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伊邪那岐大神 00092>メインページへ 20060328 00092 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
光明思想と反省法
「光明思想」と「正法(しょうほう、しょうぼう)」が正反対の教えだと考えておられる方が多いようです。しかし、「生命の実相」からの上記引用部分を読んで、皆様はどのように思われたでしょうか。 私は、この部分を読んで、やはり光明思想も「反省」を基盤にしていると感じます。上記引用部分は、完全に「正法」と一致していると思うのです。
まず、己自身の現状が、「神の子」として相応しいかどうか。これを「反省」するところから「光明生活法」はスタートする。これが「光明思想」の立脚点だと思います。毎日、己を「反省」して、「仮妄の自分」を見出したなら、それを捨ててしまうことで、神に少しずつ近づいていくことができる。こうした考え方は「正法」そのものです。「反省法」と「光明思想」は対立するものではないのです。
谷口雅春の過去世について -初期「幸福の科学」で発表された説-
今から、約2800年前、日本の九州に生まれているそうです。古事記にイザナギノミコトという神様が描かれていますが、そのイザナギが、師の過去世であったそうです。古事記やギリシャ神話などは、決して空想の産物ではないのですね。やはりモデルになる人物や事件が存在しているのです。そして、その偉大さが語り継がれ、伝説となり神話となっていくのです。
創世記のエデンの園やアダムとエバ、ノアの箱舟、プラトンのアトランティス大陸の話、こうしたおとぎ話のような話は、実際にモデルがあったのですね。たとえば、日本の明治維新のお話しなんかは、3000年ぐらい後の世界では、確実に神話になっているはずです。そして、坂本竜馬や勝海舟などは、古典の「三国志」の登場人物のような超人的存在として伝えられていることでしょう。
さて、イザナギはその後、ローマ時代、三世紀の頃、エジプトに生まれ変わっていきます。新プラトン主義のプロティノスという哲学者です。そしてその後、谷口雅春として日本に生まれ変わったということです。「悟り」の段階としては、八次元最上段階の悟り。「太陽界」の住人だそうです。
霊界には、縦割りの構造もあるのですね。たとえば、仏教系の霊団は、お釈迦様を頂点にして、九次元から四次元の世界までを貫いて、ひとつの霊系団を作っているのです。「類は類をもって集まる」のですね(^^;。谷口雅春は、プロティノスという過去世があるのですが、基本的には、日本神道系の霊団に属しているのです。高天原(たかあまはら、たかまのはら、たかまがはら)という、日本固有の霊界があって、その最高指導霊の一人だということです。
生長の家の聖典「生命の実相」を読めばわかるのですが、今までの日本神道系の教団にない斬新さがあります。特にキリスト教や哲学的な色彩、あるいはニューソートや精神分析などを取り入れている点が、特徴的です。基本的には、天皇絶対主義なのですが、いろんな宗教、哲学、文学、科学の教えを縦横無尽に引用したり、新解釈を加えたりして、「万教帰一(ばんきょうきいつ)」を唱えています。間違っていない宗教や哲学ならば、その真髄にまで、うがちいれば、必ず一致しているという考え方ですね。
これに対して「万教同根」という教えもあります。谷口雅春のかつての師である出口王仁三郎などが唱えた説で、あらゆる正しい教えは、たったひとつの真理から生まれ出てきたものであるという考え方。「万教同根・万教帰一」で、セットなのですね。
ものごとは、何でも核があって、そこから分化、発展していく。でも広がりすぎると、収集がつかなくなって行くので、時々、統一、統合するということが大切なのです。今の時代は統合の時代です。あまりにも分裂しすぎて、何がなんだか分からなくなってしまった時代なのです。それを帰一させようとしたのが谷口雅春だったのです。ただ惜しむらくは、あまりにも日本絶対主義に傾いていた点ではないかと思います。 「生命の実相」の頃は、そうでもなかったのですが、第二次世界大戦の頃は、やはりちょっと頑なになっていたのではないかなと感じたりしています(^^;。僕も心情的には日本主義なのですが・・・・・・。
光明思想の真髄
「光明思想」とは、「光一元論(ひかりいちげんろん)」であります。一元論なのです。 これは、「神のみ実在」「善のみ実在」「愛のみ実在」という考え方ですね。「唯神実相哲学」とか「生命の実相哲学」とか呼ばれています。しかし、谷口雅春先生の教えは、単なる思想や哲学ではないですね。根本は「神示」だったのです。
谷口先生が大悟する前に、もうほとんど「生命の実相哲学」の骨子は、出来上がっていたはずです。しかし、理論は理論に過ぎないのです。それが実生活に生かすことができないものであるのなら、単なる画餅に過ぎないのです。立派な思想、哲学を理解していたけど、それを実生活に生かすことができないで、依然として、苦しみの中で、悶え続けていたのであります。現実社会と真理の世界のギャップの大きさを、どうしても埋めることができずにいたのです。
これは宗教的な人ならば、みなが経験することです。ただ、谷口雅春のような偉大な人間は、我々凡夫の何万倍も苦しむのですね。たとえば、肉食というのは、やはり、愛の観点から考えるといけないと僕なんかも思うのですが、「でも、しかたないじゃん」と開き直れるのですよ(^^;。でも谷口先生は、どうしても「しかたないじゃん」で済ますことができない。ものすごく苦しむのです。
空気を吸っても、黴菌なんかを殺してしまうかもしれない。道を歩けば、ありんこを踏み潰しているかもしれない。肉食を止めて、菜食にしても、野菜や果物も生命なのだから、結局、人間は殺生せずには、生きていくことができないのだ・・・・・・。なんて人間とは罪深いものなのか?他を犠牲にして、生きていくのは嫌だ。どうすればよいのか!?
