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心について
しかし、大脳が失われても、魂は考えることができるし、感じることも、記憶することもできるのです。つまり、脳というところは、さまざまの情報をファイルしてある整理棚であり、情報コントロール室だということができます。ですから、情報コントロール室である脳が損傷を受けると、人間は合理的な判断、行動ができなくなります。なぜならば、肉体組織の指揮命令系統が混乱におちいるからです。
(旧版「太陽の法」より)
ですから、もし、魂を人体様の形状をとっているものだと想像するならば、心の部位は、やはり胸のあたりにあり、ここで主として、意志、感情、本能、理性、悟性の各領域をつかさどっており、心の出先機関である脳の部位にある魂のもうひとつの中枢を通して、魂全体に指揮命令をくだしているのです。
(旧版「太陽の法」より)
心の仕組み
この世の人間は、「原子体」「光子体」「霊子体」の三重構造になっている。そして、それら三体は「霊子線」と呼ばれるコードで、つながっている。「原子体」とは、肉体。「光子体」とは、あの世でのボディ(※からだ)です。
私たちの本質は、「原子体」とか「光子体」といったボディではありません。私たちの本質は、魂(意識)であります。この魂が、「原子体」や「光子体」というボディに宿って、この世とあの世を輪廻して、修行しているのです。ボディとは、魂を乗せる舟のようなものです。
魂の中心部分が、「心」です。「心」のボディが「霊子体」であると思われます。これはよくわかりません(^^;。先ほど魂が、人間の本質といいましたが、厳密にいうと「心」こそが人間の本質です。そして「心」は、根源の神にまでつながっているそうです。
「原子体」と「光子体」をつなぐ霊視線の部分が切れた時が、肉体の死を意味します。そのとき、「原子体」(肉体)から「光子体」が離れていきます。「光子体」は、魂を乗せて、あの世に帰るのですね。肉体は、光子体と魂を失い、単なる物質の塊となって土に返っていくのです。
「精神」とか「意識」とか「魂」とか「心」とか「霊」だとか、こうしたものは、すべて目に見えぬものであり、ハッキリとした定義がないと思います。ここで、「正法神理」での、これらの言葉の意味を紹介しておきます(大雑把ですが^^;)。
「霊」とはもともとは、形なきエネルギー体なのですが、人体に宿ることによって、「魂」という人体状の想念体をつくり、その中心に「心」をすえて、人生修行を行っているのです。
(旧版「太陽の法」より)
霊は即ち神の子なり
神の子即ち人間なり
人間はこれ霊にして
霊とは不滅の知性なり
霊とは不滅の力なり
霊は全ての全てにして
肉体はこれ霊の影
人生の大河を流るる小舟なり
(「神理の言葉 正心法語」より)
●「精神」とは、「神仏の精」、「心」、「魂」の三つを包括したもの。
●「神仏の精」とは、神仏のそのもの、慈悲と愛そのものであります。人間は、誰しも、「神仏の精」を内蔵し、自分自身の「心」をつくり、「魂」を形成している。
●「心」とは、「神仏の精」を受ける受け場、器であります。
●「意識」の中心が「心」です。「魂」とは、「意識」のことです。つまり魂・意識の中心点が「心」です。
(「心の指針」P122~P123の要約)
※「霊」と「神仏の精」というのは、おそらく、ほとんど同じものを意味しているように思われます。
私たちは、肉体の「脳」が、物事を考えていると錯覚しますが、実際は、「心」が、考えたり記憶したりしています。「脳」は、「心」の、この世での出先機関なのです。「脳」は肉体の、司令室あるいは管制塔の役割です。指令を出しているのは「心」なのです。
唯物論者は、脳こそが、人間のすべてを司っていると考えていますが、「霊界」の存在を信じる者は、脳は、単なるコンピュータ室に過ぎないと考えているのです。
それは、霊界通信という現象が、真実であるとするならば、そう考えるしかないのであります。霊人とは何か?要するに、彼らには、物質的な体が無いのです。従って「脳」もありません。しかし、彼らは記憶できるし、考えることもできる。
ということは、精神作用というものは、肉体とは別個に存在していることを意味するのです。霊人たちの精神作用は、霊媒の「脳」という、この世の出先機関を通して、この地上にメッセージを送ってくると考えられるのです。
