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愛の時代 その2 00096>メインページへ 20060409 00096 愛の時代 その2
愛の本質
愛の本質は、太陽の姿にある。それは、すべての存在に対して、惜しみなく与え続ける姿勢です。善人であろうが、悪人であろうが、権力者であろうが、虐げられている人々であろうが、金持ちであろうが、貧乏であろうが、動物であろうが、植物であろうが、鉱物であろうが、そんなことには一切頓着せず、ただひたすらに光を放ち続ける姿。これが愛の本質です。
愛の本質とは、「与える」というところにあるのです。「愛されたい」じゃなくて「愛していく」こと。それが愛の本質。そしてあの太陽の姿は、究極の愛の姿なのです。一切の見返りを求めず、すべてに対して、与え続けていく姿勢、これが究極の愛の姿です。
そこには、何の気取りも、何のてらいもない。また、認めて欲しい、評価して欲しいとか、褒めて欲しい、崇拝して欲しいとか、そんな気持ちもまったくありません。こうした愛のことを「存在の愛」といいます。
イエス様やお釈迦様の教えを、もし一言で言うとするならば、 「太陽の姿に学びなさい」ということができるかもしれません。あの太陽の姿こそが、人間のお手本になっている。しかし、「与えよ、与えよ」というけれど、愛を与え続けるばかりで、少しも誰からも、もらわないでいるというのは、どうも損した気がする。釈然としない。納得いかない。・・・これが正直な気持ちではないでしょうか。
しかし、本当に誰からも何も、もらっていないでしょうか? 空気はどうでしょうか? 水はどうでしょうか? 大地はどうでしょうか? 太陽の光はどうでしょうか? これらを無料で使用できることが、本当にあたりまえのことだといえるでしょうか?
こうした恵みは、実は神様からのプレゼントなのですね。私たちは、神様からまったく無条件で愛されているのです。この大宇宙の存在そのものが、愛と慈悲の塊なのです。私たちは、生きていくのに必要なものをすべてを、もうすでに神様から、与えられているのではないでしょうか?
神様は、一円たりとも請求してきませんから、私たちは、水や空気は価値のないものと思いがちです。しかし、本当にそうだろうか?水や空気ほど価値あるものは、本当はないのではないか。
もし空気とダイヤモンドのどちらかを選べと迫られたとしたら、どうでしょうか?空気はただです。ダイヤモンドは一億円です。でもどちらか一つだけ選ぶとなった場合、ダイヤモンドを選ぶ人がいるでしょうか?こうしたときに、本当の価値が見えてくるのです。
神様は、生物の生存に必要な、大切なものを、まったくの無料で人間に提供してくださっているのです。これが神様の心なのです。これが愛と慈悲の塊というのです。
私たちは、このことを本当に、深く深く考える必要があると思うのです。私たちは、もう既に、神様に愛し抜かれているということなのですね。私たちは、神様からもらってばかりなのです。もらい続けてきたのです。
「愛を与えるのは、どうも損した気分になる」こうした気持ちは誰もが持っているのですが、よくよく考えたら、私たちは、神様から愛をもらっているばかりなのです。そのことを忘れてしまっているのではないでしょうか?
