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イエス・キリスト 00089>メインページへ 20060324 00089 イエス・キリスト
キリストの勝利宣言
この言葉をみて、「死の直前に、神に怨み言を言った」として残念がる人も多いですが、その必要はありません。
この言葉は、旧約聖書の詩篇第22章の言葉なのです。イエス様は、死の直前、大声で、この言葉を叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」!群集は、エリヤを呼んでいると勘違いしました。実際は、イエス様は、「詩篇第22章の内容を思い出しなさい。預言は今、成就した」と言いたかったのですね。決して泣き言を言ったわけではなかったのです。その場に居合わせた聖書に精通している者たちは、すぐ、詩篇第22章を思い出して、ゾッとしたはずです。
もしイエス様が、望めば、天使の軍勢を呼ぶことも可能だったのです。しかし、預言を成就するために、自ら十字架に架けられたのです。私たちの感覚から言えば、わけが分らないのですが、イエス様は、預言の通りの人生を、自らの意思で歩み、メシアであることを身をもって示されたのでありましょう。
詩篇第22章というのは、結局、メシアに関する預言だったのですね。それが、メシアに関する預言だとは、その時まで、誰も気づいていなかった。イエス様だけが知っていたのです。そして、それが今、成就したということをイエス様は、仄めかしたということなのです。だから、詩篇第22章の内容を知っている者は、それがイエス様の受難の時の状況と酷似していることに気づき、ビックリしたはずなのです。
イエス様が泣き言を言ったと思って、悲しんでいる人は、ぜひ詩篇第22章を読んでみてください。それは泣き言ではなく、勝利のメッセージだったのです。
愛の発展段階
キリスト者は、「隣人愛」ということで、とかく「自己犠牲」を叫ぶ人が多いようです。しかし、律法には、「隣人を自分のように愛しなさい」とあって、当然イエス様もその掟を認めておられたのです。何が言いたいのかというと、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、隣人愛の前に、「自分自身を愛すること」を認めているということであります。「自分自身を愛しているように、隣人も愛しなさい」これが隣人愛なのです。
「自分を捨ててでも、隣人を愛しない」とは言ってないのです。自己犠牲を説いているわけではないのであります。まず、自分を愛していいのですよ。それが前提だ。しかしそれだけではダメです。その愛を隣人にも向けなさい。これが律法だったのですね。これが律法の最も重要なものだとイエス様も言っておられるのです。宗教を学ぶ人は、自己犠牲が大切だと思い込んでしまって、自分を愛さず、粗末にして、そして不幸になっていくことが多い。
だから、そういう方々は、「まず、自分を愛してもいいのだ」ということを知るべきだと思います。そこを基点にして、愛を広めていくほうが良いのですね。自分も幸せで、周囲も幸せが一番いのです。自己犠牲の人は、自分は不幸でも、周囲が幸せなら、それでいいと考えます。それもいいけれど、ちょっと悲しいような気がします・・・・・・。
聖書は、愛を段階的に説いているのです。まず、自分を愛せ。次には隣人を愛しなさい。これが旧い契約(※旧約)です。そして新しい契約(※新約)では、さらに、高次元の愛の段階が示されるのです。 自分や自分の肉親、恋人、友人を愛して、それが一体何になるだろうか?そんなことは犬やネコでもやっていることではないか?また自分を誉めてくれる者を愛することも簡単だ。それも誰もが、普通にやっていることではないか?敵を憎むことも簡単だ。それも、教えられなくても、誰もがやっていること。
あなたがたは、天地(あめつち)に学びなさい。大自然に学びなさい。あなたたちの神である父は、大自然の営みを通してあなたたちの生きる道を、無言のうちに示してくださっているのです。太陽は、毎朝、必ず昇り、善人、悪人関係なしに、すべてを照らしてくださるではないか。天の父は、すべての人々に恵みの雨をふらせて下さるではないか。それが神の教えなのだ。神は、あなたたちにも、そのようにあって欲しいのだ。