だから、地上の人間も、「心」という目に見えないものが本体であって、脳を通じて、肉体を支配しているのだと、霊界通信を信じる人々は、考えているのです。
心の領域
「心」には、「本能」、「感情」、「知性」、「理性」という四つの領域があります。この四つのバランスが取れている時は、心は真ん丸い風船玉のような感じになっているようです。霊視のできる人には、心の形が見えるそうです。心の調和のとれている人は、お月様のように、心は真ん丸い形に見えるのですね。バランスが崩れていると、当然、歪んだ形に見えるということです。
だから、霊能者の前では、人の心というのは隠しようがないのです。どんなにキレイごとを言っていても、心の形が歪んでいたら、バレバレなのですね。「反省」というのは、心の歪みをなくして、真ん丸い心にする作業のことなのですね。「本能」と「感情」と「知性」と「理性」のバランスを良くすることです。
それでは、順を追って説明していきます。
「想念」には三種類あります。
①五官を通して起こる「想念」。
②心の中から起こる「想念」。
③次元の異なる世界から通信される「想念」。
こうした想念のあり方が、心の中の四つの領域と相互に作用しあって、そして「意思」となって、「行動」につながっていきます(※「行動」は、肉体的行為だけではなく、精神的行為も含みます。たとえば、誰かを「憎い」と思うことも「行動」の一種なのです)。
四つの領域の簡単な説明をしておきましょう。
●「本能」とは、生物が先天的に持っている肉体保存や種族保存の心。
●「感情」とは、喜怒哀楽などの主観的な心。
●「知性」とは、人生経験などを通して、知覚したことや体験したことを、整理整頓して認識する心。
●「理性」とは、すじ道を立てて考える心(※「本能」と「感情」のブレーキ)。
この四つは、心にとって、すべて必要不可欠なものです。しかし、バランスが悪いと、まんまるい心にはなりません。たとえば感情的過ぎる人は、みっともないものです。だからといって、「感情」というものが悪いものかというと、そうではありません。
あるいは、本能的な人もみっともないものです。年がら年中さかりのついた獣のような男の人もいるようです。ま、いい感じはしないでしょう。しかし、だからといって、性欲という「本能」が悪いのかというと、そうではありません。性欲がなければ、人類は滅亡してしまいます。
このように、心の四つの領域は、すべて大切なものなのですが、中道の精神が大切です。極端に片寄ってはいけないのです。相互にバランスを取って、「意志」につながって行く必要があります。これらの四つの領域のどれかが、単独で「意志」の領域につながった時に「偽我」となってあらわれます。
たとえば、「感情」がストレートに「意志」につながるとします。たとえば「怒り」が、ストレートに意志につながり、それが行動に出ると、破壊が生み出されることでしょう。こうした状態は「感情」の領域がふくれ上がっていて、「心」の形を歪めてしまっている状態です。
あるいは、「知性」が異常にふくれ上がっている人は、冷酷な人間ですね。これも「偽我」です。この「偽我」を「善我」に変えていくためには、「反省」しかないのです。
自らの心を振り返り、「感情」や「知性」に傾きすぎていないか?「理性」が吹っ飛んでしまっていないか?「本能」的過ぎないか?を絶えず点検する必要があるのです。
バランスが大切なのですね。たとえば、恋愛している状態とは、本能と感情が強く働いて、知性と理性がしぼんだ状態なのです。だから、心の形は、本当にハート型になっているそうです。
こうした歪んだ状態では、ものごとを正しく判断することができなくなってしまうのです。本人は幸福のまっただ中かも知れませんが、覚めてしまったり、失恋したりしてしまうと、その反作用で大きな悲しみに襲われることになります。
「知性」に傾いている人は、「感情」がしぼんでいることでしょう。そうした人は、「感情」を豊かなものにしていく努力が大切です。
「本能」的な人は、「理性」というブレーキが正常に働いていないのです。物事をすじ道立てて考えていく習慣を作ることです。そうすることで、やっていいことを悪いことの区別がついて、自制心も養っていくことができるでしょう。
こうしたことを反省して、四つの領域のバランスを良くして行く。そうすると「想念」も各領域に万遍なく作用して、正しい「意志」となり「行動」となって行く。このように反省によってのみ「偽我」は、「善我」に移行していくことができるのです。