私たちは、まず何よりも、この神様の恵みに対して感謝するべきではないでしょうか。まず、このことに気づくことなく、「愛の本質」に気づくことはできないのであります。感謝ということが、理解できないとき、「愛」ということもまた理解できないものなのです。
この簡単な真理が、本当に腑に落ちた時、人は、神の大いなる愛に感謝せざるを得なくなってくるはずであります。この感謝の思いが湧き出てこない限り、愛の謎は、決して解けないのであります。
「感謝」、「ありがたいと思う気持ち」、これが心の底から湧き出てきた時、その人は、どうなっていくでしょうか?その感謝の気持ちが本物であるのならば、その人は必ず恩返しして行きたいという気持ちに目覚めていくのではないでしょうか。
単に「ありがとうございます」という言葉だけの感謝、これも感謝ではありますが、まだまだ浅いものではないかと思います。本当に感謝の思いが深くなれば、人は必ず、恩返しという行動を起していくはずです。
お世話になった人には、誰もが皆、感謝します。しかし、一番お世話になっている地球や太陽や神様に感謝している人は、意外に少ないのです。これは、あまりにも愛が大きすぎて見えないのですね。不思議なことですが、あまりにも豊富に与えられると、そこに価値を見出すことができなくなっていくのです。
もし、神様が、水や空気を人間の生存にギリギリの分量だけ、もったいぶって、小出しに与えたとします。すると希少価値が生じるのですね。たとえば、日本は、水が豊富なので、それほど価値を感じている人はいないのです。ところが、砂漠地方では、「水」というのは、命綱ですね。大変貴重なものです。
しかし、神様は、もったいつけて小出しにするような、そんなけちなマネはしないのです。もう、使い切れないぐらい与えてくださっている。ところが、人間というのは愚かなもので、小出しに与えてくれたほうが価値観を感じ、「ありがたい。ありがたい」と感謝するのです。本当は、豊富に与えてくれていることに感謝しなければならないのです。
たとえば、地球の全貌を眺めるためには、地球から遠く離れなければ見えないのです。地上にいるときは、地球があまりにも大きすぎて、地球の姿の本当の姿が見えていないものなのです。最も近くにいるのに、かえってそのものの本質が、わからなくなってしまうことがあるのです。
水などもそうです。日本から遠く離れて、砂漠に行ったとき、初めて水のありがたさが見えてくるのです。
神の愛もそうなのです。あまりも大きすぎて、あまりにも豊富すぎて、かえって見えないものなのです。しかし、見えないからといって、神の愛が、存在していないというわけではないのであります。ただ、私たちが気づけないだけです。
そして、「そんなものは無いよ。神仏などない。俺は俺の力で生きてる」と思い込んでいるのです。こうした思い上がりの気持ちでいるあいだは、愛の本質は、絶対に見えてこないのです。
本当に神の大いなる愛を感じ、その大きさ深さに圧倒され、心の底から感謝の思いがあふれ出てきた時、人は、恩に報いる行為、すなわち報恩行という実際の行動を起したくなってくるのです。
しかし、私たちは、神様に感謝はできても、神様に何かを、お返しするということはできません。神様は、すべてを持っておられるから、何も必要としていないからです。神様は、人間の感謝の気持ちだけで、十分お喜びになっておられることでしょう。
でも、感謝するだけでは、もう、この溢れ出る感謝の気持ちは、おさまらない!こうした時に、はじめて、「愛の本質」が「与える」ことであると、わかってくるのです。そうです、その感謝の気持ちを愛に変えて、誰かに贈りたくなってくる、捧げたくなってくるものなのです。
愛の循環
偉い人から立派なお説教を聞いて、「そうか、愛とは与えることか。よくわかった」なんてものじゃないのですね。本当にわかるということは、そんな、言葉だけの世界ではないのです。問題意識を持って、真剣に考え、行動し、疑問が出たら、その謎を追究し、解明していく中で、ようやく、本当にわかってくるものなのです。
