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モーセ 00090>メインページへ 20060326 00090 モーセ
奇蹟の時代
モーセは、エホバあるいはヤハウェと呼ばれる神様から啓示を受けて、ユダヤ人を指導した人物です。
大飢饉のため、ヤコブ・イスラエルは、ファラオ(※エジプトの王)の信任を得て成功していた息子のヨセフを頼って、カナンの地よりエジプトへと移住しました。その子孫たちが、エジプトでドンドン数を増していき、国中に溢れていった。このままでは、イスラエル人たちに国を乗っ取られてしまうのではないか、とエジプト人たちは危惧しました。
で、虐待するのですね。奴隷として。しかし、虐待すればするほど、イスラエル人は、増えていく。そして、さらに虐待。といった感じで、イスラエル人は、エジプトで相当、過酷な状況下にあったようです。それでも増え続けていくのですね(^^;。とうとうファラオは、イスラエル人の生まれた男の子は、ナイル川にほうり込めと命令しました。モーセは、その頃、誕生したのです。約3000年ぐらい前のエジプトです。
母親は、かわいかったモーセを殺すことができませんでした。しかし隠し通すこともできず、三ヵ月後、ナイル河畔の葦の茂みの間に、防水したカゴにモーセを入れて捨てました。母親のお姉さんが、心配で、遠くから見ていました。しばらくすると、ファラオの王女が水浴びにやって来ました。そしてモーセを発見したのです。王女は、イスラエル人の子供とわかったのですが、不憫に思っているようです。
そこで、お姉さんが、「その子に乳を飲ませる乳母を連れてきましょうか」、と申し出た。そして、モーセの母親を呼んでくるのです。そしてしばらく母親が育て、その後、王女が、モーセを引き取ったのです。モーセは王女の子供として育てられていくことになったのです。
ある時、同朋がエジプト人に虐待されているのを見たモーセは、そのエジプト人を殺して埋めてしまいます(^^;。かなり過激です。それが結局、ファラオにばれて、モーセはミディアン地方に逃亡します。そしてそこである時、神秘体験をするのです。「有りて在る者」と名乗る神からの召命を受けたのです。「有りて有る者」とはイスラエルの神であるエホバの神のことです。ヤハウェともいいます。
「モーセよ、エジプトで苦しむ我が民を救え。我が民をエジプトから連れ出し、先祖の地であるカナンへと導くのだ」このようにヤハウェの神が命じたのです。以後、モーセは、常に、ヤハウェの神の指導を受けながら、数百万人(※聖書には壮年の男子だけで60万人と書かれている)のイスラエルの民と共に、エジプトを脱出します。途中、奇蹟が続出します。モーセの時代というのは奇蹟の時代だったのです。
霊的観点から言うならば、モーセというかたは、九次元宇宙界の大霊なのです。そして、ヤハウェの神とは、エル・ランティという、これまた九次元大霊であります。しかも、このお二方は、「荒神」系の元締め的な存在なのですね(^^;。
ま、要するに、過激な方々であります。火の雨を降らせたり、海を真っ二つに割ったり、地震を起したり・・・・・・。ものすごい霊能力を持っているのです。そしてそれで、大勢の人が死んでしまっても、仕方ないと割り切れる方々です。
このお二方がタッグを組んで、この時代を動かしていったものですから、もう奇蹟が続出して当然なのですね。「現証」重視の時代だったのです。目にもの見せてくれようぞ!って感じです。イケイケドンドンです(^^;。「おれの言うことが聞けないのなら、もういい!」といってリセット・ボタンをポンッと押してしまう時代だったのです。
しかし、それは彼らの一面に過ぎません。彼らには幾つもの顔があるのです。モーセというかたは、現在「地獄界解消の陣頭指揮」という役割で動いているそうです。この仕事は、キレイ事だけではやっていけない仕事です。ま、暴力団を壊滅させるためには、どうすればよいかを考えてみればわかると思います。やはり屈強の警官たちの活躍がなければ無理なのですね。
机上の空論、理想論ばかりの頭でっかちでは、絶対に無理なのです。勇気があって、実行力があって、体力があって、ケンカにも強い警官たちでないと、暴力団には太刀打ちできないのです。もやしみたいな青年が震える声で、「暴力はいけません」なんて叫んでみても、屁のツッパリにもなりません。
モーセとかエル・ランティ、あるいはミカエル天使長といった方々は、いわゆる戦闘系天使のカシラなのですね。こうした人たちがいるからこそ、地獄霊たちも、この地上で、好き勝手にはできないのです。
もし、戦闘系の天使たちがいなかったら、この世はあっというまに地獄霊たちに蹂躙されてしまうことでしょう。今の地球は、すべてをキレイ事で済ますことができるほど、レベルが高くないのです。
モーセやエル・ランティやミカエルが、睨みを利かせているからこそ、なんとか持ちこたえているということを知っておいて下さい。そしてできたら、そうした方々に感謝の気持ちを持っていただきたいと思います。
「裏の霊界」と「表の霊界」
霊界は、「天国」と「地獄」に分けることができます。そしてもう一つ、「裏」と「表」に分けることもできるのです。これはどういう分け方か?
