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苦しみの原因を断て 00074>メインページへ 20060225 00074 苦しみの原因を断て
苦しみの原因
この世は苦しみの世界である! 【一切皆苦】 実際その通りです。我々は、一秒ごとに死に近づいています。死は大きな苦しみではないでしょうか?どう転んでも、最後は死という悲しい結末です。ハッピーエンドはないのです。恋愛でも、ハッピーエンドは映画の中の話だけです。もし、その後のストーリーも映画にすれば、最後は死別であります。これが現実です。途中、楽しいことがあったとしても、その楽しみは一時のもの。最後は苦しみの死で終わるのです。
では、何の希望もないではないか?いいえ、希望はあります。この世は、原因・結果の法則に貫かれています。つまり、原因がなければ結果があらわれて来ないということでもあります。「苦しみ」には、必ず「原因」があったのです。「苦しみ」の直接原因は、「行ない」にあります。たとえば終身刑となって、刑務所で苦しみの日々を過ごしている人がいたとします。この苦しみの直接原因は、彼自身の犯罪行為にあるということです。
しかし、本当の問題は、そうした犯罪行為をしてしまった理由にあります。心の問題ですね。たとえば、「相手が憎かった」という理由で殺してしまった場合、「憎しみ」が苦しみの根本原因だということです。「憎しみ」を抱かなかったならば、殺すこともなかった。殺さなかったら、刑務所で苦しむこともなかった。これが苦の発生の仕組みですね。
宗教用語では、苦の根本原因である思いを「煩悩」、直接原因の行為を「業」といいます。「カルマの法則」って聞いたことがあると思います。この「カルマ」というのが「業」のことです。カルマの法則とは、己の行為(業)は、必ず、結果を生み、その結果は己自身に返ってくるという法則です。作用・反作用の法則。「まいた種は、自らが刈り取ることになる」法則。ブーメランの法則。因果応報・自業自得の法則です。
因果応報とは、原因に応じた結果が返ってくることです。たとえば、麦の種をまいた人は、麦を刈り取ると言うことです。麦をまいたのに、キュウリができるということはないのです。「煩悩」という苦しみのタネをまけば「苦しみ」を生み出すのですね。これを「善因楽果・悪因苦果」といいます。
「業(※カルマ)」でもう一つ大切な点があります。業というものは、三つに分けることができます。それを身・口・意(しん・く・い)三業といいます。身業は行い、口業はしゃべること、そして問題は「意業」です。意業とは、「思うこと」。思うという精神的作用も、一種の行為として考えられているのです。 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかしわたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」というイエス様の言葉がありますが、同じことですね。
この「思う」という「業」は、習慣化されるのです。思考がワン・パターン化されていくのですね。傾向性ができてくる。慣性の法則といってもいい。1000キログラムの鉄球を50メートル移動させる時、動き出すまでは、大変な力がいるのですが、動き始めてしまえば、後は楽です。「思い」も同じなのです。たとえば、会社の金を使い込む時、最初は100円でも罪の意識に苛まれるものだ。しかし回数を重ねて行くと、不正な思いも当たり前になってきて、スムーズに行く。場数を踏んでいくうちに良心が麻痺してしまうです。こうして、不正な思いの傾向性ができてしまって、後は、もう無意識のうちに、悪いことをやっていくようになる。
一つの方向に動き始めてしまうと、その方向にはドンドン進みやすくなっていくのですが、向きを変えるのは、逆にドンドン難しくなっていくのです。だから間違った方向に動いているのがわかったら、できるだけはやく向きを変える努力をすることです。早ければ早いほど楽に方向転換できる。遅くなればなるほど、慣性の法則が強く働くので、方向転換は難しくなっていく。
人間には、三世があるので、何千年、何千万年という時の流れの中で、こうした心の傾向性を、自らの思いと行いによって、自らが創り出してきているのです。こうした心の傾向性のことも「業(カルマ)」といいます。それは、良い傾向もあるけれど、悪い傾向もある。これが善の方向に向かえば何の問題もないのですが、たいていは悪の方向に突き進みます。たとえば、汗水たらして100万円稼ぐことと、他人の稼いだ100万円を盗んで自分のものにすることと、どちらが楽でしょうか?もし盗みが法律に触れないのなら、おそらく、盗むほうに流されて行くと思うのです。