単に読書をしたり、講演会やセミナーに参加しているだけでは、絶対に、本当のことは見えてこないものです。学んだことを、実生活で応用していく過程で、はじめて「疑問」が浮かび上がってくるのです。この切羽詰った「疑問」の答えを求め続けていく。これが本当の魂の「学び」となっていくのです。「学び」とは、本を読むだけではないのです。ノートに写すだけが学びではない。
「知」と「行」を、分けて考えてはいけないのです。それは本来、一体のものです。行いのともなわない知識は、死物です。知の裏打ちのない行いも、破壊をもたらします。「知行合一」して、本当の「知」となり、「行い」となるのです。そこまでたどり着くまでには、いくつもの「疑問」が浮かび上がってくるはずです。「疑問」がまったく、浮かび上がって来ないような学びは、本当の学びではない。
そういうのは、単に暗記しているだけです。洗脳と同じです。そんなものは学びではないのです。「わからないことは何か?」、このことがわかることを、本当にわかるというのです。本当にわかるとは、わかることとわからないことの区別がついていることなのです。
そして、わからないことについては探究を続けていく。これが本当の学びであります。一日30分間、機械的に読書するのが学びだと勘違いしてはならないのです。
「愛の本質」の理解も、まず、私たちが、既に神様から、無限の富を与えられていることに気づくことから始まるものです。そして、神様の愛と慈悲に対して、本当に感謝できるような心境となった時、はじめて、神様から与えられた愛を「循環」させていくことが、本当の報恩行であることに気づくのです。それを「与える愛」というのです。理論理屈じゃないのですね。
私たちは、神様から、もう、どうあがいても、お返しすることができないほどの愛をいただいているのです。しかも、神様はすべてを持っておられるかただから、こちらからは、何一つお返しすることができない。だから「あの太陽の姿に学びなさい」ということなのですね。
神様の御心を代弁すると・・・・・・(^^;
愛の目的
「愛に敵なし」といいます。それは、愛が、ケンカに強いとかいった意味ではない。愛は、すべての人々と手をつなぎ合わそうとするもの。愛は、結びつけ、育んでいく力。愛とは、お互いに手を取り合って、その力を二倍三倍に増幅させていく不思議な力。愛は、すべての人々を仲間だと信じること。
愛の目的とは、お互いが手を取り合って、新しい価値を生み出していくこと。お互いが手を取り合って、励ましあい、共に山の頂上を目指して進むことなのです。
本当に、こうした心境となった時、一体どこに敵がいるというのでしょうか。これが「愛に敵なし」という意味です。
こうした考えは、愛をまったく理解していないのです。愛の力の根拠は、「自他一体の真理」にあるのです。自他一体とは、「あなたと私は、別々の存在に見えても、心の奥底でつながっていて、本当は一体なのです」という真理です。
遠い昔、宇宙のある場所で、偉大なる神霊が、その光が散乱させて、個性ある光が無数に生まれたのです。それは、まるでステンドグラスが砕け散ったような感じです。どれを取って見ても、同じ破片というのは、ひとつもない。どの破片も個性的で美しい光を放っているのです。この散乱した光こそが人間なのです。
人間はみな神の子なのです。本来は一つのものだったのです。「自他は一体、ともに神の子、兄弟なり」という言葉は、真実なのです。
これが愛の力の根拠となっているのです。愛とは、別々に、わかれたものたちが、再び結びつこうとする力なのです。「自」と「他」は、別々に見えるけれど、それは、表面的な見方にしか過ぎない。神の光が散乱して、バラバラになったように見えるかもしれないが、実はつながっているのです。すべての個性ある光の破片(※人間)達は、「霊子線」というコードで、神様につながっているのです。
すべては神と一体であるということです。「自」も「他」もない。すべて一体である。もともと一つのものから、分かれて、それらがまた、元の場所へ帰ろうとしている。結び合おうとしている。これが「愛」なのです。
愛とは、結び合おうとする力、そして、結ばれた時に、また新しいもの生み出されていくのです。男女が結ばれると、新しい生命が生み出されることからもわかるように、結びの力、愛の力とは、新しいものを創造する力なのです。
