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愛の時代 その3 00098>メインページへ 20060415 00098 愛の時代 その3
調和と進化
大自然の姿を見ていると、神様の心は「調和」にあるということに気づくと思います。「調和」とは、「ほどよくバランスが取れている」という意味です。たとえば昼と夜のバランス。男女のバランス。空気の成分のバランス。肉食動物と草食動物のバランス。どこを見ても、「調和」されているのです。この調和を乱すものは、人間のみであります。もし、人間が極端なことをしなければ、地球の環境は、末永く調和を保っていくことでしょう。
そして、もう一つ大切なのは、神の御心は、「進化」にあります。神には、「平等」と「公平」という二つの世界観があるのです。そして「公平」という世界観からわかることですが、神様は「進化」というものを認めておられるのです。「公平」とは、各人の努力を認め、その努力に応じた評価と報酬を与えるということです。その評価と報酬が、「進化」となってあらわれているのです。
で、「調和」と「進化」、一体どちらが、より大切なのでしょうか? これは、やはり「調和」のほうなのですね。これは非常に重要な点なので、肝に銘じておく必要があると思います。
「進化・発展」とは、「大調和」という神様の御心にかなった方向性においてのみ、許されるのであります。表裏一体なのです。表裏一体でありますが、「大調和」が優先されるのです。つまり、調和を乱す方向での「進化・発展」というものは、本当は許されていないのですね。神様の御心に反しているのです。許されてはいないけど、神様は、人間に自由意志を与えておりますので、黙認されておられるようです。
究極の目的は、「大調和」にあるのです。そして、そこまで進んでいく過程のことを、真の意味での「進化」というのです。たとえば、科学技術。これによって、核兵器が生み出されました。さて、これは科学技術の「進化」と呼べるかどうか?ということです。今の世の中の価値観では、こうした武器の殺傷力が増大していくことも、科学技術の「進化」と考えているのかもしれません。
しかし、それは違うのです。心を失った科学というものは、いくら科学者たちが「進化した、進化した!バンザイ!バンザイ!」と自画自賛したところで、神様は認めていないのです。それは、核兵器は、破壊のための武器だからです。それは、科学技術が、不調和に向かって進んでいる姿なのです。「進化」とは、「大調和」に向かって進むものであるのですから、武器や兵器の性能が、高まっていくことは、神様の目より見たとき、退歩しているといえるのです。
資本主義社会は、「競争の原理」によって、「進化・発展」してきたと考えられています。しかし、これも「大調和」に向かっているかどうか?という視点で、判断しなければならないのです。ある企業が、巨大になっていくことが、必ずしも「進化・発展」とはいえないのです。その企業が、大きくなっていくことで、「大調和」に向かっている場合のみ、「進化・発展」といってよいのです。
もし、その企業が大きくなることで、周囲が大混乱しているようならば、それは、「進化」でも「発展」でも何でもない。これは、企業のエゴ、自我我欲が、優先されるから、周囲を不調和にしてしまうのです。こうした企業は、神様の目から見たとき、明らかに間違っているのです。しかし、企業内部では、「発展した。進歩した。」と浮かれています。大変な間違いです。
現代社会では、「調和」よりも「進化」のほうが、重視されてしまっているのですね。ここが間違っているのです。なによりも「大調和」こそが、目標です。その目標に向かって進むことが、「進化・発展」なのです。「進化・発展」は、目的というよりも、大調和に向かって、努力することによって、副次的に生まれてくるものだと思うのです。
ところが、「調和」という目標を捨ててしまって、「進化・発展」だけを、ありがたがっているのです。そして「進化・発展」が、あたかも目標であるかのようにスリカエてしまっているのです。
だから、いろんなものが、「発展」すれば「発展」するほど、「進化」すれば「進化」するほど、社会が乱れていくのです。不調和になっていきます。このことに人びとは気づく必要があるのです。
今の世の中は、突き詰めると「金儲け」とか「名誉欲」が、すべての基準になってしまっています。金が増えていくことが「進化・発展」の基準となっている。数字です。金額は、数値化できるので、目標とするのに都合がいいのです。
欲に目がくらんだ人びとが、「利益」の追求を正当化するために、神の御心を、己の都合のいいように微妙にスリカエてきたのですね。「成功哲学」などは、本当にきわどいものだと思います。根本に自我我欲が、見え隠れしていると思います。ああいう哲学で成功できる人は、非常に欲望の強い人たちです。人を押しのけてでも成功したい人たちなのです。