善と悪という二つの方向性があった場合、川の流れでたとえるなら、善とは上流の方向で、悪は下流の方向です。川の流れに逆らって上流に向かうには、大変な努力が必要です。しかし、川の流れに乗って下流に向かうのは簡単であります。人間は、悪いとわかっていても楽なほうに流されやすいものなのです。だから「業」という言葉は、たいていの場合、悪しき魂の傾向性という意味で使われることが多いです。
カルマの修正は、人生の目的の一つであります。三世を見通す力のある人が、たとえばAさんという人の過去世を何代も遡って見たとします。おそらく、Aさんの成功と失敗には、一定のパターンが見られることでしょう。毎回、女で失敗するとか、毎回、金儲けがヘタだとか・・・・・・。それはAさんが自ら作り出した魂の傾向性というものがあって、それで毎回同じパターンに陥ってしまうのです。
魂の傾向性、思いの習慣を変えていくことです。どこかの時点で、勇気を出して、コツコツと努力を積み重ねて、自らの力で変えていかなければ、この失敗の循環から永遠に抜け出すことができないと思います。
「神さまにお願いしておけば、ある日突然、変わるかも」なんてぇーのは、「おしっこしたいんだけど、ぼくの代わりに誰かしてきてくれません?」と頼んでいるのと同じですね(^^;。
煩悩
さて、「煩悩」についてですが、代表的な煩悩は、「貪欲・瞋恚・愚痴(とんよく・しんい・ぐち)」の三つです。略して「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」で、心の三毒と呼ばれています。こうした「煩悩」こそが「苦しみ」の根本原因なのです。この「煩悩」を消し去れば、悪い「業」に歯止めがかかり、「苦しみ」もあらわれてこなくなるのです。
「煩悩」を突き詰めて行くと、すべての煩悩の根本になっている煩悩に突き当たります。それが貪・瞋・痴の「痴」であります。「痴」とは「愚かさ」のこと。「正法神理の知識が欠如している状態」のことです。だから、知性が高くて、世間知にも長けていて、世間では賢い人という評価を与えられている人であっても、「神の御心」を知らないのであるならば、彼は、「痴」という「愚かさ」で、自らの心を毒し、苦しみを創り出しているということになります。
「神の御心、正法神理」をまったく知らない状態、これは真理の光がまったく射していない状態だから、無明ともいいます。無知・無明・愚痴が、すべての煩悩の根本原因。確かにその通りだと思います。まず、「神の御心」を知ることから始まるのですね。「憎しみ」が、煩悩であることを身に染みて知っている人は、何とかしてそれをつかまないようにしようと努力することができます。
「知らない」ということが傷口を大きくしていくのです。焼け火箸と知って握るのと、知らずに握るのとでは、知らずに握ったほうが余計に火傷するものです。
「知って犯す罪と、知らずに犯す罪、どちらが悪いか?」といえば、知って犯す罪のほうが悪いに決まっている。でも、どちらの被害が大きいかというと、知らずに犯す罪のほうが、大きな被害がでるのですよね。たとえば、赤信号と知って信号無視するときは、注意しながらするので、滅多に事故は起きないのです。ところが赤信号に気づかずに、スピードを落とさないで交差点に突っ込むと、大惨事を引き起こすことになります。こうなってくると、「知らなかったから悪くない」という考え方は通用しなくなってくる。知らないということ自体が、大きな罪になってくることもあるということです。
無明が、根本煩悩であるというのは、こういう意味なのですね。知らなければ、いつまでたっても原因を取り除くことができない。いつまでたっても苦しみの人生だということになってしまうのです。これほど不幸なことはないといえるでしょう。
神の御心を知るということ、これが苦の原因を取り除く出発点であります。神の御心を知らないものが、いったい何を実践しようというのでしょうか。やみ雲に、己の思うことを実行に移すことも、実践といえば実践です。でもそれが神の御心に適わないものであった場合、そうした実践には意味がない、いやむしろ害であるといわざるを得ません。実践するのなら、神の御心を知り、それをやっていくべきなのです。まず知る、そして実践し、体得していく。これは一連の流れであります。
苦しみを断つためには、苦しみを分析し、その原因を突き止め、それを取り除く。こういうことです。苦しみから逃れたいのに、苦しみのタネをまいていてはいけないのです。「知る」ということには、非常に大きな意味があるのです。苦しみのタネが何であるか?これをハッキリ知れば、苦しみのタネをまくことの愚かさもハッキリわかります。でも、何が苦しみのタネなのかわからない人は、知らないうちにドンドンドンドン「苦のタネ」をまき散らしているかもしれないのです。「知らない」ということは本当に恐ろしいことです。