あるいは「原罪」について悩みます。遠い昔に先祖たちが犯した罪のために、なぜ我々が苦しまなければならないのか。なぜ我々が、先祖の罪を償わなければならないのか? 神とはいったい何なのだ?旧約聖書のエホバの神は、なんて嫉妬心が強いのだろう?何かあるとすぐに天罰を下す。あれが本当の神なのか?神は愛ではないのか?、・・・・・・こうしたことを延々と悩み続けるのです。
また、現実的な養父母の考え方と、精神的な谷口先生の考え方は、正反対でした。本当に立派な道は、やはり谷口先生の目指すような道なのですよね。しかし現実は、谷口先生は、関東大震災で焼け出され、神戸の実家に、妻子を連れて、転がり込んでいたのです。
谷口先生は、大本時代、「大本教の聖フランシス」と呼ばれるぐらい清貧の生き方を実践してきた人なのですね。だから蓄えというものがなかったのです。財産といえば、着物と歯ブラシぐらいだったのです・・・・・・(^^;。養父母としては、「真理」がどうだとか、偉そうなことをいう前に、就職してお金を稼いで、家族を養ったらどうか?と思うわけです。しかし、谷口先生は、求道心が燃え盛っています。何としても真理をつかみたい!そして、人々のために何かお役に立ちたい。つかんだ真理で、人々を救っていきたい。こうした救世の情熱というのを押さえ込むことがどうしてもできなかったのです。
とはいうものの、宗教的な自分は、金銭というものに対しては執着してはならぬと思っているのですが、一方では、現実的にお金の必要性というものをヒシヒシと感じていたのです。理想論だけでは、妻子を養っていくことはできないのです。・・・・・・その時点では、経済面は、養父母に頼っていたのですね。価値観のまったく違う養父母に養ってもらうというのは、ものすごくつらかったと思います。結局、根本的な問題の一つに生活費の確保という問題があったのです。
当時、谷口先生は、「スピリチュアリズム」の草分けである浅野和三郎氏の心霊科学研究会の仕事を、少しばかり手伝っていて、わずかながらの収入を得ていました。しかしそれだけでは、経済的に自立することができなかったのです。この問題を何とかしない限り、次のステップに進めなかったのです。
ま、養父母から、このように言われてしまうと、どんな聖者であっても、”ぐう”の音もでないのです(^^;。完全な板挟み状態です。にっちもさっちも行かなくなってしまったのです。
しかし考えてください。もし、このとき、谷口先生が、板挟みに負けて、養父母のいう通り、堅実で平凡な社会人として生きてしまっていたら、もしかしたら、「生長の家」の出現はなかったかもしれません。それは、人類にとっては、大損失なのであります。谷口先生が、板挟みの中で苦しんで苦しんで苦しみぬいて下さったおかげで、あの素晴らしい教えが、世に出ることができたのです。偉大な求道者というのは、どうしても身内には理解されないものなのです。「預言者、故郷に受け入れられず」であります。一番理解して欲しい身内が、道を阻もうとするのです。釈迦然り、イエス然りであります。この強烈な矛盾を乗り越えなければ、どうしても高い境地に入ることはできないのであります。
ある日、谷口先生は、夢の中で、神様と対話します。理想と現実の板挟みの苦しみを神様に訴えました。すると神は、次のように言います。
これは夢の形を取った啓示だったのでしょう。その後、少しずつ、谷口先生の心に変化が起こっていくのであります。
ある時、次のような言葉に出会います(※これは啓示ではありませんが・・・・・・)。
これは、清貧に生きる善人たちに対する痛烈な批判であります。彼らは、正しいかもしれない、やさしいかもしれない、しかし何の力もない。周囲を救うことなど夢のまた夢。自分すら救うこともできない。 ・・・・・・こう言われてしまうと、みもふたもないのですが、それが厳然たる事実でもあります。それが谷口先生の現実の姿であったのです。
そして、谷口先生は、次第に、誰かが経済的な犠牲になるような、あるいは家族が不和になるような、そんな奉仕生活は、間違っていることを悟っていくのです。よく、家庭を犠牲にして宗教活動に励む人々がいます。新興宗教のほとんどが、そういう仕組みになっています。家族は、不平を言いますが、「いや、これは神様の仕事だから。家庭よりも、人類のために生きるのが神の道なのだ。それがかえって家庭の幸せにつながるのだ」とかいって、結局、最後には家庭を崩壊させてしまうのです。