ま、とにかく、「想念」と四つの領域のバランスに気をつけることだと思います。あらゆる諸現象に対して湧き起こる「想念」が、四つの領域と相互に作用していくのですが、その時に、知的に認識し(※知性)、足ることを知り(※本能)、感情をうまくコントロール(※感情)して、そして理性的に判断していく(※理性)ことで、心のバランスを取っていく。
四つの領域と「想念」のバランスが、うまく取れた時、正しい「意思」となり、正しい「行動」へとつながっていく。これは幸せにつながる流れです。バランスが、うまく取れない時、「心」が歪んでいきます。
そして、そうした場合は、自己保存・自我我欲などの執着心を生み出し、想念にも曇りを作ってしまう。「想念帯」という部分に曇りができて、神の光が遮られていくのですね。これが苦しみの原因となっていくのです。
ともかく、人生の幸・不幸というものは、自らの「心」のあり方に原因があるということなのです。表面意識は、「善我」と「偽我」のせめぎ合っている場所です。「偽我」は、「心」のバランスが崩れた時にあらわれてきます。
「心」のバランスを正しくして、まんまるいお月様のような心になった時、神の子そのままの「真我」が、表面意識にも反映されて、「善我」となってあらわれるのです。
心のバランスを崩せば、やがて不幸が現象化する。調和がとれて、まんまるい満月のような心だったら、心に安らぎを覚えるはずです。まんまるい心になるためには、あらゆる諸現象に対して、中道の心で対応していく。日々、八正道を行ずることであります。感謝と報恩、供養と布施の心を持って、日々、正法神理を実践していくことであります。
心の作用
心の作用とは、神が人間に与えた創造作用であります。神は、思いによって人間を創造された。実は人間とは、神の光の破片あるいは欠片なのです。神の意識体の一部なのです。
大宇宙に対して、人間は小宇宙であります。人間は、大宇宙の縮図なのです。神と人は、相似形の関係なのです。だから人間の心の作用、思いにも、神と同様の創造作用が与えられているです。
この世とあの世は、あらゆる想念の総合体であります。私たち一人一人の想念が、三千世間のどこかに通じ、そして何かを創造しているのです。そのトータルが、この世とあの世を作り上げているのであります。
この心の作用にも、段階があります。それは思いの強さの段階ですね。ま、これもイメージになりますが、「思い」⇒「想い(おもい)」⇒「念い(おもい)」という順番で、だんだん思いの力が強くなっていると定義しておきたいと思います。ま、今後のお話の前提ですね。世間では、この定義は通用しません(^^;。
「思い」「想い」「念い」の違いは、
●「思い」とは、日常の思いです。
●「想い」とは、具体性があり、継続性がある思いです。視覚化できるぐらいの思いです。
●「念い」になってくると、物理的な力を帯びてきます。創造作用の出てくる思いの段階であります。
「念い」の段階とは、超能力のいわゆる「念力」の段階です。念いの力が集中して行くと、創造作用や物理的な力が出てくるのです。また、「波長同通の法則」によって、他の宇宙を飛び交っている同様の想念と合体して、力が増幅されて行くことがあるのです。念いの創造作用は、善悪に関係なく、働いていくので、間違った使い方をすると、大変なことになります。注意しなければなりません。
また、集団的な念力というのもあります。たとえば、一人で念じるより、1万人で、同じことを念じるほうが、大きな力を生み出すのです。
それぞれの念が集合していき、増幅されていくのです。恐るべきパワーを発揮します。念の力とは、まさに両刃の剣です。正しく使えば、ユートピア建設も可能であります。しかし、間違った使い方をすれば、この地球を滅ぼしかねないものなのです。
真説「一念三千論」 (「太陽の法」の要約)
人の心には「念いの針」というものがある。人は、一度に、一つのことしか考えることができないのだ。つまり、「念い針」とは、常にどこか一ヶ所だけを指し示しているのである。たいていの場合、この針は、とりとめもなく、あちこちを指し示している。
さっきまで、良い方向を指していたのに、ちょっとしたことで、今はもう悪い方向に向いている。そして次の瞬間は、もうまた別の方向を指し示しているものだ。
しかし、そうした落ち着きのない心、せわしく揺れ動く心には、安らぎというものがないのだ。幸福は、安らぎの中にあり。安らぎを得たいのであれば、念いの針を、常に神仏の方向に向けておくことである。常に地獄に方向に念いの針を向けている者は、確実に不幸になっていくであろう。