紐を結ぶと、結び目が生まれます。これが結びの創造力です。結ぶことで、何かが、新たに生み出されていくのです。破壊とか闘争とか、そうしたものが入り込む余地など一切無いのです。愛は、調和であり、創造であります。本当の愛ならば、破壊的なものとは、一切関係がありません。
たとえ、相手がサタンであろうとも、征伐しようなどと思うことは、間違っているのです。「愛の精神」を忘れてはならないのです。神様は、サタンたちを、そのような裁きの目では、見ていないのです。
エル・ランティーもイエス様もミカエル天使長も、かつての仲間であるルシフェルに、いつだって天上の世界に戻ってきて欲しいと祈っているのです。「ルシフェルよ、どうか早くこちらに戻ってきなさい。私が、真っ先にあなたを抱きしめてあげよう。」、これが天使たちの共通の願いなのです。
彼を責めるのは簡単であります。彼の非を暴き立てるのも簡単であります。彼の悪を証明することもたやすいでしょう。しかし、そんな理論理屈で何が変わるというのでしょうか?そんな理想論だけで、悪を一掃できるのなら、地獄の解消など簡単なことでしょう。しかし、現実は、そんな甘いものではない。
なぜでしょうか?それはこういうことだと思います。正義ぶっている我々が、本当に正義なのか、どうか?ですね。これを、よくよく考えてみる必要があるのです。 「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(イエス・キリスト)、ということです。
サタンを責める前に、まず己を省みる必要があるのではないか。私たちが、完璧な人間ならば、サタンを叱責することも許されるでしょう。で、どうでしょうか?私たちは一点の過ちも無い人間でしょうか。
サタンの悪が、1000点として、私の悪が100点だったとするならば、そんなものは五十歩百歩であります。私には、サタンに偉そうなことを言う資格などないということです。なのに、正義漢ぶって、偉そうなことをいうのは、非常にみっともないことです。罪を犯したことのない人など、いまだかつて一人もいないのです。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」!、(イエス・キリスト)であります。
こうした有名な道歌があります。まったくその通りなのです。
相手がサタンに見えるのは、己の心にもサタンが潜んでいるからなのです。己にそうした醜い心が、隠されているのに、それを反省することもなく、他人ばかりを批判して、有頂天になっている。そんなことを、いつまでもいつまでも、繰返しているから、争いが絶えない。
己を反省した時、はじめて、己の悪に気づくものです。己の間違いの数々に気づくものなのです。心が、外側の悪ばかり見つめている時は、己の内側の悪に気づくことができないのです。己の心を振り返った時、己の心の醜さにあきれ果てるのです。
己の悪、己の醜い心に、気づいた者は、もう他人に厳しくは、なれないのです。それでもまだ、自分に甘く、他人に厳しいのであるのならば、その人は、サタン以上の悪魔だといっても過言ではないでしょう。普通は、自分が過ち多き人間だと気づいたなら、人の過ちにも寛容になるものです。それは、自分の過ちも許して欲しいという気持ちが出てくるからです。「許し」の根源は、こうしたところにあると思います。
許す愛
「許し」とは、己が正しくて、相手が間違っていて、「ま、許してあげよう」なんてものではないと思います。そういうのは傲慢ですね。自分も許されたいから、人を裁く気になれない。一般論ですが、こうした後悔の思い、自責の念が、「人を許すということ」の根源となっていると思われるのです。
だから、本当に人を許していくためには、まず自分の心を省みることから始めなければならないのです。自分の心を省みて、何の罪もない完璧な人間は、おそらく誰をも許すことができないでしょう。
しかし、そんな完璧な人間は、一人とていないのです。己にも色々な過ちがあるからこそ、人の過ちに対しても、なぜ彼は、そうした過ちをおかしたのだろうか?と理解しようとする気持ちになることができるのです。そして、その理由が洞察できたとき、初めて、彼に対する同情と寛容の心が、生まれてくるのです。