、このように気づくのでした。そして就職する方向に傾いていったのです。一ヶ月間ほど祈り(※神想観)続けていると、ひょんなことから就職先を見つけることができました。そして経済的に自立して、実家から住吉村へ移転して行くのです。仕事には就きましたが、もちろんその後も、人生の疑問に対する深い思索は続けられました。
そしてある日、とうとう啓示が降ろされてきたのです。瞑想中、どこからか声が聞こえてきたのです。
これが、神の第一声です。そして神との対話が始まります。もちろん、この神は究極の神ではありません。人格神、人霊であります。一説には「天之御中主之神」ではないかと言われています。
神は、「現象は一切無い、心も無い」と断言します。では、何も無いのか?と聞くと、「実相がある」と答えるのですね。そして「実相とは神仏である。神仏のみがある。神仏の心と、神仏の心の顕現のみである。これが実相だ」と断言するのです。
これが、「光一元論」、「唯神実相哲学」の根幹なのです。「実相」以外はすべて「無」であるとして切り捨てるのですね。物質は、あるように見えても本来無い。肉体も無い。従って病も痛みも本来無し。経済的な困難も本来無し。ただ「実相」のみがある。「実相」とは神仏。
神仏は、
つまり、「実相」は完全無欠であるということですね。そしてすべての人間は、「神の子」であり、今、現に「実相」の世界に住んでいて何一つ不自由のない暮らしをしている、というのです。この現象界で、私たちは生きているように見えるけれど、そんなものは幻に過ぎない!という考え方です。これは、にわかに信じられない考え方です。しかし、おそらく真実であろうと思います。
これは観点の問題なのですね。たとえば、ある物体に光を当てると、影の部分ができます。で、普通、私たちは、「光」と「影」があると思います。これは、光と影の二元論です。
ところが、よくよく考えてみると、影とは、「光の無い状態」ではないでしょうか? 影とは「光の無い状態」、つまり、「無」の別名ではないだろうか?ということです。 「光の無い状態」のことを称して「影」という。すなわち影とは「無」だということです。
ということは、「光」と「無」があるということになります。しかし「無」が、いくらあったところで「無」は、いつまでたっても「無」であります。「無いものは無い」のですね。・・・・・・従って、「光」と「無」があるという表現は、「光だけがある」と言い換えても同じ事なのです。つまり、これが「光一元論」なのです。光と影の二元論と本質的に同じものなのです。ただ観点を変えることで、一元論になったり二元論になったりするのです。
一元論というのは、「実在」と「非実在」の二元論なのですね。一元論に至るためには、物事をまず二元的に見ることが必要なのです。まず、すべてを、「実在」を「非実在」に二元に分けてしまうのですね。そして非実在は、「無」であるから、切り捨ててしまう。そうすると一元論になってしまうのです。ここが非常に重要なポイントなのです。
味噌もクソも一緒にしてはならないのです。「在るもの」と「無いもの」を見分ける知恵の目が必要となってくるのです。「善」と「悪」の二元論も同じです。本当にあるのは「善」のみなのです。「悪」とは「善」のない状態であります。「光」とか「善」というのは、積極的存在であります。神の属性なのです。神のみが真実、存在しているから、神の属性である「光」とか「善」とか「愛」、こうしたものだけが、積極的存在として実在しているのです。
そして、それら実在するものが、欠如した状態が、「闇」であり、「悪」であり、「憎しみ」であったり「恐れ」であったりするのです。それらは消極的存在といって、あるように見えて「本来無いもの」なのです。
これは「健康」と「病」についてもいえることです。「健康」なのが人間であります。「本来病無し」であります。「実相界」と「現象界」も同じです。本来、「実相界」のみ存在する。現象界、本来無しであります。物質も人間社会も、あるように見えて「本来無し」です。映画のスクリーンには、いろんなものが存在しているように見えますが、実際は何もありません。この現象界もスクリーンに過ぎないのですね。本当は何も無いのです。