たとえば、ある人が、心の幸せを求め、俗界を離れ深山幽谷の世界で、心の修行をしたとします。そしてある程度の心の安らぎを得て、それで満足して、そして心がきれいなまま死んだとします。さて、この人は地獄に落ちるでしょうか?落ちないのですね。この人は悪い心の人ではなかった。しかし、この人には「愛の精神」が乏しかったのです。
人間の目的と使命は、魂修行と愛行(※ユートピア建設)です。この人は魂修行だけに、偏ってしまったのですね。だから心は汚れていないけど、愛念の乏しい人々の集まる霊界に帰ることになるのです。そういう霊界が「裏の霊界」と呼ばれているのです。
あるいは、愛の心を持っているのだけれども、あまりにも霊能力に頼りすぎた人々は、どうも「裏の霊界」に行くようです。大本の出口王仁三郎師は、愛の精神にあふれていたけれど、巨大な霊能力に頼りすぎたため、どうやら「裏の世界」に帰ったようです。しかし、悟りの段階で見たとき、師は「如来」格だということです。
如来なんて、愛の塊だから表も裏もないのではないかと僕なんかは思ってしまうのですが、あまりにも霊能力に偏重しすぎると、そうした世界に行くそうです。
裏の霊界は、地獄ではないのです。人に迷惑をかけないけど、愛念の乏しい人や、愛念があっても、霊能力に頼り過ぎる人が集まる世界なのです。天上界の中の一部にそうした世界が形成されているのです。そしてその世界にも、四次元の世界から八次元の世界まであるのですね。
ただ、頂上は、よく考えてみれば、裏も表もないのです(^^;。一応、モーセとエル・ランティが裏の世界を仕切っているそうですが、彼ら自体は、裏・表を超越した存在であります。九次元は頂上だから、裏も表もありません。山の頂上には裏も表もないのですね。全方位です。
心の言葉 モーゼの訓え
これは、「組織的に真理を広めていきなさい」という感じがするので、今の時代には、あまり相応しくないかもしれません。今、宗教組織の弊害があまりにも大き過ぎるため、天上界においても、「組織」というものに対する考え方が変わりつつあるようです。
たしかに組織的な伝道は、効果的です。また、迷える孤独な人々にとっては、そうした組織に属することで救われることもあります。
しかし、良い点と悪い点を秤にかけてみて、悪い点があまりにも大きいのならば、切り捨てることも必要になってきます。これは状況で判断していくものなので、非常に微妙な問題です。ただ今の状況から判断すると、「組織」無しで、真理を広めていくことを考えたほうが良いと思われます。
今の時代、盲信・狂信の弊害があまりにも大きすぎるのです。現代は末法といって、偽メシアの続出する時代なのです。彼らに惑わされた人たちは、人生を狂わせて行きます。そうした悲劇が後を絶ちません。こうした状況下、また新たに一宗一派を打ち立てることは、さらに人々を迷わせていくことになるではないでしょうか。
ただ、こうした考え方は時代と共に移り変わっていくものなので注意が必要です。常に頭を柔軟にさせておかないと、判断を誤ることになると思います。
正しい道とは、「反省」と「祈り」。これは自力(じりき)と他力(たりき)の両方が大切だということです。反省は自力。祈りは他力です。バランスの問題です。
この世は、基本的には自力の世界です。「自己責任の原則」というのがあるのです。だから、常に「反省」することで、自らの「思い」と「行い」を正していくことが大切です。間違いの修正、後始末は、自分自身がするものなのだからです。
誰かが肩代わりしてくれないのですね。間違った他力信仰とは、誰かに自分の失敗を肩代わりしてもらおうとするものであります。
祈りとは、「思い」と「行い」が、神様の御心にかないますように、と願うことです。この世では、私たちは10%の表面意識で生きています。いわば盲目の人生です。常に正しい反省や判断ができるとは限らないのです。それだけに不安であります。だから、どうしても人には「祈り」が必要なのです。