「貪欲」と「瞋恚」も強烈な煩悩です。これらは自己中心的な思いの裏表です。 「貪欲」とは、自分に都合の良いものならば、どんな手を使ってでも欲しい。自分さえ満足できればいい。周囲はどうなっていい。もっともっと、あれもこれも、いくらでも欲しい。こうした浅ましい果てしなき欲望、自我我欲であります。
「瞋恚」は、自分に都合の悪いものに対しては、怒ったり、憎んだりして排斥しようとする心です。怒りや憎しみは自己保存から来るのですよね。「俺のパンだったのに!あのヤロー!」とか、「俺の言った通りにしないから失敗するんだよ、このヤロー!」とか・・・・・・。誰かのパンが盗まれても、腹が立たない。腹が立つのは自分のパンが盗まれたから。自分が損をしたからですね。誰かが失敗しても、自分に被害がなければ腹が立たない。でも自分に少しでも被害が出たら、目くじらを立てて怒りまくる。「怒り」や「憎しみ」というものは、たいてい自己中心的な思いから生み出されてくるものです。
しかし、自己中心的ではない「怒り」というものもあるのです。そうした「怒り」まで否定してしまってはダメなのです。神殿で、商売している人々を見て、イエス様は大いに怒ったそうです。叱ったなんてものじゃない(^^;。猛烈に怒っているのですよね。怒るべき時には、怒らないといけないと思います。あまりにも道を踏み外して、多くの人々に対して迷惑をかけている者がいたとします。もし、それがあなたの子供だったらどうしますか?「あなたは神の子。そのままで素晴らしい」などといってる場合じゃないですよね。
煩悩はどこから生まれるのか?これは要するに偽我ですから、前回説明したように、肉体の六根が原因です。肉体的快楽や富や地位などへの執着心。また、執着心に付け込んで忍び寄ってくる地獄霊たちの影響。こうしたものによって煩悩の炎が燃え盛っていくのです。
この煩悩の火を吹き消すためにはどうすればよいのか?そのためには「体主霊従」の生活の誤りを知り、そうした生き方から、本来の「霊主体従」の生き方に切り替えていく必要がある。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根は、肉体快楽だけのために備わっているのではないのです。肉体とは、私たちの本体である魂・意識が、この世での目的と使命を果たすための乗り物なのです。肉体のための魂じゃなくて、魂のための肉体なのです。六根も、本来は魂修行をスムーズに進めていくための付属品のようなものと考えるべきなのです。
それがいつのまにか、肉体的な快楽を満たす器官だと思われるようになって、やれ、グルメだ、セックスだ、オシャレだ、宝石だと、物質的なことがメインになってしまった。こうした六根が原因で生み出される執着心が、煩悩の炎となって燃え盛っていくのであります。したがって、六根を本来の姿に戻すこと、「霊主体従」に戻ることこそが、煩悩の火を吹き消すための唯一の道であるということなのです。
それは中道の生き方、すなわち八正道の生き方です。中道の生き方とは、苦楽の両極端を捨てた生き方。過酷な肉体行も、王侯貴族の安逸をむさぼる生き方も、正反対ではあるけれど、ともに極端に肉体に執着した生き方だ。本当の幸せは、本当の悟りは、そうした肉体の苦楽、快不快の中にはない。これが、快楽主義と苦行主義の両極端を経験したお釈迦様の結論です。
それ以外の道、つまり中道ですね。これは苦と楽の真ん中という意味ではないのですね。極端に片寄らないバランス感覚。あるいは矛盾対立を、より高い見地に立つことで、乗り越えて行くということ。たとえば自転車。あれは、一方に傾くとまっすぐに進めないですよ。中道にはそういうイメージがありますね。また、たとえば苦行主義と快楽主義。これは肉体レベルの両極端です。これを魂の次元で見れば、肉体の扱い方はどうするべきであるかが、自ずと見えてくるのです。
つまり、肉体は、魂の乗せる大切な舟であります。決して粗末にして良いものではないのです。だからといって、魂より優先させるものでもないのです。あくまでも「霊主体従」だということです。
中道は、具体的には、八つの角度から説明されています。それが八正道です。
こうした八つの実践が、六根を調和していく唯一の方法なのです。八番目の正定は、瞑想のことですが、瞑想の前に、絶対に反省が必要。もし反省することなく、心が汚れたままの状態で瞑想をすると地獄霊の餌食になる可能性が高いのです。
反省は、要するに八正道の行き方ができたかどうかを振り返るということ。反省は「己の正しい心に問うこと」であります。学んできた正法神理をものさしにして、自分の立場、相手の立場、第三者の立場に立って考えてみる。そして、自分が間違っていたなら、神仏にお詫びし、迷惑をかけた人にも心の中でお詫びして、次からは、同じ過ちを繰返さないようにしようと気持ちを固める。
