個人檔案大地を枕に相片部落格清單更多 ![]() | 說明 |
報恩感謝の日々 00077>メインページへ 20060307 00077 報恩感謝の日々
慢と感謝
実に味わい深い歌であります。自然の姿に学ぶとは、こういうことを言うのですかねえ。「稲穂は、実が入ると重くなって自然に垂れ下がる。人間もそうありたいものだね」という意味ですね。
実際は、学問や技術を身につければつけるほど、肩書きが増えていけば増えていくほど、お金持ちになればなるほど、そっくり返っていくものですね(^^;。これは、「慢」という煩悩なのです。他と比較して、己のほうがすぐれていると、心がおごり高ぶってしまうのですね。当然、その心の裏には、他への見下しの思いが隠されています。代表的な煩悩です。
なぜ、この「慢」が、苦しみになっていくのか?
たとえば、同僚の中で、最初に課長に昇進したとします。そして慢心する。「どうだ、やっぱり俺ってすごいよね」。これは、どちらかというとこの人にとっては「幸せの絶頂」ですね。ところが、こうした慢心を「幸せ」と感じるような人は、逆の立場になると、非常に苦しみを感じるタイプなのです。課長になったのはトップだったが、その後、追い越されてしまった。今度は一転して、もう不幸のどん底です。
もう一つ注意すべきは、「慢」の心が、地獄界と直結している点です。特に宗教関係者は、注意する必要があります。「慢」には、100%忍び寄っています、地獄霊さんが(^^;。これは、本当に怖いです。色んなものから開放されても、「慢」だけは、そう簡単には克服することができないのです。
反省して、想念の曇りを取り除き、ある段階までいくと「阿羅漢」という境地に達するそうです。これは菩薩への登竜門とも呼ばれている素晴らしい段階です。人によっては、心の窓が開き、潜在意識の守護・指導霊と直接対話できるようになるそうです。
もう、こうなったら、何でも自由自在だと、僕なんかは思ってしまうのですが、現実は厳しく、「阿羅漢」からの転落というのは、ケッコー多いらしいのです。そして、その原因のほとんどが「増上慢」だということです。
「増上慢」とは、悟っていないのに悟ったと勘違いして、おごり高ぶり、他の人々を見下すことです。「阿羅漢」も一つの悟りですが、究極の悟りではありません。
普通に考えて、今生において、私たちが究極の悟りまでいくことは、まずありえません。ただ、少しずつ進歩して、小さな悟りを積み重ねていくことはできるのです。小さくても「悟り」は「悟り」であって、その一つ一つは、かけがえのない尊い体験であります。しかし、それをあまり、過大評価してはいけないのですね。それは「慢」となってしまうのです。
「阿羅漢」は、我々から見れば、すごい悟りだけれど、「悟りの段階」全体から考えると、まだまだ、小さな悟りであります。
しかし、守護霊と対話できたりするものですから、確かにすごいです。あの世の霊と話せるなんて・・・。霊能力が開花する場合もあるそうです。予知できたり、幽体離脱できるようになったり。これは、慢心しても仕方ないかなと思います。
でも、「慢心」したトタン、守護霊は、もうコンタクトを取ることができなくなります。「慢」の心と守護霊の心は、反発しあうからです。「類は、類を呼び、類でないものとは反発しあう」という法則があるのです。だから、守護霊は、近づけなくなってしまう。そして、「慢」は地獄霊を引き寄せるのです。これが「阿羅漢」転落の原因のナンバーワンなのだそうです。
「あなた様の悟りは素晴らしい。あなた様は世を救う偉大な方です。あなた様の本体は、○○大天使でございます・・・」とか「今、起て!人類を救うのだ!」とか、こうしたことを地獄霊がささやきかけるわけです。そりゃ、悪い気はしません(^^;。そして、いつしか教祖様になってしまうのですね。
「慢」というのは、非常に見破るのが難しいのです。謙虚さを装った「慢」なんてのもあります。宗教家に多いのですが、自分は謙虚だと思い込んでいるのだけど、それが死角になって「慢」が見えなくなってしまっているのです。「私は謙虚だ。私ほど謙虚な人間はまずいない」、これって、実は「慢」そのものなのですね(^^;。でも、本人は、謙虚なつもりですから、非常に厄介なのです。おそろしいです。