そして祈りとは、心の奥にいます、守護・指導霊、そしてさらに奥にいます、光の天使たち、そしてさらにさらに奥の究極の神に向けられるものであります。自分と切り離された、別の存在に祈るのではないのです。神は心の中にいます。というか、神と私たちは一体なのだそうです。この世では、切り離されているように感じますが、本当は「神我一如」が真実なのだそうです。
だから「天にいます父よ」という気持ちよりも、「心の中にいます父よ」という気持ちで祈るほうが良いのですね。そのほうが真実に近いのだから。
間違った他力の祈りは、自分以外の何ものかに、すべてを委ねてしまいます。本当の祈りは、潜在意識の奥の本当の自分自身の実相に祈るのであります。どうか正しい「思い」と「行ない」で生きていくことができますように、と。従って、祈りは、正しい「思い」と「行い」となってあらわれてこそ、本当の祈りということができるのです。
正しい「思い」と「行ない」とは、八正道でいうなら、正思、正語、正業、正命です。「思い」と「言葉」と「行ない」の三つが正しくて、しかも一致している「生活」。そうした生き方を願い、実践することが本当の祈りなのであります。
「思い」だけ正しくて、「言葉」と「行ない」が悪ければ、それは偽者です。「言葉」と「行ない」が、一見正しいように見えても、「思い」に邪心があるのならば、それも偽者です。思いと言葉と行いが、正しくて、かつ一致していることが大切なのです。そして、そうなりますようにと、人は、祈らずにはいられないのです。
そして祈りにはもう一つの側面があります。それは「他の人に幸せが訪れますように」という祈りです。「自他は一体」なのですね。人間みな神の子、人類みな兄弟であります。だから、自分自身だけが正しくて、幸せならば、それでいいという考えは、間違っているのです。「自分も他も幸せになりますように」と祈るのが本当の祈りです。
幸せへの道は、正しい生き方にあります。偶然に舞い込んでくるような、宝くじやギャンブルで大金が舞い込んでくるような、そんな幸運は、本物の幸せではないのです。本当の幸せは、正しく、そして愛あふれる生活の中から生まれてくるものです。そうした生活を、自分も他人も生きることができますように!という祈り、これが本当の祈りです。
病に苦しんでいる人には、単に病を消してしまうことを祈るよりも、その病の根本の原因が消え、その結果、病も消えてしまうように祈ることです。病が消えても、その根本原因である心のあり方が改められることがなかったならば、やがて再発していきます。あるいは別の形の苦しみとなって顕現化していくのです。要するに、結局本当の祈りとは、「自も他も、正道を歩めますように」と祈ること、というところに落ち着くのです。
この世的な成功や健康や結婚や、そうした結果を求めるのが本当の祈りではない。そうしたものは、正しい生き方を続けている過程で、与えられることもあるかもしれない。しかし、それらが目的ではないのですね。目的はたった二つです。自分の魂が成長すること。そしてユートピア建設であります。それが魂の悲願なのです。そのためには人は祈るのです。
愛と慈悲との違いとは何か。これは本質的には同じものです。共に神の光です。しかしその「働き」によって、愛といったり、慈悲といったりします。
慈悲とは、天上から地上へと降りてくる神の光です。
愛は、地上を覆っていく神の光です。人から人へ、愛し愛され、与え与えられ、どんどん広がっていくのが愛であります。愛は相互扶助であります。愛は生かしあい、許しあう心です。愛は見返りを求めず放ち続けるものです。愛は、この世で最大の力なのです。そしてその本質は神の光であります。
まず、神や高級神霊から、この地上に「正法」が降ろされてきます。これを慈悲といってもよいでしょう。神の光が「正法」として地上に降ろされるのですね。これはイメージですが、まず地上のある一点に降ろされるのです。つまり、教祖と呼ばれるような人に啓示として降ろされていきます。
そして、次には、それが地上に広がっていく姿が、愛の姿と言ってもよいでしょう。慈悲は上から下に向かっての縦の光、愛は横の広がり。横の光です。別ものではないのです。働きの違いです。
徳のある日々を送るとはどういうことか?「徳」とは何か?