まったくこの通りだと思うのです。人を責める正当な理由は、おそらく幾らでもあることでしょう。イエス様やお釈迦様でも、責めようと思えば責めることが出来る。
ま、こういう感じで、揚げ足を取るつもりなら何とでもいえるのですね(^^;。
正論かもしれない。その件に関しては、100%私たちが正しいかもしれない。
しかし、その前に、己が他人を責めることができるほど、立派な人間かどうか?それをまず考えたほうがいい。本当にイエス様やお釈迦様を批判できるほどの立派な人間かどうか?もし己を、それに値する立派な人間だと思える人は、ハッキリいって立派でも何でもない。そんな人に他人を責める資格も権利もない。
では、己が立派でないと思ったなら、どうするか。それでもまだ、責めようとするか?もしそうならば、その人もたいしたことはない。己の間違いには甘く、他人の間違いには敏感で、それを責めてばかりいるような人間は、ハッキリ言って話にならない。
結局私たちは、立派な人間であろうと、なかろうと、そんなことに関係なく、人を裁いたりするのは、止めたほうがいいのですね。そういう「自分に甘く、人に厳しい」生き方は、自分の人間としての「格」を落としていく生き方なのです。
「自分に厳しく、人にやさしい」生き方。これを心掛けるべきなのです。こうした生き方が、徳を積む生き方です。これは貯金と同じなのです。ドンドンたまっていきます。イエス様は、天に富を積みなさいと言いました。それは、要するに「自分に厳しく、人にやさしく」生きて行きなさい、ということなのです。こうした生き方が、己の心を豊かにしていく生き方なのです。天の倉に富を積むということは、己の心を豊かにしていきなさいという意味と同じことなのですね。
「神は愛」であるのならば、人も愛を旨として生きるべきなのです。愛という言葉がわからないのなら、こう言い換えてもいいと思います。「人にやさしくあれ」ということです。人に厳しくしたり、怒ったり、憎んだり、怨んだり、責めたり、暴力をふるったり、脅したり、こうしたことは、すべて愛に反する「思い」であり「行い」であります。それは結局、神の愛を踏みにじり、己の本当の心を偽る「思い」と「行い」です。本当の自分自身の心に正直に生きるべきなのです。
私たちは、「人を許すということ」を学んでいく必要がある。そして「人を許すということ」の最終の目標は、「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈る」段階であります。これが、私たちの目指すべき段階であります。
愛にも段階があるのですね。「太陽の愛」、「存在の愛」、これは至高の愛です。ここまで己の愛を高めていくのは容易ではないのです。こういう愛は、仏教的には、仏の「慈悲」といいます。八次元如来界の愛です。一応目標とすべき段階の愛ですが、やはりその前にクリアしなければならない段階というものがあるのです。
それが「敵を許し愛する」段階です。こうした段階を「許す愛」といいます。これは七次元菩薩界の愛です。己を傷つけようとする相手ですら、愛して行こうとする段階。これが菩薩です。この段階を超えるのは、相当難しいと思います。しかしこれを超えなければ、如来の悟りは見えてこないのです。
「愛」と「悟り」は対応している
巷の宗教家の中には、自称「メシア」、自称「如来」のかたが数多くいます。その人たちを冷静に観察すれば、すぐにわかります。
彼は、「大きな愛」を説いていますが、ちょっとでも批判されると、もうカンカンになって怒ってしまいます。こういうのは、菩薩の段階にすら達していないのですね(^^;。口先だけです。僕は、彼らが気の毒で仕方がない。というのは、「悟り」に関してウソをつくことほど、恐ろしいことはないからです。菩薩の段階にも満たないのに、如来を僭称してしまうと、ものすごく大きな反作用があるのですね。
ましてメシアを僭称したとなると、これはもうエグイことになるそうです。ま、「飯屋(めしや)」なら、うまいかもしれませんが、メシアを僭称すると非常にまずい。それは実在界の基準では、神の声を間違って伝えるということは、殺人や強盗以上の凶悪犯罪だからです。メシアを名乗って、間違った教えを説いた者は、あの世の無間地獄に落ちていくのです。地獄の最深部であります。なぜ、そこまで落ちるか?