あと「卑下慢」ですね。これは本当は別の意味があるのですが、一般的には、「私ほど駄目な人間はいません。罪悪深重の凡夫でございます」などと、表面的には、しおらしいことをいうのですが、心の中では、ものすごく高慢になっているような人のことを言います。
このように「謙虚さ」というのは、虚飾として利用されることがあるのです。これは、自分自身すら誤魔化してしまうので、非常にタチが悪いです。卑下慢の人も、自分のことを、絶対に「慢」に陥っているとは思っていないです。自分こそ謙虚の見本のような人間だと思っているはず。
ではこの厄介な「慢」の対策、一体どうすればよいでしょうか?僕は「報恩感謝」の心だと思います。それも、あの実った稲穂のような自然な感謝。
「ありがとう」を千回唱えるとか、こめつきバッタのように下心を隠してペコペコするような、形式的なものや見せかけの感謝じゃなくって、思いのいっぱいこもった感謝。これができる人は、「慢」に打ち克った人だと思います。
感謝できる人ほど偉いのですよね。たとえば、空気に感謝できる人は、空気に感謝できない人よりも、心がすっと豊かです。水に感謝できる人は、できない人よりも、心がずっと豊かなのです。たとえば、「がんばれよ」って誰かに声をかけてもらったとします。ある人は、何も感じません。でも、涙が流して喜ぶ人もいるのです。どちらがより豊かな心を築いているでしょうか。
ちょっとしたことにでも感激して「ありがとう」と心から言える人は、自分自身で努力して、そうした豊かな心を築き上げてきているのです。
もって生まれたものじゃない。もって生まれた部分もあるだろうけれど、それよりも、その人生の中で、体験や学びを通して、自らの力で、心を豊かにしてきた部分のほうが、はるかに重要だと思います。
空気や水は、簡単に手に入るけれど、それは決して当たり前のことではないのです。そのことを知るためには、やはり自分自身で、心というものを磨いたり、柔軟にしたり、襞をつくったりして、豊かなものにつくり上げていかないと無理なのですね。
苦しみや悲しさで、いっぱい泣いてきた人、それでも人を愛することをや信じることを止めなかった人。こういう人の心と、自己中心に生きてきた人の心では、まったく違うのです。感謝の深さというのは、その人が築いてきた心の豊かさに比例するものだということです。
「空気に感謝しなさい」と説教されても、心がそうした状態にまで高まっていないのなら、感謝なんてできないのです。理屈で考えて、「空気がなければ死ぬから、空気って大切だね。だから、感謝しよう。ありがとう」なんてのは、本当の感謝じゃないのです。それは本人が一番わかってること。「感謝しなきゃいけないから感謝する」、これは形式主義、偽善です。そんな感謝は、中身がないのです。
中身のある感謝、思いのいっぱい詰まった感謝、そんな感謝がいったいどれだけできるか?感謝が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、その人は立派なのです。形式的に「ありがとう」を一万回いってもダメです(^^;。大切なのは、どれだけの真心がこもっているかです。
そして、真心のこもった「ありがとう」を言える人というのは、それに応じた心を、自らが、自らの努力で培ってきた人なのです。薄っぺらな心なら、薄っぺらな感謝しかできないのです。その心の豊かさに応じた感謝しか出てこないのです。
感謝の祈りの言葉
また、「知」というものも大切であります。何に対して感謝しなければならないのか?これすら分からないようでは、感謝のしようがないのです。
さて、「心行」では、
に対して日々感謝するべきであると書かれています。
まず、神仏に対する感謝。イエス様は言いました。
この二つが律法の中で最も重要だと。
さて、神は唯一ですが、「人格神」という存在があります。それは神の如き人間のことです。神の化身とか神の代理人と呼ばれる人たちのことですね。「光の天使」とか「如来」、「菩薩」とか呼ばれます。この人たちは、人類全体の指導者たちです。人類の責任者であります。
第三は、諸天善神たちへの感謝。彼らは一切の悪より、私たちを守ってくださっています。非常に厳しい修行をされておられる方々です。こうした方々が、日々私たちを守ってくださっているということを知っておく必要があると思います。 以上が、神仏や人格神への感謝です。