そして、そうした成功者を「勝ち組み」とかいって、賛美する人が多いので、あたかも正当な哲学であるようなイメージができあがってしまったのです。
数値という名の現代のバアル信仰です。流行り神です。こうした哲学の間違っている部分は、やはり、打ち砕いていかなければならない。ユートピア社会というのは、「大調和」の社会のことです。でも、人びとは、「調和」よりも、「利益」の追求のほうを最優先してしまっているのです。
「大調和」という本来の目的をそっちのけにして、副次的な産物である「進化・発展」、「利益増大」を最終目標にスリカエてしまっているということです。「進化・発展」というと、聞こえがいいけれど、要するに「物欲」とか「名誉欲」が、何よりも優先しているってことです。
地球の環境よりも、周囲との調和よりも、ただ、今、自分たちさえ、物質的に潤い、周囲からチヤホヤされていれば、それで最高だと思っているのです。
そもそも、「調和」とは、何か?「調和」とは、それぞれが感謝し合っている状態であります。それぞれが「分」をわきまえ、でしゃばっていない状態。秩序ある状態。それぞれが程よくバランスが取れた状態。要するに「愛」が行き渡っている状態であります。「調和」を築く鍵は、「愛」なのです。「愛」が「調和」です。一人一人の「愛」の思いが行き渡っていることを「調和」と呼ぶのです。
ユートピア世界とは、「愛」が隅々まで行き渡った世界のことです。法律とか、制度とか、体制とか、高度な科学技術、哲学、思想であるとか、経済大国であるとか、そんなものは二の次なのです。形じゃないのですね。原始的な暮らしの中にもユートピアはあるのです。
ただ、新文明の方向性は、高度に発達した物質文明の上に、精神文明を築き上げることで、物心両面で豊かなユートピア社会を建設することを目指しているのです。「原始時代に逆戻りして心のユートピアを取り戻す」という発想ではないのですね。物質文明と精神文明の、統一、止揚の段階に入っているのです。
しかし、基本的には、大調和の世界(ユートピア)は、人を型にはめて創るものではないのです。あくまでも、人々の心のユートピアが基本です。体制を整えるだけでユートピアだというのなら、共産主義国家は、ユートピアだったかもしれません。しかし、実際は、ユートピアには、ほど遠かった。
本当のユートピアとは、すべての人の心が、「愛」に満ち溢れている世界なのです。だから、資本主義社会であろうが、共産主義社会であろうが、もしその社会のすべての人びとの心に愛が満ち溢れていたならば、社会体制に関係なく、現代の物質文明のままで、その社会は、ユートピアと化していくのであります。
物の多さ少なさ、制度や法律など、極端に言えば、関係ないのです。すべての人が、愛に目覚めたならば、後のものは、自然に整ってくるということです。間違った制度や法律も改正されていくのです。極端な貧富の差も解消されていくことでしょう。
では、すべての人の心が愛に満ち溢れるためには、どうすればよいのか?これが結局、個々人の「魂修行」なのです。
魂修行の方向性
人生の目的と使命とは、
であります。
仏教的には、「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」といいます。菩薩は、上に向って、如来の悟りを求めて、魂修行をしながらも、下に向っては、迷える人々を教え導き、彼らを救済していこうとする利他行に励む、という意味です。
魂修行とは、色んなとらえ方があるでしょう。たとえばカルマの修正であるとか、長所を伸ばして行くとか、「自分に厳しく、人にやさしく」生きるとか。しかし、それらを突き詰めて一言でまとめるならば、「愛深き人間になるため」の修行ということになるのです。
つまり「魂修行」というものは、「ユートピア建設(※愛の世界建設)」という目標に向かって前進することを意味しているのです。
自己満足の「魂修行」、たとえば山奥にこもって、己の心の調和だけを楽しんでいるような「魂修行」というようなものは、どれだけ心境が進んだとしても、ユートピアという「大調和の世界」建設に、何らお役に立っていないのであるから、本当の意味での「魂の進化」ということが出来ないのです。
「ユートピア建設」にまったく関係のないところでの、己の「魂修行」というのは、本来許されていないのですね。つまり「愛の精神」の欠如した修行、山奥で、一人で修行して、死んでいくような生き方というのは、「神の子・人間」本来の生き方ではないということです。
だから、そうした個人の幸せだけを求める生き方や、人々の上に君臨するために霊能力を求めるような生き方をすると、「仙人界」とか「天狗界」という霊界に入ってしまうのです。「裏の霊界」です。地獄ではないけれど、こういう世界に入ってしまうと、そこから抜け出すのは容易ではないのです。
