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守護・指導霊と反省 00076>メインページへ 20060303 00076 守護・指導霊と反省
魂の兄弟と守護・指導霊について
守護霊、指導霊に関しては、諸説紛々としていて、霊能力の無い我々には、その実態を知る由もない。
霊界の秘密は、二つの方法で、この地上界に持ち来たらされる。 第一は、啓示によるもの。これは、神あるいは霊的存在や宇宙人から、地上の人間への通信。 第二は、霊界見聞録によるもの。地上の人間が、幽体離脱して、霊界を訪問して、そこで見聞きしたものを地上に持ち帰る方法。
これらはいずれも完璧に真実を伝えきることができていないということを、まず肝に銘じておく必要がありまます。たとえば、まったくの虚妄である可能性も否定できない。真実と間違いが入り乱れている場合もあるだろう。あるいは言葉による伝達の限界。また啓示を受けた人や霊界探訪者の悟りのレベル。啓示を送った存在の悟りのレベル。訪れた霊界が、どの段階の霊界であったかという問題等々、様々な要因を考慮したうえで、霊界の秘密を吟味する必要があるのです。
こうした、啓示や霊界見聞録、霊界探訪記を調べてみますと、大筋において一致している点があるのですよね(たとえば守護霊といった存在についても、そのひとつだと思います)。諸説の矛盾点をあげつらって、得々としている人が多いですが、本当に大切なことは、それらの啓示や見聞録を貫いて存在している共通の黄金の糸を発見することではないかと思います。
なぜ、かくも古今東西の宗教や哲学が、大筋において一致しているのだろうか?それは、「真理はひとつ」だからなのです。ヨーロッパであろうが、日本であろうが、原始時代であろうが、未来であろうが、「真理はひとつ」。たったひとつ真理が、あらゆる時空を貫いて存在しているのです。
真理が説かれたのであるならば、いつの時代であろうが、どこであろうが、それらは似ていて当然なのです。 真理は、人間の頭の中で創り出すものではなく、発見するものなのであります。ただ、発見した真理が同一のものであっても、発見者の個性によって、当然、その表現方法が異なってくるのです。どうでもいいような差異にまでこだわっていると、いつまで経っても、それが同じ真理の異なった表現であることに、気づくことができなくなってしまうのであります。
守護・指導霊についても、多くの説があって、どれが完璧に正しいのかは、少なくとも地上に生きている間は、わからないものなのです。しかし、様々な啓示や霊界見聞録を調べてみると、「守護霊とか守護天使と呼ばれるような存在が、私たち一人ひとりを守護して下さっている」という点においては、共通しているはずです。
そこまで理解できたなら、後は、もう深入りすることもないでしょう。それ以上は、あの世に帰ってからのお楽しみでいいのです。私たちは、この地上で、深い孤独を感じているときも、常に、魂の兄弟や守護・指導霊様たちが、あたたかく見守ってくださっている。一人ぼっちじゃない。このように信じられる人は幸せだと思います。
守護霊が、誰なのか?いつの時代の人なのか?男か女か?こうした詮索も、度が過ぎてしまうと、単なる興味本位になってしまう。それを知ったところでどうなるわけでもない。
大切なのは、見守ってくださっている守護霊様や指導霊様に感謝すること。そして本当の感謝は、報恩行となっていくのです。報恩行をともなわない感謝というのは、薄っぺらなものです。報恩行とは、感謝の気持ちを形にあらわしていくことですね。具体的には中道の生き方や人生の目的と使命を果たしていくことが、彼らの守護・指導に対する恩返しになっていくと思います。彼らは、お金や供え物が欲しくて、守護・指導をして下さっているわけではないのです。
彼らと私たちは、あの世では、非常に親しい間柄なのだそうです。友達である私たちが、厳しい修行場である地上界に生まれ出ていった。「大丈夫だろうか。彼は、彼がつくった人生の計画書通りに、生きることができるだろうか?」・・・、とても心配してくださっているのですね。そして彼らは、あの世から私たちにメッセージを送ったり、魔の攻撃から私たちを守ってくれたり、時には物理的な現象を起こして、事故などから、私たちの身を守ってくださるということです。しかし彼らは、何の見返りも求めていないのです。