だから、「敵を憎め」というのは、本当の神の御心ではない。神は、あなたがたの魂の段階に応じて、あなたがたをお導きになられる。旧約の時代は、まだあなたがたの段階が「自己愛」や「身内や友人への愛」の段階であったから、「隣人愛」を示された。しかし、それ以上のことを示したところで、あなたがたには、どうすることもできない。だから、「敵は憎んでもよい」としたのです。
しかし、今、新約の時代となったのです。新しい愛の段階が示されたのです。これからは、敵をも愛しなさい。あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。これが新しい契約なのです。これが、大自然の教えです。「神の子人間」として相応しいあなたがたとなるためには、あの太陽のように、誰彼となく、すべての人を愛するような、あなたがたでなければならないのです。
ま、このような感じで、キリスト教にも「愛の発展段階説」というのがあるのですね。「敵を愛する」段階、そして最終目標として、あの太陽の如く「放ち続ける愛」の段階。これがイエス様によって示されたのですね。 愛の発展とは、愛する対象が広がっていくこと、そして愛の質が深まっていくことを意味しているのです。スタートは「自分自身」を愛することからです。しかし、最初は、自分勝手な愛、自己中心的な愛です。
たとえば、自分が食べるために、他人のものを盗む。これも自己愛かもしれません。この自己愛も、質が深まっていけば、盗みを働くことが、真の意味で、自分を愛していることにはならない、ということを悟るのです。 本当に自分を愛することを知れば、友人や身内を愛することに目覚めていくのですね。
そして、そしてその愛の質が、さらに深まって行くと、次は、隣人愛に目覚めていくのです。人類みな兄弟だということです。そしてそれがさらに深まって行くと、敵すらも、許し、愛さなければ、本当の世界平和がやってこないことを悟るのです。それがさらに深まっていくと、「許す」という気持ちさえ消えていく。ただ太陽の如く、愛を放ち続ける存在へと進化していくのです。
愛は、自分から周囲へと放たれるものであります。愛とは与えていくもの、贈るものなのですね。これが愛の本質なのです。他を潤していくこと。他を幸福にしていくこと。 愛をもらうものとして考えておられる方も多いと思います。贈る人がいれば受け取る人もいる。贈られた側は、感謝して素直に受け取るべきだと思います。しかし、イエス様の説く愛の教えは、「与える愛」についてなのです。「もらう愛」に関しては、何も語っていないのです。
今の時代「愛」を叫ぶ人は多い。しかし、それは「もらう愛」「愛してくれ、という愛」「奪う愛」を意味している場合が多い。受動的なものです。 それは、愛の本質ではないのですね。愛の最高権威と呼ばれるイエス様の説く愛の教えの本質とは、「愛する愛」、「相手を生かす愛」、「相手を許す愛」、「放ち続ける愛」といった感じで、能動的なものなのであります。こちらから愛するという発想であって、愛されたいという発想ではないのです。
ただひたすらに与え続ける愛。見返りを求めぬ愛。無償の愛。これが愛の本質なのです。このことが今、わからなくなってしまっているのです。愛とはもらうものだと思っている。そして愛をもらうためには、どうすればよいのか?そんなテクニックばかりが研究されている。イエス様も天上界で涙を流しておられることでしょう。
皆が愛を放てば、皆が受け取ることができるのに、皆が自分だけ愛されようとして、皆がみずから愛を放つことを忘れ、結局、誰も愛を受け取ることがない。悲しい時代であります。
愛は、与えることで循環していくのです。愛されることばかりを考えていると、愛の循環が止まってしまうのです。もし愛をもらったら、感謝して受け止め、今度は、愛をお返ししていく。愛される→感謝→愛する→また愛される・・・・・・、こうして愛が循環して、ドンドン大きな愛に育っていくのです。愛の拡大再生産ですね(^^;。
黄金律について