こうした八正道の生き方を心掛けて行くと、間違った想念による心の曇り、煩悩が浄化されていきます。浄化されて行くと、潜在意識の奥の己の正しい心からのインスピレーションを受けやすくなって、ますます心の浄化が進んでいくことになります。当然、将来の苦しみの原因を、反省によって取り除いているので、少なくとも取り除いた分の苦しみはあらわれてきません。このように八正道は、未来の苦しみの原因をつくらない生き方なのです。
では、かつて、まいてしまった苦しみのタネは、どうなるのだろうか。また、今、現在進行形の苦しみはどうなるのか?これに関しては、もう、どうしようもない。因果応報・自業自得は法則ですから、無かったことにはできないのですね。ただ、苦しみの根本の原因が、自分自身の心にあったということを知った場合、苦しみの受け取り方が、何もわからなかったときと比べると、変化しているはずなのです。おそらく苦しみがかなり軽減された感じで受け止めることができると思うのです。
対機説法・次第説法の重要性
そして、もう一つ重要な点は、ここに他力の教えの重要性があるという点です。自力が原則であることは、わかっているけれど、もうどうしようもなくつらい時があるのですよね。どんなに強い人だって、あまりにも不幸が続きすぎると、やっぱりダウンしてしまうと思う。まして凡人である私たちは、ちょっと何かあると、もうヘナヘナになってしまうものです。
そんな時に、「自力、自力、自力!他力になんか頼るのはおかしい!今苦しいのは、全部、お前自身がまいた種が原因だ。それが今、結果としてあらわれてきて、それを刈り取っているだけなんだ。誰のせいでもない。お前のせいだ。自業自得なんだよ。わかるか?」なんてやられると、もう死にたくなってきます(^^;。親鸞聖人は、こうした私たちのような弱者のために念仏の教えを説いてくださったのですよね。
人間の核の部分には、何ものにも負けない強さを秘めていると思います。しかし、この世においては、核の部分は潜在意識の奥深くに秘められていて、本当の強さを発揮することができません。だから、どうしても弱くなってしまう時がある。魂に力が入らなくなってしまうのです。そうなったら「愛を惜しみなく与えよう」なんて言ってられない。もう苦しいばっかり。さびしいばっかり。怖いばっかり・・・。「死を恐れるな!」と絶叫していた宗教家が、ガンを告知されたとたん「青菜に塩」状態になって、泣き出したというような話が、いくらでもある。
そういうふうに生きる力を失ってしまった時に、神様の本当のやさしさに触れることができたら、その人はどんなに救われることでしょうか・・・ だから、やっぱり、心が弱くなっている人には、やさしい愛の宗教というのが、絶対に必要だと思います。そうした優しい教えもまた神様の大いなる愛の光であります。「自力」と「他力」のバランスが大切なのですよね。というか、本当は「自力」と「他力」を分けていなかったと思うのです。
頭のいい人たちは、何でも細かく分析してゆく。もともと一つのものが、ドンドン枝分かれしてします。分析すればするほど、だんだん逆に迷路に迷い込んでいくのですよね。これを専門バカというのです。
神の教えも、分析をやり始めると、いくらでも分けていくことができる。そして、それぞれの枝葉が、「この教えこそ唯一の神の教えです。他は全部、邪教です。地獄行き」なんてやっているのが今の宗教の世界。これではダメ。「万教同根・万教帰一」が真理なんですね。無数に枝分かれしているけれど、もとをたどって行けば一本の巨木なのです。一本の巨木として、一つのものとして見ることが大切なのであります。専門バカも必要ですが、本当に必要なのは、全体的に見ることのできる人です。
自力の教えだけを見ている人は、今、他力の教えを切実に必要としている人に対しても、自力の教えをゴリ押ししてしまいます。でも全体を見ることのできる人は、自由自在です。今、苦しんでいる人にとって最も適切な教えを伝えることができる。ある人には、自力の教えを薦め、別の人には老荘思想を紹介し、はたまた小学生には、ドラえもんを利用して道を説く。これは対機説法といって非常に大切なことなのです。相手に合わせる。相手が今もっとも必要とするものを、見抜き、それを伝える。これがビシッとツボにはまったら、スーッと相手の心に入っていくだろうと思います。
そして、徐々に徐々に、本当は、別々じゃないってことを説明していく。入門編・中級編・上級編と段階的に導いていく。これが次第説法。こうした姿勢こそが、本当の宗教指導者の姿であります。 评论 (4)
引用通告引用此项的网络日志
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