こうした大きな恩義に応えて行くために私たちができる最高のことは、この地上で、神の子としての本来の姿で生きていくことなのです。これこそが、彼らへの、最高のお返しになると思うのです。
では、正法神理では、魂の兄弟や守護霊・指導霊の存在についてどのような教えが説かれているのでしょうか? まず、「魂の兄弟」とは何か?あくまでもイメージですが、人間の生命体は、「手」のようなものだそうです。手は、手の平と五本の指からできています。各指と手の平を個別に見ると、六つの部分から成り立っています。親指、人差し指、中指、薬指、小指、そして手の平です。
個別に見れば六つだけれども、「手」としてみれば一つなのですね。人間の生命も、同様で六人で一つの生命体なのだそうです。核になる存在、リーダー的な存在のことを「本体」といって、他の五人を「分身」といいます。この六人のことを「魂の兄弟」というのです。 個別に見たときは、六つの個性的な存在に見えるけれど、一つの生命体として見たときは、すべて自分自身だということです。
たとえば、水晶のなうな六角柱。これは、六つの側面から見れば六つに分けることができるけれど、全体を見れば一つの水晶であります。人間の生命体も、水晶のようになっているということです。たとえば、私なら私は、私の全生命体の一面に過ぎないということです。
北極の氷山の姿にもたとえることができます。海面上の氷山というのは、氷山の一角といって、実は氷山全体の10%に過ぎないのです。残りの90%は、目に見えない海面下にドーンと存在しているのです。海面上の氷山と海面下の氷山は、別個のものではありません。
つまりこの世の私たちと、あの世の魂の兄弟たちとは、引き離された存在ではないのですね。海面下があの世です。海面上がこの世です。海面上に浮き出てる氷山の一角が私たちです。海面下の氷山が魂の兄弟たちです。一心同体なのです。ただ、この世の私たちはそれを忘れてしまって、海面上の部分だけを自分自身だと錯覚して、孤独を感じているのです。
守護霊とは、たいていの場合は、自分自身の魂の兄弟が勤めることになっているようです。大体、悟りの段階が似たような者が守護霊になるそうです。だから、あの世の特に親しい者が、魂の兄弟の変わりに守護霊を務める場合もあるようです。
指導霊とは、専門分野において指導してくださる霊です。時には、私たちの一段階上の霊域の存在が指導して下さることもあるということです。これは偶然に指導してくださるわけではなく、友人関係や師弟関係などのつながりを通して引き受けてくださるようです。本当にありがたいことであります。
さて、守護霊たちは、あの世から、この世の私たちを見守っていると言いましたが、あの世とは,いったいどこにあるのか?実は、「あの世」は、私たちの心の中の世界なのです。あの世だけでなく、この物質世界も、私たちの心の中にあるのです。天国も地獄もこの世もすべて私たちの心の内側です。これを実感することは、非常に難しいのです。
たとえるなら、天動説と地動説と同じことです。私たちの感覚から言えば、天動説が正解に思えるのです。でも実際は、地動説のほうがより真実に近い。 私たちの感覚というのは、あまりにもスケールが壮大すぎると錯覚を起こしてしまうのです。
地上にリンゴが落ちたといいますが、見方を変えると、リンゴに地球が落ちたというふうにいえるのです。でも、どうしてもそう思えないから、リンゴが落ちたというのですね。私たちの感覚から言えば、「心」というのは、どうしてもこの肉体の中にあるような感じがする。ところが、そうじゃない、心の中に、肉体も地球もあの世もあるだという、コペルニクス的な逆発想が、絶対におかしいと言い切ることはできないのです。
ま、そういう前提で話を進めます。つまり、守護霊たちは、私たちの心の内にいる。そしてそこから私たちを守護・指導しているということです。以前、「私たちの表面意識は、全意識の10%に過ぎない。残りの90%は潜在意識と呼ばれていて、それは最終的には根源の神にまでつながっている」と説明しました。そして表面意識と潜在意識を分ける想念帯というフィルタのようなものがあって、その部分が悪想念で汚れてしまうと、潜在意識下にいる守護霊たちからのメッセージが届かなくなるのです。