その次には、守護・指導霊に対する感謝。彼らは個人個人の守護・指導を担当しています。私たちには、最も身近な存在であります。あの世の仲間や先輩たちです。
その次は、万生万物に対する感謝。まず、食べ物に対する感謝。
私たちは、悲しいけれど、こうした生命を食べなければ、この世で生きていけないのです。彼らを食べることを当然の権利だなんて思っているとしたら、それは大きな間違いです。当然ではないのです。
「愛」だとか「やさしさ」だとか言いながら、人は、他の生き物を殺して食べているのです。これは完全に矛盾です。しかし、どうしようもないのです。人間とは、こうした矛盾を抱えてながら、それでも「愛」について考え、「愛」に生きていかなければならない。昔から、宗教家たちは、このことで苦しんできたのです。今も矛盾は残ったままです。
私たちにできることは、食べ物を無駄にしないということ。とにかく感謝の気持ちをもっていただくことだと思います。そして、神の子として立派に生きていくように努力することだと思います。肉食は、少しずつ減らしていったほうがよいでしょう。理由はかわいそうだからです。僕自身、肉も食べているので、こういうことを書くのは、偽善だとわかっています。しかし、方向性としては、それが神様の御心にかなうものだと思っています。
ところで、意識にもエネルギーが必要だということです。このエネルギー源は、物質界のものではなくて、神仏より与えられるそうです。霊界には、霊太陽といって、太陽の霊体があるそうです。その霊光が、霊界全体を照らしているようです。おそらくその光エネルギーが、私たちの心のエネルギー源になっているのだと思います。
それは、想念帯を通過して私たちの表面意識に送り込まれてくるはずですから、想念帯が真っ黒に汚れていると、エネルギーの吸収量は少なくなってしまうことでしょう。だから、元気な心になりたいのなら、心の曇りを取り除いて、霊太陽から送られてくるエネルギーを、いっぱい吸収することだと思います。そのためには、中道の生活が大切だということです。
さて、また、この地球という調和された環境に対する感謝。こうした場がないことには、生まれ出てくることができなかったということ。これを忘れてはならないと思います。こうした場を与えられたことを神様に感謝し、またこの地球そのものに対しても感謝するべきだと思います。
この美しいオアシスのような星は、決して当たり前のものではないのです。色んな星を写真で見ましたが、これほど美しい星を、他に見たことがありません。この美しい星を、人間の自我我欲でダメにしてしまってはいけないのです。
また、自分以外の人々に対する感謝、これは当然のことだと思います。隣人愛ですね。
最後は、肉体の先祖と両親への感謝。これは、もう人倫の道であります。
両親に対する感謝、報恩行、これはたいていの人が普通にやっていることしょう。しかし、「骨肉相食む」といって、近すぎるがゆえに、かえって強烈に敵対しあうような場合もあるのです。特に今の時代は旧文明と新文明の端境期であります。目まぐるしく価値観が移り変わっていくので、世代による価値観のギャップは相当なものがあるのです。このギャップを埋めることができなくて、苦しむ家庭が、今後も増加していくことでしょう。
ただ、価値観が違うからといって、憎むところまでいく必要はありません。いつかわかり合える時が来ると信じて、感謝の気持ちを失わずにいたいものです。たとえ、今生において、わかり合える事ができなかったとしても、あの世ではきっとわかり合えるだろうと思います。
そして、一つ大切なことがあります。それは、「私たちが幸せに生きること」自体が、両親への恩返しになっていることです。それだけでなく、先祖供養にもなっているのです。私たちが、朗らかに明るく健康で幸せに生きること、そうした姿を見て、「悔しい」とか「憎たらしい」とか思う両親はいないのです。また、私たちが苦しみながら生きるのを見て、喜ぶ両親もいないです。
まず、私たちが幸せに生きる、そして、少なくとも感謝の気持ちを忘れないこと、これが親孝行や先祖供養の基本だといえそうですね。
以下に、感謝の祈りの言葉を紹介しておきます。型にこだわる必要はないと思います。