こうした「光一元」の悟りは、実は大乗仏教の説く教えと同じものです。「色即是空・空即是色」とか「諸行無常・諸法無我」などの教えと、同じものなのです。これらの説明をして行くと、あまりにも理屈っぽくなるので止めておきます。ただ本質は同じものだと思ってよいと思います。
ともかくこの「光一元論」が、「光明思想」の真髄であります。これは、なかなか、すぐに理解できるようなものではないかもしれません。また理解できたとしても、それを生活の中で、完全に生かすことは、難しいのです。しかし、正法を学び、実践していくうちに、徐々に本当の意味が見えてくるのであります。
「光一元」の教えは、「如来の法」といって、我々には、そう簡単に理解できるものではありません。ただ、谷口雅春先生は、非常に筆が立つのですね。ものすごく難しいことを、私たちでも何とか理解できるぐらいにまで噛み砕いて表現してくださる。だから、部分的に理解できるのです。そして理解に応じた分だけ、功徳を受けとることができるのです。
たとえば、「物質は無い」ということがわかると、この肉体も無いことがわかります。そして当然病気も無いことがわかる。 病気で苦しんでいる人に、
こんな感じで説教されて、突然病が治ってしまった人が続出したのですね。車椅子の人が、立ち上がって、歩いて帰ったとか、メガネが必要なくなったとか、末期症状のガン患者が、全快してしまったり、まるでイエス・キリストのような奇蹟です。
「生命の実相」という本を読んで、そこに書かれている真理を理解するだけで、そういう奇蹟が起こったのです。これは「現証」です。
また「生命の実相」という書物には、たくさんの「文証」が紹介されています。万教帰一ですから、あらゆる宗教の文献を引用して、「生命の実相哲学」との一致を証明しようとしています。それはそれは涙ぐましい努力です。多少、我田引水的な解釈もあるのですが、とにかく素晴らしいの一言です。
また、谷口先生の文章は、非常に論理的でありまして、「理証」という部分でもクリアしていると思います。このように「生命の実相」哲学というのは、単なる哲学ではなく、三証がそろった「正法」だということができるのです。
「『文証』、『理証』は、『現証』にしかず!」(※「文証、理証は、現象にしかず」ともいう) 、という言葉があるのですが、これは、いくら理論や理屈を並べ立てたところで、現実的な証明がないのなら、そんなものには何の力もないという意味です。
たしかに「生命の実相哲学」は、一見、荒唐無稽です。「物質はない」、今目の前にあるパソコンは、本来ないのだ!といわれても、なかなか信じることができません。でも、この教えを学び行じている人々に、今までに、何万何千万という奇蹟現象が起こっているのです。こうした「現証」が、この「教え」の正しさを証明していると思うのです。ともかく、この教えは、「三証」を具備(※「三証具足」)した「正法」であると僕は思っています。
「生命の実相哲学」は、「実相のみある。それ以外は、あるように見えても非実在である」という真理によって、病気治癒に奇蹟的な効果があったのですが、もう一点、「経済的成功」にも力を発揮しました。
これは、発展・繁栄の教えでもあったのです。 「生成化育発展繁栄こそが神の心である」という考え方を強く打ち出したのですね。そして「神の無限供給」を強調しました。
、という教えなのです。
そして無限供給に気づくためには、「神想観」という精神統一法を、実習するのですね。すると徐々にその真理を体得することができる。当然、功徳もある。といった感じです。「神想観」は、積極的信念や言葉の創化力を巧みに利用したもので、現実に、絶大な効果を生み出すようです。ま、日本の「成功哲学」の走りといっても良いでしょう。なかなかすぐれた精神統一法なのですが、欲に目の眩んだ人たちが行うと、動物霊や地獄霊の類と、意識が同通してしまって、しまいには憑依されてしまう危険があります。
やはり、こうした瞑想をする時は、本当は、まず「反省」から入る必要があるのです。しかし、「反省」から入ると、どうしてもブレーキがかかって、積極的信念の力が弱まってしまうという面があります。このあたりがジレンマですね。
愛と希望と勇気