彼らは、「魂修行」に興味はあるけど、「ユートピア建設」には興味がないのです。だから、地上に生まれ変わることにあまり、意味を感じていないのかもしれません。
あと「竜宮界」という特殊な霊界があります。これは表と裏の中間に位置すると言われています。天狗・仙人系は、山岳地帯に関係していますが、「竜宮界」は、水に関係していると言われています。「光の海」であります。心の澄んだ高級霊が、数多く住んでいるそうです。
また竜神(※人霊ではない)たちの住む世界でもあります。竜神たちは、「竜宮界」の高級霊たちの指導の下にあるそうです。非常に大きな霊的パワーをもっているようです。自然現象を自在に操ったり、時代の変革期に、指導者達に大きなエネルギーを与えたりするようです。
「竜宮界」は、「澄み切り」の世界だそうです。表の霊界は、清濁を合わせて呑むようなイメージですが、「竜宮界」の人は、とにかく穢れを嫌います。そういうものに近づかない。だから彼らは、穢れた地上界を、非常に嫌っているのかもしれません。
こうした潔癖性というのは、その人の心を、いつも清く明るく保つことでありましょう。しかし、やはり、個人の幸せで止まっているように感じます。天狗・仙人系の人たちと、そういう面で共通していると思います。
如来とか菩薩という人たちは、「和光同塵(わこうどうじん)」といって、自らが、穢れた地上に降りていって、そして、人びとの間に入っていって、仲間になって、そしてみんなと一緒に向上していこうとするのですね。
穢れているといわれている人々をも導こうとして、自らの光を落として、彼らと同じ目線にまで降りて行って、彼らを安心させて、彼らと同じ暮らしをして、彼らの気持ちを理解し、そして、そこから彼らと一緒になって、手をつないで、山の頂上を目指していくのです。
これが、大乗仏教の如来・菩薩やキリスト教系の光の天使たちの気迫なのです。汚いものにフタをして、自分だけ、澄み切って、きれいな心で、幸せに暮らすことが、彼らにはできないのです。竜宮の人々も、いつかはもっと大きな愛に目覚めなければならないと思います。彼らの心の美しさは、いって見れば、温室育ち、箱入り娘の、心の清らかさなのです。無菌室育ちですね。
しかし、そうした環境で、心がきれいだったとしても、それは当たり前なのです。自慢にもならないのですね。本当に尊いのは、地上のような厳しい荒い波動の中で生きながらも、清らかな心を保つことだと思うのです。人生の荒波にもまれて、それでも美しい心を維持して、人々を愛していくことが、どれほど難しいことか?
彼らは、それを知っているから、地上に生まれたくないのかもしれません。地上に出れば、心の清らかさを維持できないから・・・。心が乱れて苦しいのがわかっているから・・・。ま、これは価値観の違いですから、誰が正しいとか、決め付けることはできません。ただ、彼らの世界は、「七次元菩薩界」にまでつながっていないということ、この意味をかみしめる必要があるのです。
彼らの世界で、道を極め尽くしても、最後は行き止まりになっているのです。ある段階で、進化がストップしてしまうのです。その壁を越えて、さらに神様に近づいていくためには、「許す愛」というものを学んでいくことが、どうしても必要になってくるのです。
こうした裏の世界や「竜宮界」は、原則「菩薩界」には、存在しないのですね。閉ざされた空間になっているのです。菩薩界は「愛」の世界なので、天狗や仙人たちや竜宮の人たちは、原則、入ることができないのです。
彼らは、「六次元神界」から「四次元幽界」の「裏側の霊界」あるいは「竜宮界」という特殊な閉ざされた霊界に入っていくのです。表の霊界というのは、進歩の階段が、無限に続いているのです。究極の神にまで続く道であります。
結局、個々人の「魂修行」というのは、無限の進化を目指していくのならば、ユートピア(※大調和)というものを見据えて、行っていく必要があるのです。最優先は、「大調和」にあるのです。要するに、個々人の「魂修行」とは、「ユートピア建設」に邁進していく過程と一致させるのが、一番手っ取り早いのです。
というか、それが王道なのです。つまり、各人が、今、生活している、その場所を、まず「調和」していく努力をするということ、それが「ユートピア建設」そのものであり、また「魂修行」そのものなのです。
宗教組織で活動することが、「ユートピア建設」じゃないのですね。宗教組織に属し、伝道したり、いろいろな活動をしたりすることが「ユートピア建設」だと思っている人は、多いだろうと思います。しかし、それは半分イエスで、半分、勘違いです。そんなことのために、家庭生活をおろそかにし、仕事を放擲してしまっては、いけないのです。