不思議なことだが、念いの針は、どこへでも通じていく。この世の果てまでも通じていく。またあの世にも通じていく。あの世には、地獄があり天国がある。果てしない世界だ。しかし、念いの針は、地獄の最深部である無間地獄にまで通じていく。また反対に天上の如来界にまでも通じていくことができる。広大無辺な三千世間のどこへでも念いの針は通じていくのだ。
なぜ、念いの針は、どこへでも通じるのかというと、広大無辺な三千世間というのは、実は、私たちの心の中に存在しているからなのだ。天国も地獄もすべて心の中にある。だからこそ、念いの針は、どこへも通じていくことができるのだ。三千世間は心の中にあり!そして念いは、三千世間のどこへでも行くことができる。念った瞬間に、その念いに応じた世界につながっていくのだ。
いつも、念いの針が、地獄に通じている者の心は、絶対に安らぐことはない。なぜなら、地獄に通じている者の心は、地獄霊と同様の心境であるということなのだ。地獄は苦痛に満ちた世界だ。決して安らぎの場所ではない。反対に常に、念いの針が天国を指し示す者の心は、天使と同様の心である。安らぎに満たされているだろう。
では、どうすれば、念いの針を常に天国に向けておくことができるのだろうか?そのためには、八正道の生活をすることだ。正法神理を学び、神の御心がどこにあるかを知り、神の心を己の心として、日々生きていくこと。神様の心のほうに向かいなさいということである。
八正道の一つに「正定」がある。これは反省的瞑想のことだ。「止観」ともいう。止まって、己の心のあり方を観ずるという意味だ。日々自らの心を点検すること、省みることだ。
一日の終わりに、己の心を振り返り、間違った思いを反省していくことである。そして反省したら、同じ過ちをできるだけ繰返さないように努力する。これが念いの針を天国に向けるということなのだ。
私たちの心の中には、厳然として地獄もある。しかし天国もあるのだ。「偽我」は地獄につながり、「善我」は天国へと通じる。これは、反省によって心のあり方を正しいものにすれば、どんな人でも天国の住人となることができるということことを意味するのだ。
人の心の中には、如来界や菩薩界も存在している。もし、念いの針をそこへ固定化することができたなら、その人は「光の天使」にでもなることができるのだ。これは、あらゆる人々に開かれている道なのだ。
天国・地獄は、死んでから行く場所ではない。この世にあるのだ。私たちの心の中にあるのだ。念いの針は、天国にも、地獄にも即座に通じてしまう。念いの針が、常に地獄を指し示している人は、この世に生きながら、同時に地獄にも生きているということなのだ。
ならば、私たちは日々、一日の終わりに、心を静め、自らの心と行いを反省して、念いの針を天国に向ける必要があるのではないか。八正道は、この「一念三千論」を基礎に生まれたものなのだ。
※一念三千論 参考資料
八正道の現代的解釈
「正しさ」を知るとは、神の心を知るということなのです。神の生命(いのち)を科学することなのです。なにが善で、なにが悪であるか。なにが真で、なにが偽りであるか。なにが美で、なにが醜であるか。それを決めるのは、神の心なのです。そして、神の心を知るということは、神のエネルギー体の性質を究明するということなのです。すなわち、神を理解するために徹底的に努力するということなのです。
神の心、神のエネルギー体としての性質を理解していただくために、私は、本書以外にも、霊言集を刊行して、高級神霊の声を伝えております。そして、この高級神霊の霊言こそ、神の心を知るための最大のよすがとなるはずです。ですから、高級神霊のことばを通して神の心を知り、「正しさ」をつかんで、自らの八正道の指針としていただきたいと思っています。
私が、みなさんにお伝えしている高級神霊の声が、はたしてほんものかどうかを知る基準は、それによって、自らの心が感銘をうけるかどうか、自らの心が感動するかどうかです。ですから、みなさんが、もしそれらの書物に、魂の底から共鳴するものがなければ、霊言集はすてて、自らの頭で、合理的な基準を打ちたてて、「正しさ」を追究すればいいでしょう。
しかしもし、高級神霊の霊言を、神近き人びとのことばだと信じられるならば、彼らの教える正しさを人生のヒントとして生きていくべきです。いずれにしても、最終的に「正しさ」を決定するのは、真我なる自分自身であり、自分自身の奥底にひそむ神性が納得し、共鳴するかどうかなのです。