心の中で感謝するだけでは、そこで愛の循環が、止まってしまうことになります。たとえば、両親から受けた恩に対して、ただ心で感謝するだけでは、そこで、止まってしまうけれど、恩返しとして、たとえば温泉旅行をプレゼントする。そうすると、両親からの愛が、形を変えてまた両親に戻っていくのですね。このように、形としてあらわした時に「感謝の心」、「愛」が、循環していくのです。
経済の奴隷になるな
大自然の姿こそが、神の教えであるといいます。みなさんは、この大自然の姿から、一体何を学ばれたでしょうか。
神様の心は「調和」であるといいます。この自然の調和された環境が、神様の御心を如実にあらわしているということです。
寄せては返す波、もしこれが寄せてくるばかりなら、日本は沈没してしまいます(^^;。
この調和を乱すものが一つだけ存在しています。人間ですね。今、地球の調和は乱れに乱れ、回復不可能なところまで来ています。化学物質による汚染、異常気象、森林地帯の砂漠化の進行・・・。このわずか数十年の出来事です。
大自然の調和された環境があってこそ、私たちもそこで生きていくことができる。当然、この地球と、地球を造ってくださった神様に感謝する必要があります。昔の人は、感謝してたのですよね。感謝していたからこそ、この調和を乱さないように、皆が注意していたのです。ところが、ここ数十年で、そうした感謝の気持ちがものすごく薄くなってしまったのです。
その原因は、人間の果てしない欲望や自己中心性にあると思います。今まで欲望をコントロールしていた節度という箍が外れてしまったようです。
「足ることを知る」、これは東洋の偉大な智慧でした。しかし、今はどうか?この競争社会においては、足ることを知って、満足してしまうような人間は、まったく必要とされていないのですね。あなたがもし会社の社長さんで、社員が、ある程度で満足しているのを見たら、どう思うでしょうか?「もっともっと儲けてこんかい!」と絶叫するのではないでしょうか。
あと少しで1000万円手に入るかもしれないのなら、多少のムチャをしてでも、誰かに迷惑がかかっても、1000万円を手に入れようとするのではないだろうか?
便利な化学製品ができた。しかし廃液もできた(^^;。この廃液を流すと、環境が破壊されるとわかっている。でも、法律では何の規制もない・・・・・・。
心ある人ならば、「この廃液は、科学的に処理して、無害にしてから流しましょう」と提案するはずです。
ま、こんな感じで、どんどん河川や海が汚染されてきたと思うのですよね。欲に目の眩んだ資本家や経営者たちが、大自然を破壊して、私腹を肥やしてきたのですね。
企業間の競争なんかでは、仁義も倫理も人間らしさもヘッタクレも何もない。つぶし合いですから。負けたら終わり。法律に触れないなら、何でもやる。たとえそれが、「人間としてどうか」と思われるようなことでも、やる。いや、法律に触れるようなことでも、やる。責任は取らないけど(^^;。もう人間の心を失ってしまっているのです。それが今の世の中の風潮なのですよね。ま、すべてがこうだとは言いませんが・・・。
こんな世の中で、足ることを知ってしまったら、従業員ならクビになるだろうし、経営者なら倒産させてしまうだろう。もう、社会自体が、もう暴走をはじめてしまっているのですね。武器がなくならない原理と同じです。武器を捨てたら、征服されてしまうのがわかっているから、捨てられない。足ることを知ったら、攻め込まれて、奪われて、それで終わりだから、どこまでも貪欲に進む以外に道がなくなってしまっている。悲しくなってきます。
このように、今の時代、「足ること知る」人間は、負け犬扱いなのですね。「勝ち組み」「負け組み」の「負け組み」ですね。要するにあつかましい奴、厚顔無恥な奴が「勝ち組み」です。奥ゆかしい人や、腹のきれいな奴、やさしい奴は、利用され、くいものにされて、「負け組み」のレッテルを貼られて終わりです。
こうした、心を失った科学文明や経済が、間違っていることを、高橋信次先生は、30年前に絶叫していたのですが、それで世の中がよくなったかと言うと、ますます混迷の度合いが深まっているのですよね。途方にくれてしまいます。
しかし、鉄則は「自燈明・法燈明」、「修身・斉家・治国・平天下」。とにかく、いかなる暗黒の時代であろうとも、まず自分にできることを努力していくしかないのであります。道はそこから開けてくる、そう信じて、一歩ずつ進んでいきましょう。 回應 (1)
引用通告引述這則內容的部落格
|
|
|