黄金律、すなわち「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7・12)という教えがあります。「成功哲学」なんかは、これを金儲けのテクニックのよう考えているようです。しかし、この黄金律とは、そんなチンケなものではないと思うのです。本来の意味は、次のようなものではないでしょうか。
あなたの子供が何かおねだりしたときは、あなたはできるだけ子供の希望を叶えてやりたいのではないですか?不完全なあなたたちですら、自分の子供の希望を叶えようとする。まして神である天の父の気持ち、子供であるあなたたちの願いを叶えてやりたいという気持ちは、あなたたち人間の親心よりも遥かに深いものであるはずではないだろうか。
神様は、あなたたちの願い事が正当である場合、それを叶えてくださるに違いないのだ。だから、あなたたちも、「神の子・人間」として相応しくなるために、神様と同じように振舞いなさい。すなわち、人にしてもらいたいと思うことを、まずあなたが、人にしてあげなさい・・・・・・。神様がすることと同じようなことを実行しなさいということですね。
相手の欲しがっているものを察して、それを与えてあげなさい。それが神の教えなのです。神は見返りなど求めていないのです。私たちも、何かを人に与える時に、見返りを求めてはいけないのです。これが黄金律の真意だと思います。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉は、この黄金律を示すための導入部に過ぎないのです。なのに、成功哲学は、「求めよ、さらば与えられん」という言葉のほうをメインにしてしまったのですね。そして、与えられるためには、「して欲しいことを、まず自分から人にしてあげなさい」、つまり黄金律を守りなさい、そうすれば、巡り巡って、求めているものが与えられるだろう。聖書に、こう記されています!・・・・・・、これが成功哲学の大義名分なのです。これは、非常にきわどいですね(^^;。金儲けを正当化するために聖書を曲解しているとしか、僕には思えない。
「求めよ、さらば与えられん」とは、本当に必要なものならば、神は必ず与えてくださるだろう、という意味だと思うのです。確かに、「思いは実現する」という法則は、真実でしょう。しかしそれを自己中心的に濫用してはならないのです。もし、求めるものが、どんなものでも与えられるというのなら、僕は、もう働かず、昼寝ばかりして生きていきます(^^;。でも、多分、それは神の御心ではないと思う。
求めても、その求めるものを与えてしまうと、その人の魂の成長を止めてしまうような場合、神様は与えてくださらない、と僕は思う。 成功哲学者たちは、何かというと、目標を数値で具体的に表せという。結局それは突き詰めると「金額」なんですね。彼らは、1億円与えてくださいと毎日毎日神様に祈っているのです(^^;。それが本当に「神の子・人間」の姿だといえるでしょうか?彼らは現代のバアル信仰者なのです。イエス様の言葉をスリ替えているのです。
そして、そうした曲がった教えが大々的に説かれているのです。書店に入ると、そういった類の書物が山積みになっています。そうしたものに惑わされてはならないと思います。
「神様が、子供たちの望むものを、見返りを求めることなく、何でも与えるように、あなたたちも、見返りを求めないで、人々に与えていきなさい」 これがおそらくイエス様の言いたかったことだと思います。
成功哲学者は、ちょっと付け足す。 「して欲しいことを、まずあなたがしてあげなさい。そうすれば、見返りとして、あなたの欲しいものが与えられるだろう」って感じです。彼らは見返りを求めているのですね。見返りのために与える。こういうのを本末転倒というのです。
たしかに、聖書を読めば、そう解釈することも可能です。いや、そう解釈している人のほうが圧倒的に多い。しかし、多分それは、間違っていると思う。それは金儲けのテクニックに過ぎない。見返りを求めて、与え、そして、与えた以上に、与えられようとしている・・・・・・。根底に自己中心的な思いが隠れていると思います。
大切なのは、見返りを求めないということ。見返りを求めて与えた愛は、まだまだ本物の愛ということはできない。 댓글 (2개)
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