(旧版「太陽の法」より)
神の意識は、永遠の調和を目指し、そうして、二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることとなった。
(「人間釈迦①」P158)
神の意志は調和であり、神は、調和という中道の中に住んでいるということであります。これはなかなか、意味が深すぎて、難しい部分だと思います。イメージが難しい。
中道イコール神といってもいいと思います。また中道とは、大自然の姿そのものだということができるでしょう。大自然の姿は、神の心そのものだということですね。
考えてみればその通りだと思います。確かに、この大自然は、神の心、神の法則のままにあらわれている。だから、八正道の「正しさの基準」とは、大自然の調和の姿の中に、無言のうちに示されているはずなのです。
①正しく見る
八正道の第一番目の「正見」の、本当の意味は、この大自然の教えに学びなさいという意味なのだと思います。大自然を正しく見れば、そこに正法の教えが示されていることがわかるということですね。
しかし、大自然の教えを完璧に読み取る能力のある人というのは、限られています。だから、通常私たちは、そうした能力のある人たちの説く教えに、「正しい見解」というものを学びます。これが一般的な意味での「正見」です。
しかし、やはり、我々凡夫も、我々なりに大自然から学んでいく必要があるのですね。単に書物に書かれている真理の言葉を暗記しているだけではいけない。それも大事なことかもしれないが、やはり、自分自身で、見極めていく努力が大切だ。
大自然に学ぶ過程で、必ず疑問が出てくる。疑問が出たら、とことん追究していく。そして解明。この繰り返しによって、「正しい見解」というものが身についてくると思います。
大自然に学ぶとは、要するに神の心に学ぶということですね。神を理解するために努力していくこと、それが大自然に学ぶという意味です。「正しい見解」すなわち「正見」こそが「正しさの基準」なのだと思います。
八正道のスタートである「正見」こそが、残りの七つの正しい道のカギになっているのであります。「正しく見る」ことができなければ、当然「正しさの基準」もわかりません。だから、八正道自体ができなくなってしまいます。
ただお釈迦様や高橋先生のように、自然から直接学ぶというのは、なかなか難しいものです。だから、はじめは、やはり偉人の説く教えというものを「正しさの基準」にするのが良いと思います。
そしてある程度、これだというものをつかんだら、次は「大宇宙の法則」、「大自然の教え」を読み取る努力も大切になってくると思います。
大自然の教えで重要なのは、たとえば、
●原因・結果の法則(縁起の理法)、作用・反作用の法則
●循環の法則(転生輪廻)
●慣性の法則(カルマ、魂の傾向性)
●波長同通の法則(類は類をもって集まる)
などで、こうした見解を下敷きにして、ものごとを正しく見ていくことだと思います。
また、日常の出来事を正しく見ることも大切な修行です。ポイントは、善意の第三者の立場にたって、見ること。まず自分の立場、次に相手の立場、そして第三者的に見る。神ならばどのように見るだろうかと考えてみる。
②正しく思う
次は「正思」です。これは「正見」に基づく「思い」であります。つまり、神の心にかなう思いを発していこうということです。
具体的には、
①愚かであるな。正しい見解に基づいてものごとを考えなさい。
②むさぼりの心、自我我欲を捨てなさい。足ることを知りなさい。
③怒るな。怒りは、自己保存・自我我欲から来る。自己中心を捨てなさい。
③正しく語る
「正語」。同様です。「正見」に基づいて「語る」ということです。
具体的には、
④ウソをつくな。
⑤悪口を言うな。
⑥二枚舌を使うな。
⑦上辺を飾るような言葉は使うな。
「巧言令色すくなし仁」と申します。言葉のテクニックよりも、言葉に真心、愛念を込めることが大切だと思います。そうした心のこもった言葉を「言霊」と言います。「言葉は神である」という教えもあります。そして、「一億円を手に入れました。どうもありがとうございます」と、繰り返し念じ続けたら、現実化するとかいって、そんなことを毎日やっている人々もいるようです。
