のために作られた非常に便利なものです。でも、乗る人の心がけ次第によって、それは凶器に変わってしまうのです。私たちの魂を乗せる肉体には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根という感覚器官があります。それらは、この世で肉体を維持していくためには、どうしても必要なものであって、決して穢れたものでも悪いものでもありません。肉体が維持できてこそ、魂修行ができるのですから。
問題は、この世での生活を繰り返し体験しているうちに、いつしか人は、己の本当の心を堕落させてでも、肉体の六根に端を発する果てしない欲望を満たそうとするようになってしまったことです。「霊主体従」といって、心が肉体を統御している状態が、本来の人の姿だったのですが、いつの間にか、「体主霊従」、肉体が心を支配するようになってしまったのです。
美しいものを見たい。美味しいものを食べたい。こうした気持ちは誰にでもあるものです。こうした気持ちを欲望と呼ぶのならば、誰にだって欲望はあるといえるでしょう。「~したい」という気持ちは、すべて一種の欲望といえると思います。たとえば、「この世をよくしたい」という立派な欲望もあるということですね。だから「欲望とはいけないもの」と決め付けることはできません。欲望がいけないのではなくて、「足ることを知らない」心が、いけないのです。欲望にはキリがない。もっともっと欲しくなる。貧乏人は、金持ちになりたがる。なったらなったで、次は、あれも欲しい、それも欲しい。
でも、それらを手に入れたも、満足するのはホンの一時。次は王様になりたがる。その次は、世界を征服したくなる。その次は・・・・・・。といった感じで、本当にキリがない。そしていつしか、欲望を満たすためには手段を選ばなくなっていく・・・・・・。たたみ一畳分のスペースとその日その日の食料があれば、人は何とか生きていくことができる。なのに、もう一生働かなくてもよいぐらいにお金を儲けているのに、まだまだもっともっと欲しがる。こうした果てしなき欲望を、どんな手を使ってでも満たそうとする貪欲な心、これが「偽我」であります。
現在の企業のトップの人たちは、こうした飽くなき欲望を満たそうとする亡者のような心を正当化するために、「生成化育・発展繁栄は神の御心である」という真理を逆手にとっているように思います。「営利が目的」というけれど、いったい何のために? いったいどこまでも求めるつもりなのか? 人々の心を踏みにじってでも手に入れなければならないのか? トップの方々は、美辞麗句で飾らなくいいから、己の本当の気持ちを見つめて欲しいと思います。
どんなにきれいな言葉で正当化したところで、今の日本の会社組織のあり方は、根本的な部分で間違っている。それは、会社組織にとっての至上原理が「利潤追求」にあるという点です。これを突き詰めて行けば、指導者たちは、「誰が傷つこうが、不幸になろうが、自然が破壊されようが、そんなことよりも会社の繁栄、存続のほうが大切なのだ」という心を失った考えに流されて行かざるを得ないのです。
本当の自分である「真我」は、足ることを知り、感謝の気持ちを知っています。今日一日の食事が、たとえ一杯の茶がゆであったとしても、与えられたことを神に感謝し、おいしくいただくことでしょう。こういう心こそ人の本来の心だと思います。
偽我は、肉体や物質的なものから生み出されますが、真我は、物質的なものから生み出されることありません。真我は、神とつながっている心。神の子の心が真我であります。
心は、10%の表面意識と90%の潜在意識に分かれています。潜在意識は、玉ねぎ状になっていて、中心部に進むほど神様に近づいていきます。つまり中心部より外へ行くほど、神の影響が弱くなっていくということなのです。心の一番外側が表面意識で、さらに外側が物質の世界だと考えてよいと思います(実際はそんな単純なものではないと思うのですが・・・・・・)。
表面意識は、真我(※正確には真我の影響を強く受けている意識)と偽我で構成されています。偽我とは、神から最も離れている、心の外側である物質世界と地獄の住人たちからの影響を受けている表面意識といえるでしょう。真我とは、その逆方向、すなわち神からの影響を強く受けている表面意識であります。具体的には、守護・指導霊の指導のもとにあるのが真我であります。
私たちの表面意識とは、真我と偽我の闘いの場であるということです。そして私たちは真我の勝利を目指すべきなのであります。私たちは、物ごとを考える時、表面意識で考えます。その時、考えている心は、偽我なのか真我なのか?これを見分けることが、非常に大切になってきます。
私たちの心の中では、絶えず真我と偽我がせめぎ合っています。そして、私たちは、どちらの声に従えば良いのか、わからなくなっているのです。簡単な目安として、自己中心的な考え、自己保存・自我我欲は、「偽我」と思って間違いないでしょう。「真我」は、どちらかといえば、自分のことを後回しにして考えます。真我は、愛に満ち溢れているからです。神は愛だからです。 あるいは、せこい考えや恥ずべき考え、卑劣な考えは「偽我」であります。「真我」は正々堂々としています。ずるいことはしないものです。
ま、あまり難しく考えないほうがいいかもしれません。愛があるか、正々堂々としているか、誠があるか、こうしたことを基準にして、真我と偽我を見分け、偽我の声を退け、真我の声の導きに従う。これが真我の勝利だと思います。自分自身に打ち克つとは、こういう意味であります。