谷口雅春の「光明思想」の原点には、深い愛があると思います。谷口先生自身が、他の誰よりもこの世の矛盾に苦しんできたのですね。傷つきボロボロになりながら、道を求めてきたのです。こんな悲惨な苦しみを、もう誰も体験しなくても済むような、そんな時代を切り拓くために真理を求め続けたのだと思います。
苦しみにのた打ち回っている人、悲しみに打ちひしがれて、立ち上がることのできない人、そうした人々に対する限りない深い深い愛があった・・・・・・。宗教には、根底に、人々に対する深い愛がなければならない。宗教の本質は、人類救済の情熱にある。 「どうかこの真理を知って、人間が神の子であること。その身そのままで救われていることに気づいて欲しい」、そうした人類愛が、僕には伝わってくるのです。傷口をやさしく包み込む包帯のような愛、本人の内側に力が満ちてくるまで、じっと見守り続けるような愛。そうした愛を感じるのです。
人生の荒波を乗り越えていくためには、どうしても勇気が大切です。しかし、どんなに強い人でも、人生の途上で、艱難辛苦に襲われ、傷つき、羽折れて、勇気を失っていきます。そんな時、人はどうやって勇気を取り戻せばよいのか?
僕なりに考えてみたのですが、苦しみの底にあるときは、もはや自力で勇気を取り戻すのは難しいのではないかと思うのです。おそらく、人の心のあたたかさや、やさしい思いやりの言葉、真理の書物・・・・・・、あるいは健気にがんばっている動物たちの姿、誰に見られることもないのに精いっぱい咲いている花・・・・・・、こうしたものとの心と心の出会いがなければ、難しいと思う。
そうした魂と魂の出会いによって、愛を感じ、愛に包まれ、少しずつ癒されていく。特に神様の無条件の愛に包まれたとき、人は本当の安心感を知ることができると思う。こんな弱いわたしでも、神様はやさしく包み込んでくださる・・・・・・。こんな私でも許されている・・・・・・。こうした体験によって癒されていくと思うのです。 そして、少しずつ生きていく力が湧いてくる。やがて、そこに希望が生まれてくる。その希望が勇気につながっていくのかなと思いました。
心と心とのふれあいの中で、勇気が育まれていくと思うのですね。
・・・・・・ま、こういう話が「人間釈迦」に書かれています。 このように、人情の機微が、人の心に大きな力を与えていくと思うのです。
谷口先生もそれをよく知っていて、あらゆる角度から「教え」を説いて人の悩みや苦しみを取り除こうとしていました。そこには大きな愛の心があったのだと思います。苦悩する人々を、大きな愛でくるんで、安心させてあげる。そして、いつか彼らの心に勇気が湧き起こって欲しい!そんな切なる願いがあったのだと思うのであります。
ま、こうした言葉を次から次へと機関銃のように地上に向けて発信していきました。こうした言葉の繰り返しが、人々の心に安心感をもたらすのですね。
嘘も百回繰り返されると本当に思えてくるといいます。いわんや真実においてをや。この世とは、幻が積み重なって、本当にあるかのように見えているだけです。真実こそが何よりも強いのです。谷口先生は、真実の光の言葉を、千回でも一万回でも百万回でも繰り返して、この世の迷妄を断ち切ろうとしていたのですね。そして人々の心に安心感を与えようとしたのです。
「光一元論!、これこそが真実なのだ!どうか皆さん、気づいてください!」
そして、こうした光の言葉に常に接していると、人々は、 「そうだ、私たちは神の子だ!何を恐れることがあるだろうか?われ神の子なり。神は常に我らをあたたかく見守っていてくださる。ありがとうございます」、こうした気持ちになってくる。この安心感が、心の中の恐怖を駆逐し、心の傷を癒していく。そして希望と勇気を生み出していく。
そのために、谷口先生は50年間、一貫して同じことを言い続けたのです。真理の光の弾丸を、それこそ「撃ちてし止まむ」の気迫で撃ち続けた。そして人々の心の闇に火を点じていったのです。その根本には、すべての人々が幸せになって欲しいという大いなる愛があったのだと思います。
「生命の実相哲学」を、僕の力で語りつくすことは、到底できないので、この辺でおしまいにします(^^;。またボチボチとこれからも紹介していきたいです。 Comments (5)
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