しかし、こうした小手先のテクニックで、己の心を汚してはならないと思うのです。私たちは、愛のこもった言葉によって、この世に調和を築き上げていくことが大切なのではないでしょうか。言葉の創化力を、己の私利私欲のために利用してはいけないと思うのです。
④正しく仕事をする
「正業」とは、「正見」に基づく「正しい行い」です。
具体的には
⑧殺すな。
⑨盗むな。
⑩不倫するな。
①番~⑩番は、「十善戒」といいます。しかし、こうした戒めも、教条主義となってはいけません。パリサイ人になってはならないのです。ウソをつくなというけれど、ウソも方便といいます。
「殺すな」というけれど、じゃ、板前さんはどうなるの?魚や肉をパクパク食べている日本人の9割が、八正道なんて不可能です(^^;。思っただけでも「姦淫」したことになるのなら、男は、ほぼ全員、八正道は、難しい。
あまりにもガチガチに型にはめてしまうと、身動きが取れなくなってしまって、おおらかさのない、面白みのない人間になってしまう。そんな人間ばかりにするのが八正道の目的ではないと思うのです。
しかし、実際のところ、こうした部分で悩んでいるかたが多いと思います。八正道は難しすぎる・・・・・・、という意見ですね。これは本当にそうだなと思います。僕もまったくできていません。だから、自分ができそうな八正道にアレンジして、とりあえずこのレベルを目指そう!、というやり方にしています。それでいいと思うのです。
※大和用簡単八正道
正見 正思 正語 正業 正命 正進 正念 正定 補足
難しいから、「もう止めた」と諦めるより、できる範囲でやってみるほうがいいのですよね。完璧主義者になって、挫折するよりも、6割7割主義者で、ボチボチ進むほうが、かえって遠くまで進むことになるのではないかと思います。
あと、高橋信次先生は、現代的な解釈で、「正業」を「正しく仕事をする」という意味にとらえています。八正道は、本来、出家者に対する教えなので、「仕事をする」という発想がなかったはずです。だから、ここは、たぶんアレンジされたのだと思います。もしかしたら原始仏教では「正しく仕事をする」が正解なのかもしれませんが・・・・・・。
「正しく仕事をする」、これは、簡単に解釈できそうで、実は非常に難しいテーマだと思います。実社会で働いている人なら、御わかりになることだと思います。僕は、仕事というものに対する社会通念自体が、とても歪んでいると思っています。だから、本格的に反省をするとしたら、七転八倒の苦しみになると思います(^^;。
非常に極端な例ですが、就職した会社が、実は、暴力団系の会社だったとします。で、ここで、一所懸命仕事に励んで、利益を出せば出すほど、暴力団が潤って行くのですね(^^;。これは非常に矛盾しています。正しい仕事をしているけれど、結果的には、暴力団の勢力を大きくしてしまうのですから。こうした場合の反省は難しいと思います。
今の会社組織は、「利益追求」が至上原理となっているので、仕事も、その原理にそったものが正しい仕事のあり方だと考えられていると思います。しかし、僕は、それは正法から見て、必ずしも正しい仕事のあり方だと思えないのです。「利益追求」に走ると、結局は、合理化、効率化、そして、会社間のサバイバル・ゲームです。
これは戦国時代と同じですね。刀や銃といった武器が、お金や情報に変わっただけです。会社の社長は、一国の主で、絶対的権力者です。従業員は歩兵です。
真っ先に討ち死にするのは、最前線の歩兵です。こうした構図を見ていると、これで本当にいいのだろうか?と思ってしまいます。「心」不在ではないかなと思うのです。ま、斜めから見ているといわれれば、それまでですが(^^;。
さて、正法的にみると、仕事には三つの目的がある。
①職業を通して己の魂の経験をより豊かにし、広い心を養う。
②職業を通して、人々の調和をはかること。
③奉仕の精神。感謝と報恩行。
ま、これは「人生の目的と使命」と同じ事ですね。魂修行をユートピア建設です。反省する時には、この目的を基準にするのが良いと思います。
⑤正しく生きる
「正命」とは「正しく生きる」、「正しく生活する」ことです。
オーソドックスな解釈では、「正思」「正語」「正業」の一致、調和です。これは、「思い」と「言葉」と「行い」を正しくして、なおかつ一致させた総合的な日常の生き方です。