太陽の光が燦燦と降り注いでいても、黒い雨雲が発生すれば、光は遮られてしまうのと同じであります。悪想念の曇りを取り除くためには、どうすればよいのか。そこで大切になってくるのが反省であります。自らが作り上げた悪想念の曇りは、自らが反省することによってでしか取り除くことができない。
守護霊たちは、常に私たちを守りたいのです。しかし、私たちの想念の誤りが、想念帯に真っ黒な曇りを創り出し、その結果、守護・指導を受けることができなくなっていく。それどころか、その真っ黒な部分に、地獄の亡者たちが引き寄せられ、私たちの運命をさらに狂わせていくのです。不幸や苦しみが押し寄せてきます。
ある人たちは神罰だとか仏罰だといいます。しかし、こうした苦しみの原因が、本当に神仏のせいなのでしょうか?あるいは、地獄霊たちが悪いのか?それとも、守護・指導してくれない守護霊たちの責任なのか?いずれも違います。そもそもの原因は、自らが創り出した想念の曇りにあるのです。
神罰も仏罰ない。罰を与えるのは地獄霊や動物霊の類です。しかし、それは根本の原因ではない。本当の原因は、自分自身の心の誤りにあった。それを正すための方法は、「反省」以外にないということなのです。
私たちが「反省」の心を持った瞬間に、心は守護・指導霊に同通します。地獄霊や動物霊は、反省の心が嫌いだから、何とかして反省させまいと誘惑してきます。このあたりは、非常に厳しい状況だといえるでしょう。
とにかく、反省という心には、常に守護・指導霊が反応しているのです。要するに、反省は、守護・指導霊の導きを受けているのです。「反省は、己の正しい心に問うこと」と申しますが、己の正しい心とは、守護・指導霊のことだということです。良心とか真我とか善我といってもよいでしょう。
私たちは、いつも一人で悪戦苦闘していると思いがちですが、常に守護・指導霊が、そばにいて下さっているのであります。私たちはそのことに対して「報恩感謝」の気持ちを、決して忘れてはならないと思います。
煩悩即菩提
、とあります。 六根が、煩悩をつくり出すので、どうも、私たちは、六根というものを穢れたものとして考えがちであります。六根さえなければ、肉体さえなければ、私たちは苦しむこともなく、あの世でノホホンと暮らすことができるでしょう。この世に生まれなかったら地獄に落ちることもないでしょう。しかし、それは永遠の停滞を意味しているのです。
私たちは、どうした時に、成長や進化を遂げるのでしょうか?たとえば柔道。どうしたら強くなるでしょうか。生ぬるいトレーニングで強くなるでしょうか?違うのですね。厳しいトレーニングを乗り越えて、成長していくのです。私たちが、この地上に肉体を持つことは、これは魂のトレーニングのためでもあるのです。
こうした厳しい環境で、六根煩悩に振り回されながらも、それを乗り越えていくところに、魂の成長や進化があるのです。 これが「六根あるがゆえに 己が悟れば 菩提と化する」の意味です。
「菩提」とは、「悟りの心境」です。「煩悩即菩提」のことです。煩悩があるからこそ、それがきっかけで悟ることができるということです。「煩悩」そのものが「菩提」であると考えるのは、あまり良い考え方ではないでしょう。
たとえば水泳。前進していくときに、水の抵抗が邪魔であります。しかし、水に抵抗があるからこそ、前に進めるのはないでしょうか。もし水に抵抗がないのら、いくら水をかき分けようとしても、空回りするばかりで前進することができないのです。 一見、前進を阻んでいると思える水の抵抗があってこそ、それをバネにして前進していけるのであります。
六根煩悩は、苦しみの原因として忌み嫌われるものだけど、それがあるからこそ「悟りの境地」にまで自分自身を高めていくことできるということなのです。もし煩悩という抵抗がないのなら、我々の努力は空回りして、永遠の停滞に甘んじなくてはならないということであります。 Comments (2)
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