それは、その教えを信じた人々の魂をくさらせてしまうからです。殺人犯は、肉体生命を奪いますが、人の魂まで殺すことはできないのです。しかし、宗教指導者の間違った教えは、その人の肉体を殺すことはないけれど、人の本質である魂を、間違った教義で縛り付けてしまうのです。そうした間違った教えを奉じて、一所懸命生きた人は、一所懸命生きたにもかかわらず、地獄へ落ちていきます。間違った教えが魂を曇らせてしまっているからです。非常に厳しい結末です。
この悲惨な結果の責任は、間違った宗教指導者にあるのですね。そして、人々の魂をくさらせる教えを説いた罪は、あの世では、最も重い罪であって、来世、教祖を待っているのは無間地獄なのです。無間地獄の苦しみについては考えたくないですね(^^;。
ニーチェやヒトラーなどのように、思想的に人々を狂わせてしまった人たちは、無間地獄で考えたくもないような苦痛の中で、のた打ち回っているそうです。深い闇の中、ヘドロのような沼の中で、重い鉄球を鎖でぶら下げられて、悶えているそうです。憐れという以外に言葉がありません。
ダーウィンという人は、善人であるにもかかわらず、多くの人々を無神論に導いてしまったので、現在、無情にも無間地獄で、反省の日々を送っているそうです。これほど厳しいのですね。
間違った思想や言論を発表して、多くの人々の魂を迷わせてしまうと、無間地獄に落ちてしまうのです。たとえ善意の気持ちから、無神論や唯物論を薦めていたとしても、その被害の程度によっては、最悪の場合、無間地獄に落ちていくことになるのです。
この世で、「先生、先生」「グル、グル」と呼ばれ、信者の金を巻き上げて、いい家に住んで、いい服着て、いい車乗って、女性信者をだまくらかして、「春じゃ、春じゃ」と有頂天になっていても、あの世で待っているのが無間地獄ならば、わりにあわないです。
しかも、教祖さんの場合、自分の間違いや罪をすべて反省しても、地獄から抜け出すことができません。通常の地獄霊は、反省すれば天上界に帰っていくことができるのです。
ところが、教祖さんだけは、無理だそうです。その理由は、二代目三代目の教祖が、地上でドンドン信者を作っていくからです。そして間違った教義で、信者を次から次へ落としていくのですね。被害が拡大していくのです。教えが、広まれば広まるほど、地獄から出られなくなっていくのです。
こうした責任は、元はと言えば、すべて、初代教祖さん自身の教えの間違いにあるのです。だから、それが原因で起こった、すべての悲劇の収拾がつくまで、教祖さんは絶対に天上界に戻ることはできないのです。
その教えにかかわった人たち全員が、成仏する日まで、全員の恨みが消えるまで、無理なのです。あの世で、「二代目よ、もう広めないでくれ」と泣き叫んでも、二代目は、ドンドン広げようと頑張っています。間違った宗教というのは、これぐらい悲惨な結果を招くものなのです。
こうした悲劇が今までに何度も起こってきているからこそ、「悟りに関しては、絶対にウソをつくな」という教えがあるのです。これは生半可な教えではないのです。簡単に考えてはならないことなのです。影響力のある人ほど、口を慎まなければならないのです。一言一句に、多くの人々の運命がかかっているからです。その自覚なく適当なことをベラベラしゃべるようになってしまったら、後が大変ことになっていくのです。
脱線しましたが、これは非常に大切なことなので、何度でも繰返していきたいと思っています。「悟り」とは、そんな簡単なものではないのです。自分の判断で簡単に、「如来」や「大天使」や「メシア」になってしまってはいけないのです(^^;。本当に立派なら、自分からわざわざ名乗らなくても、わかる人はわかってくれるのです。霊道が開いたぐらいで有頂天になってしまっては、もうお話にならないのですね。
まず、「汝の敵を愛せ、迫害する者のために祈れ」、これが出来てから、ゴタクを並べたらいいわけであって、これができてもいないのに、「光の天使」を気取ってはいけないのです。それは自分自身に対してウソをつく行為です。「光の天使」のことを菩薩(ボサツ)といいます。でも自称「光の天使」さんは、ボサツというより、ボサーッとしてるだけなのですね。
ま、このように「愛」と「悟り」は、同じものなのです。対応しているのです。愛の段階が八次元で、悟りの段階が六次元なんてことはないのです。愛が八次元の人は、悟りも八次元です。六次元の「悟り」の人の「愛」は、やはり六次元的な「愛」なのです。「如来だ」、「メシアだ」というのなら、その教祖の愛の段階は、「存在の愛」であるはずなのです。
まず、冷静になって、その教祖さんの「愛の段階」を見抜くことです。敵を、許し、愛してるかどうか?これが、本当に出来ている教祖さんならば、「存在の愛」の境地に入っている可能性があります。しかし、すぐに信者たちを脅しつけたり、対立する団体の悪口ばかりいっているような教祖さんからは、即、離れることです。それは、偽者なのです。 Comments (4)
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