高橋先生の解釈は、「人生の目的と使命」という観点からとらえています。人が生きる目的は「魂修行」と「ユートピア建設」。そのためには、まず自分自身の「カルマ」の修正が大切である。勇気をもって、短所を修正し、長所を伸ばしていく。そうした努力を続けていれば、やがて自分自身の心が調和され、ひいては周囲も調和されていくことになる。
安らぎの境地、執着からの開放、感謝の生活、足ることを知った生活。こうした日常の生き方、生活が「正命」だということです。
非常に漠然としていますが、的を絞るならば、「正命」とは
①カルマの修正。短所を修正し長所を伸ばす。自分自身の調和。
②日常生活での愛の実践。
⑥正しく道に精進する
「正進」とは「正しく道に精進する」こと。
これは、正しい努力のことです。
①今後、悪を行わないように努力する。
②今の悪を捨て、今後、止めるように努力する。
③今後、善を行うように努力する。
④今の善を持続し、今後、さらに拡大していく努力をする。
高橋信次先生は、例のごとく、魂修行とユートピア建設という「人生の目的と使命」に邁進したか?という風にとらえています。
ユートピア建設とは、要するに、「人間関係の調和」なのですね。人間関係の調和を目指して努力することが、結局は己の魂を磨くことになるのです。「自利」即「利他」であります。
つまり、ユートピア建設、世界平和のためには、各国が、それぞれ立派な国でなければならない。そのためには、まず母国が立派でなければならない。母国を立派にするには、地域社会それぞれに調和されていなければならない。そしてそのためには、各家庭の調和が大切だ。そして各家庭が調和されるには、まず、何よりも己自身の自己確立が大切である、ということです。
「正進」の目的は、
①人の道、神の道を具現していくこと。人間関係の調和です。
②動物、植物、鉱物資源を整備し活用していくこと。資源を無駄にせず、大切に使うこと。
「正しく仕事する」「正しく生きる」「正しく道に精進する」の三つは、結局「人生の目的と使命」という観点で、高橋先生は考えておられたようです。というか、どんなことでも「人生の目的と使命」から考えれば、どうするべきかが見えてくるということですね(^^;。
⑦正しく念じる
「正念」とは「正しく念じる」ことです。
本来は「神仏の教えを心に刻み、忘れないこと」。
高橋信次先生は、「念」を「願望」という意味でとらえているようです。自己実現ですね。だから、念の目的意識に注意せよということです。「念い」には創造力があります。「思考は現実化する」法則です。この法則の恐ろしい点は、目的意識の正邪を問わず、ただ機械的に「念」を現実化していこうとするところです。
「正念」とは、
①目的意識を正しくすること。正念のあり方は、愛と調和にある。
②常に、「念い」を神仏のほうに向けておくこと。
⑧正しく定にいる
「正定」とは「正しく定にいる」こと。
「定」とは、瞑想とか禅定のことです。精神統一といってもいいと思います。座法とか呼吸法といったテクニックもあるのですが、それらは非常に重要なものですが、それでも所詮は枝葉であります。
「正定」の入り口は、「反省」です。これが根本になっていくのです。それを忘れて、呼吸法だの、結跏趺坐がどうのこうのと、形ばかり真似ていても駄目なのです。
反省による心の浄化をスッ飛ばして、無念無想などを目指していると、魑魅魍魎のたぐいが忍び寄ってきて、その人の心を支配しようとするのです。ちょっと耳元でささやくと、喜ぶのを知っているのですね、地獄霊や動物霊たちは。
「我は、イザナギの命である」などとやると、もうコロっとなってくれる(^^;。「うわ、神がかかってきた!我、悟れり」となってしまう。違うのですね(^^;。
これは禅宗では、「魔境」といって、よくあることなのです。こんなので舞い上がっていると和尚さんに張り飛ばされます。でも、独習で、瞑想をやっている人は、もう「宇宙即我」を体験した気持ちになってしまうのですね。恐ろしいことです。「反省」という心の浄化を行わず、いたずらに霊現象を求めているから、このようなことになります。
地獄霊たちは「反省」のこころが嫌いなのです。反省している人には近づきにくいのです。だから、独習のかたは、まず反省から入るべきなのです。「クンダリーニがどうだこうだ、チャクラがああだこうだ」、そんなことはどうでもいいのですね(^^;。まず「反省的瞑想」から始めましょう。
正定の目的、
①まずは反省的瞑想(※禅定)から。やがて、守護・指導霊との対話。そして慈悲と愛の行為ができるようになること。
②禅定の心が、そのまま日常生活に生かされていくこと。