徳とは、要するに立派な生き方のことです。「正しい行ない」、「愛のある行ない」、これが徳です。こうした行いを日々積み重ねていけば、当然人格が高まっていくのです。これが進歩なのですね。本だけ読んでいても進歩しないのです。完璧な理論理屈を身に付けても、それはまだまだ進歩とはいえない。
実際に、日々の生活の中で、その理論や理屈通りに、行ってこそ、進歩につながっていく。今日一日、立派な生き方ができた時、己の魂は喜ぶのです。なぜなら、今日一日分の進歩があったからです。知ることは前提だけれども、それが行動につながらない限り、進歩というものはないのです。
「知」は大切だけれど、求めるとキリがないのですね。だからすべて知ろうとすると、知識の収集だけで一生が終わってしまう。それは最低の人生なのです。
「知」は「行ない」として具現化してこそ、本当の「知」となるのです。「知」と「行ない」は別々のものではないのです。別々になっているとき、それは本物の「知」とは呼べないのです。これは王陽明が説いた「知行合一」と同じ考え方です。
私たちは、行動するために生まれてきたのです。知るためではないのですね。「知」は「行ない」へのステップであって、「知」を目的にしてしまうと、何の意味もなくなってしまう。この世の知識などは、過去世において、すべて学んでいて、潜在意識の奥に、般若の智慧として蓄積されているようです。
しかしこの世での行動は、あの世では決して体験できないことです。何度生まれ変わってきても、今世での行動は、己の心一つでどのようなものにでもしていくことができる。体験は無限のバリエーションがあるのです。
この世は、証明の場であるのです。つまり、己の悟りが、本物かどうか?この世での行ないを見れば、一目瞭然なのです。この世という人生の修行場で、「行ない」を通して証明すること。「行ない」を通して学ぶこと。これが大切なのですね。この筋道をハッキリさせておかないと、ともすると、知識収集で終わってしまう場合があるのです。頭の優秀な人ほど、その罠にはまりやすいので、注意してください。
鉄則です。やはり、まず自分の心からです。しかし自己確立に完成はありません。完成を目指すと、自己確立だけで一生が終わってしまう。従って地上天国建設のための「愛の実践」はできないということになる。これもまた最低の人生です。
ユートピア建設は、人間の使命です。自己の修行に明け暮れるだけで、一生を終えるのなら、生まれてきた意味がないのですね。
ある程度、自分を磨いたら、自己確立(※魂修行)と愛の実践(※愛行)を循環させていくことです。自己確立と愛の実践は、同時進行できるのです。そして同時進行したときには、相乗効果があらわれてくるので、思いもよらないほど、自己確立が進むし、多くの愛の実践ができるものなのです。相乗効果が大切なのですね。
「善も悪もない」とか「色即是空・空即是色」とか、そんな難しいことは、今はいい。まず、悪を捨てなさい。まず、善を行ないなさい。難しいことは、それが、ある程度できてきてからでいいのです。理屈は死んでいる。やっていいことと悪いこと、この区別すらわからないで、「善悪はない」なんて難しいことを言っても意味がない。
殺しもいいのか?盗んでもいいのか?・・・・・・。「いいですよ」といえるのなら、「善悪はない」と胸を張ればいい。どうでしょうか。殺されてもいいですか?盗まれてもいいですか?本音で答えて下さい。嫌ならば、「善悪はない」などと軽軽しく言うべきではないのです。理論理屈人間になって、人の感情を失ってしまってはダメなのです。
現代の性の乱れは、恐るべきものがあります。そして一方では、間違った宗教の縛りで、潔癖症になってしまって、身動きの取れなくなっている人々もいるようです。
不倫ぐらい、いいじゃないか。みんなやってるよ。 不倫をしたら地獄に落ちる。
ともに極論であります。基本的には不倫は、良くないのです。やってるほうは、いいかもしれない。しかし裏切られている人の立場になれば、地獄です。人を地獄に落としておいて、不倫ぐらいいいじゃないは、ないんじゃないかなと思います。
じゃ、すべての不倫がいけないかというと、そうとも言い切れない。完全に冷め切っている夫婦。でも別れてくれないような状況。あるいは本人たちの自由意志を無視した政略結婚や神託結婚などで、不幸を感じている人がいたとして、そこへ、本当のソウル・メイトとかツイン・ソウルが現われたら、どうなるでしょうか?