そういう特別な使命を持ったかたも、確かにいます。「出家」ですね。お坊さんです(^^;。しかし少数です。みんなが宗教活動に熱中してしまったら、社会が回っていきません。やはり「在家」の人々が、それぞれの環境を調和して、光明化していくことが、「ユートピア建設」の基盤を築くことになるのです。世の中すべてが、出家者になってしまったら、鬱陶しくて仕方ないです(^^;。そんなのはユートピアではないような気がする。
私たち在家の者は、そうした華やかな宗教活動よりも、日々の生活を重視するべきなのです。それは、八正道の「正業」「正命」「正進」に当たると思います。これを大切にしていく。地道な努力を続けていく。これが、大いなる救世運動の最前線です。
こうした日常生活の実戦部隊の働きがなければ、「ユートピア建設」運動なんて机上の空論に過ぎないです。最前線が、もっとも厳しく、またもっとも尊い修行場なのです。
愛と知について
「愛」の本質は「与えていく」ことにある。しかし、やみくもに与えることを、「愛」とはいわない。たとえば、アルコール依存症の人に、お酒を与えることが、本当の「愛」だろうか?覚醒剤中毒者に、覚醒剤を与えることが、本当の「愛」だろうか?違いますよね(^^;。
ただ、相手の欲しがるものを、やみくもに「与えること」は、本当の「愛」ではない。本当の「愛」は、「知恵」を持って与えていくものだと思うのです。相手にとって、本当に必要なものとは、何か?これを見分ける「知恵」が必要です。
場合によっては、与えないことが、かえって本当の「愛」であることもある。そういう「愛」を「愛深き冷淡」という。愛するがゆえに、あえて冷たい態度で相手を突き放し、相手の自立を促す。これは非常に厳しい「愛」です。奥の深い「愛」です。
たとえば、いつまでも自立できない息子。また、お金をせびりに来たとする。本当は、欲しがるものを何でも与えたい。今までは、そうして来た。しかし、このまま、10年20年と、こんな状態が続いたら、息子は、自立することができないだろう。親が死ねば、息子はどうなるのか?自立できなかった息子は、おそらく、ろくでもない人生を送ることになるだろう。
となると、息子の欲しがるものを、すべて与えることが、本当の「愛」とは、いえないのではないだろうか?本当の「愛」とは、時には、突き放し、自覚を促すような、厳しさの中にもあるのではないか?これが「知恵」というものですね。そして、こうした厳しい態度には、実は大きな「愛」が秘められているのです。これを「愛深き冷淡」というのです。
子供たちに、食料や服を与えつづけることだけが、「愛」ではない。それ以上に大切なのは、子供が自立できるように指導していくこと。そうした指導というのは、「甘やかし」だけではできるものではないのです。時には、「厳しさ」を持って導いていかねばなりません。その「厳しさ」というのは、本当は、「愛」なのですね。「愛」は「やさしさ」だけれど、時には、「厳しさ」の中にも隠れているのです。
こうしたことは、やはり「知」というものがなければ、見えてこないものです。だから、「知」をバカにしてはいけないのですね。しかし、「知」と「愛」と、どちらが大切か?といった選択を迫られた時は、迷わず「愛」を選ぶべきなのです。
「知」というものは、「愛」をもっとも効果的に生かすための道具のようなのです。「愛」なくば、「知」には何の意味もないといっても過言ではないのです。いや、むしろ「愛」のない「知」は、害毒といってもよいかもしれない。「愛」はすべてに優先するのです。「愛」が無ければ、すべては無意味なのです。
「知」のみで生きていけば、その人の人生はさびしいものになっていくでしょう。たとえ「知」が弱くても、「愛」のあふれ出ているような人の人生は、潤いに満ちた、素晴らしいものとなっていくはずです。そこに「知」が加われば、さらに豊かな人生となっていくでしょう。こうした優先順位を忘れてはならないのです。
「愛」あってこその「知」であります。「愛」がなければ、「知」は暴走していくでしょう。「愛」の少ない人が、「知」を求めるのは、非常に危険です。現代社会は、そうした社会です。
「愛の本質」が見失われ、「知」ばかりが、優先されている時代なのです。非常に危険な時代です。こうしたひずみが、凶悪犯罪や異常な犯罪の増加につながっているのです。今の文明は、「知性」というものをあまりにも重視しすぎたのです。
人間は、「本質的要素」と「付属的要素」でできているのです。「本質的要素」とは、「徳性」であります。「付属的要素」とは「知性」・「知能」や「技能」であります。「本質的要素」とは、「これがなければ人間とはいえない」という本質的な要素で、それが「徳性」といわれています。
「徳性」とは何か。要するに「与える愛」のことなのです。これが「愛」の本質であり、人間の本質です。「愛」こそが人間の本質なのです。「愛」なくして人間は人間と呼ぶことができないのです。