自分自身をごまかすことは、誰にもできません。色々と理屈をこねまわして、自分の本心をごまかしたつもりでも、人間はみな神の子なのだから、本当は知っているのですよね。偽我が勝利した時は、「恥ずかしい」という思いが、どこかに必ずあります。それは真我の叫びなのです。「つまらないことをしてしまった」と本当の自分が泣いているのです。
前世の約束
人間が転生輪廻を繰返す理由は何か?その理由は、魂修行と地上ユートピア建設であります。これが人生の目的と使命です。 要するに、欠点を修正して、長所を伸ばしていくことですね。
この世に生きる私たちには、思い出せないのですが、人間には過去世というものがあります。そして、過去世で、完璧な人生を送った人などは、いまだかつていないのです。何らかの失敗を犯してきた。そしてあの世に帰って、失敗の反省をするのですね。そして、反省したならば、私たちはどう思うでしょうか?きっとこのように思うはずです。
「よし、次、生まれかわったら、もう同じ過ちは犯さないぞ。そして世の中のために何かよいことをドンドンやってみたい!」と。そして、いよいよこの世に生まれかわる時が近づいてくると、一人一人が、次の地上での「人生の計画書」を作成するのです。生まれる時代、地域、環境、両親や結婚の相手、等々を自分自身で計画するそうです。そして、前回の人生で失敗した場面と同様の場面が来るように、自分自身で計画を立てるのです。そして、それを実際に克服することで、己の成長を証明しようとすると思うのです。
この「人生の計画書」こそが、「前世の約束」なのです。どの人も自ら計画を立てて、この世に生まれ出てきているのです。王様に生まれた人は、自らの意思で王様に生まれてきたのです。それは楽をしたいからじゃないのです。王様に生まれてくることが、己の欠点を修正するために、最も都合が良いからなのです。
貧乏な家に生まれてきた事を恨む人がいます。しかし、それは実は、自らが計画して、貧乏な家に生まれてきただけのことです。恨むのなら、神を恨むのではなく、そうした計画を立てた自分自身を恨むべきなのです。運がいいとか悪いのではない。信じられないことかもしれないけれど、自らが計画して、そのような星のもとに生まれ出てきたということなのです。
今世、大変悲惨な境遇にあるとします。たとえば、色んな人から謂われなき理由で迫害されているとします。当然「なぜ、こんなひどい目にあわなくてはいけないのか?」と思うことでしょう。そして神を恨み、否定することでしょう。しかし、もしかするとその人は、過去世で、誰かをものすごく迫害していたかもしれません。その償いの意味を込めて、今世、自らの意思で、逆の立場に立つ場合もあるのです。
私たちの犯した罪というのは、何も今世だけとは限らないのです。神は、私たちの罪を許して下さっているけれども、自分自身がどうしても自分を許せなくて、罪滅ぼしとして、あえてそうした逆境に生まれ出てくる場合があるということを知っておくことも大切だと感じます。
さてでは、長所は、どのようにして伸ばすのか? それはこの世をより素晴らしい世界に変えていくために、己の得意分野で貢献することだと思います。芸術家は芸術を通してこの世を良くして行く。礼儀正しい人は、礼儀正しさということを通して、世の中をよくしていくこ。教えることが得意な人は、教師として世の中に尽くす。
長所を伸ばすときには、注意しなければならないことは、単なる自己顕示欲であってはならないということです。天狗になってはいけない。己の得意分野で人々に貢献していくこと、これがどこまでも伸びていくことができるやり方だと思います。
ま、このように、この世に生きている人は、己の欠点を修正して、長所を伸ばしていくことで、人生の目的と使命を達成していくことができるのであります。ところが、この世に生まれてくると同時に、私たちは「人生の計画書」のことを、いったん忘れなくてはならないのです。前世の約束をハッキリおぼえていたら、それを果たすことは、比較的簡単であります。でも、それでは意味がないのですよね。何もわからない状態で、もう一度、かつて失敗した時と同じような場面に遭遇する。この時に、本当の力が試されるのです。
そして、その時に、失敗を克服できてこそ、魂の成長を自分自身で確信することができると思うのです。そのために、私たちは過去世の記憶を、いったん封印してしまうのですね。しかし、どんなに強い決意で、この世に出てきても、満足のいく結果を残すことは難しいのです。特に現代のように、唯物思想が蔓延している世の中で、前世の約束を果たすことは、至難の業といってよいでしょう。
心が、これほど軽んじられ、物質的なものが、ここまで重要視されている世の中では、「神の御心が一体どこにあるのか」ということなど、誰だってもうどうでもよくなってしまうかもしれません。こうした風潮の中で、神の心を我が心として生きるというのは、非常に難しいです。ただ、難しいからといって、みんながあきらめてしまったら、もう本当にこの世界は駄目になってしまうでしょう。できるところから一歩ずつ一歩ずつ前進していきたいものです。 Commentaires (8)Pour ajouter un commentaire, connectez-vous avec votre identifiant Windows Live ID (si vous utilisez Messenger ou Xbox LIVE, vous avez un identifiant Windows Live ID). Connectez-vous Vous n'avez pas d'identifiant Windows Live ID ? Inscrivez-vous
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