僕は、場合によっては、不倫であっても、地獄には落ちないと思うのですね。ま、ケースバイケースですが・・・・・・。
聖書でも、不当な結婚の場合は、離縁は許されているのです。何事も杓子定規ではいけないと思います。ま、このあたりの意見(※結婚について)は個人的意見です。どうか、皆さんもじっくり考えてみてください。
この世だけと思っていると大変なことになりますよ!ということです。あの世もあるのですね。死ねばあの世に行き、そしてまたやがてこの世に生まれ変わってくる。
「原因結果の法則」は、この世とあの世を貫いているのです。この世限りなら好き勝手にやってもいいと思います。しかし、原因結果の連鎖は、この世あの世に関係なく、つながっているのです。この世で罪を犯しても、見つからなければ、罰せられることはありません。そして、この世限りならば、罰から逃れたことになるでしょう。
しかし、「天網恢恢粗(てんもうかいかいそ)にして洩らさず」であります。あの世は、あるのです。この世でバレなかった罪でも、あの世では、絶対に清算しなければならない。場合によっては地獄に落ちることもあるでしょう。こうした恐れを持っておくことは必要なことです。悪の誘惑に対する抑止力となるのですね。
しかし、あの世の存在は、決して方便ではないと思います。本当にあると僕は思っています。だから、人に「好き勝手にしたらいいよ」とはどうしても言えないのです。 「善も悪もないから、好きなように生きていいのだよ」、こうした無責任な教えを説く人もいます。そしてそれを信じて悪行三昧に生きて、死後、地獄に落ちてしまったら、その責任は、そうした無責任な教えを説いた人にあるのですね。
地獄に落ちてしまった人の恨みが完全に消えてしまうまで、責任は消えないんです。だから、よくわからないのなら、無責任なことは言わないほうがよいのです。
これは、八正道の生き方の薦めです。何度もいいますが、人生の目的と使命は、魂修行とユートピア建設です。これは一言で言うと「調和」であります。己の心を調和、人類全体の調和、これが人生の目的と使命。それを実現していくためには、中道すなわち八正道の生き方以外にないのですね。
八正道は、小乗仏教で、愛と慈悲がないではないか?このように言うかたもおられます。
しかしそうではないのです。正思、正語、正業というのは、愛がなければ無意味なのです。愛の思い、愛を込めた言葉、愛に基づく行動。これが正思、正語、正業であります。これを人類全体が実践すれば、ユートピアが来るのですね。決して、八正道とは、独りよがりの道ではないのであります。
これは、努力の教えです。運命を固定的なものと考えてはなりません。四柱推命や占星術、あるいは高橋信次先生が作った「人生の羅針盤」などは、その人の誕生した時の、星の位置関係によって、その人の運命は90%以上予測できると考えています。生まれた正確な時刻までわかると、その人の運命を、さらに高い的中率で予測することができるのです。
高橋信次先生は、人々が、「人生の羅針盤」に心を奪われて、魂の修行をおろそかにしているのを見て、「人生の羅針盤」を封印してしまったそうです。信次先生としては、ある程度、先が見えたほうが、幸せになることができるだろうからという親心で、「大自然の波動と生命」(※絶版、封印ですね)という未来予測の原理を解明した本を出版したのです。
「人生の羅針盤」とは、その原理に基づくものだったのでしょうね。僕は見たことがないですが。
しかし、予言に100%は有り得ないのであります。運命は、努力によって切り開いていくことができる!変えていくことができる!これが正法であります。未来は確定していないのです。未来には、流動的な要素があるのです。努力によって、その部分を変えていけば、必ず運命も変わっていくのです。
その変えようとする「努力」ということが大切です。ただ座して、祈ってるだけでは、何もかわらない。勇気をもって、運命に立ち向かったとき、歯車は動き始めるのです。そしてその時に、天もまた、我々の祈りに応えてくださるそうであります。「天は自ら助くる者を助く」と申します。これは万古不滅の真理であります。
僕自身の人生を振り返ると、偉そうなことが言えないのですが、これが「正法」の基本的な考え方なのであります。 Kommentare (2)Melden Sie sich zum Hinzufügen eines Kommentars mit Ihrer Windows Live ID an (wenn Sie Hotmail, Messenger oder Xbox LIVE verwenden, besitzen Sie eine Windows Live ID). Anmelden Sie haben noch keine Windows Live ID? Registrieren
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