そして「知性」や「技能」という「付属的要素」は、極端な話、別に無かったとしても、かまわないのですね。あったほうが良いけれど、無かったとしても、「徳性」さえあれば、人間としてやっていけるのです。「知性」や「技能」というものは、「徳性」があってこそ生きてくるものなのです。
今の世の中は、人間の本質的要素よりも付属的要素でもって、人間というものを判断しているのです。だから、社会全体が混乱しているのです。本質的要素である「徳性」の高い人間のほうが、本当は立派な人間なのです。ところが、今の社会は、「知性」や「技能」の高い人間が、社会の上層部に登っていくような仕組みになっています。
つまり、人間として見た時、あまり立派でない人が、上層部にいて、立派な人のいる底辺部を指導している状態なのです。逆転してしまっている。これは、ま、極端な見方ですが、実際、そういった傾向にあるのです。だから、おかしな世の中になっているのです。本当は、徳高き人が、上層部にいくような仕組みを作っていく必要があるのです。
「徳」高き人が、「才」のある人々を指導していく。徳治主義ですね。この考え方は、基本的に間違っていないのです。ところが、現代社会では、「徳」よりも「才」が、価値基準となっています。だから、今の地上界は、天上界の価値基準と逆転していますから、この世で偉いと呼ばれるものは、あの世で小さい存在となり、この世で小さい存在は、あの世で大きな存在となるのです。
イエス様は、よく、こうした逆説を説かれることがあったようです。これは、なぜかというと、天国の基準とこの世の基準が、逆転しているからなのです。この世でトップに上り詰めたから、あの世へ行ったら、それが通用するかというと、まったく通用しないのです。
この世の名刺の肩書きは、あの世では一切通用しないのです。あの世での価値基準こそが、神様の御心に近いのです。イエス様は、天国の価値基準を、地上に降ろそうとしていたのですね。
さて、では、なぜ、この世では、間違った仕組みになってしまったのだろうか?それは一言で言うならば、「無神論」「唯物論」がはびこっているためです。本当に価値あるものが、わからなくなってしまったのです。要するに「お金」です。「利益追求」が至上原理になっているから、こうした間違った仕組みが生まれてきたのです。
「徳性」とは、愛することとか、正義を重んじることとか、足ることを知るとか、そうした立派な思いと行いを大切にするという心です。こういう生き方をするのが、人間本来の生き方なのです。ところが、「利益追求」というようなことは、「知性」とか「技術」とか、こういったものに優れている者が、得意とする分野なのですね。
徳の高い人は、あまりがめついことはしません。しかし、徳の無い人は、恥知らずなことでも平気でやっていきます。人を蹴落とそうが、裏切ろうが、自然が破壊されようが、何の心の痛みも感じない。
そうした鉄面皮の精神と、そして、すぐれた「知性」と「技術」があれば、今の社会では、「勝ち組み」に入っていけるのです。利益を出していく現実的な力があるのです。そういう力をもった者が、今の世の中の「勝ち組み」であります。
このイエス様の言葉が、現代社会の間違いを、一刀のもとに切り捨てています。
今の世の中は、「拝金主義」なのです。「無神論」「唯物論」です。金がすべて。神がいるとしたら、それは「お金」だ。「神は銭」。「神即銭・銭即神」の悟りです(^^;。こうした考えが主流です。
また、霊的なことを信じる人も、ご利益信仰に流されていきます。現代のバアル信仰に陥っているのです。金こそが万能の神です(^^;。だから金儲けのうまい人間が、神近き人間として崇められていきます。こうした過ちを正していくためには、「無神論」「唯物論」の迷妄を打ち砕いて、「この世の基準」を、神の心である「天国の基準」に一致させていかなければ、不可能なのです。
心ある人は、「勝ち組み」「負け組み」という線引きに踊らされないようにすることです。己の心を汚してまで「勝ち組み」に入る必要はないのです。
こうした、色分けの言葉は、自分達の心の醜さを誤魔化すためにでっち上げられた「拝金主義者」たちの常套句なのです。それに踊らされて、同レベルにまで己を落としては、もったいないと思います。今の「勝ち組み」「負け組み」の基準は、あの世では、逆転してしまうはずです。
本当に、目指したい幸福は、「この世とあの世を貫く幸福」ですが、もしそれが難しいのなら、次善のものとしては、はやり私たちの魂の故郷である「あの世の幸福」を優先させるべきだと思います。「この世で幸せ、あの世で地獄」「この世も地獄、あの世も地獄」は、できるだけ避けたいものです。 评论 (2)
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