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日志


愛の時代 その4 00099

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愛の時代 その4

 

 

愛の発展段階説

 

 

愛の段階について、さらに説明していきましょう。

 

●愛の発展段階

 

①本能の愛――四次元幽界の愛

↓↓↓

②愛する愛――五次元霊界の愛

↓↓↓

③生かす愛――六次元神界の愛

↓↓↓

④許す愛 ――七次元菩薩界の愛 

↓↓↓

⑤存在の愛――八次元如来界の愛 

 

「愛」には、上のように、「悟り」の段階に応じた段階があるのです。これは、「愛」もまた修行の対象であることを意味しています。一応、「存在の愛」が、私たちの目標となります。ただ、これは、ハッキリいって難しいです(^^;。

 

 

本能の愛

 

 

これは、説明の必要はないでしょう。これは、動物の本能的な愛情のレベルです。これは生まれつき誰でも備えている「愛」です。努力以前の「愛」です。しかし、これ以上の「愛の段階」に進んでいくためには、それなりの努力ということが必要となってくるのです。

 

 

愛する愛

 

 

「五次元霊界」とは、精神性に目覚めている人々の世界です。人間の本質は、肉体ではなく、霊である。このことをハッキリ認識した人々です。この世界の人々は「善を行っていきたい」という、明確な意思を持っています。「愛」ということで言うならば、彼らは「愛の本質」が「与えること」であるということを悟っています。

 

四次元の「愛」は、「本能の愛」の段階なので、努力の必要はありませんが、五次元以降の「与える愛」の段階に入ってくると、自らの意思で「愛」を周囲に放っていくということが要求されているのです。したがって、努力によって、より多く愛していくこともできるし、努力を怠れば、「愛」の器としての成長がストップしてしまうのです。

 

「与える愛」の最初の段階が、この五次元的な「愛」である「愛する愛」の段階です。「与える愛」は、「愛する愛」からスタートしていくのです。そして、努力によってのみ、最終の「存在の愛」の段階にまで成長していくことができるのです。「努力」という言葉が嫌いな方は、別の言葉を使えばいいと思います。とにかく、ただ座しているだけでは、「愛」の器として成長していくことはできないのです。

 

「愛する愛」とは、愛されることよりも、自ら積極的に愛していこうとする段階。それは何も「特別なことをせよ!」と言うわけではありません。日常生活の中で、できることから始めなさいということなのです。わざわざ、アフリカまで出向いて、恵まれない人々に手を差し伸べるとか、日常を放棄して、ボランティア活動に励むとか、そうしたことではない。

 

その前に、日常でおろそかにしていることを、きっちりしましょうということです。キリスト教でいえば「隣人愛」。電車で、老人のかたに席を譲ったり、困っている友人の相談に乗ってあげたり、家族サービスをしたり、仕事で、周囲を楽にさせるような動きをしたり、こうした日常生活でできることからスタートすることです。これが十分できている人は、もっと大きな「愛」の器へと成長していくのです。

 

もし、すべての人々が、こうした「愛する愛」に目覚めたならば、地上はユートピアと化するのです。そして、この「愛」の段階は、地上のすべての人々に実践可能な「愛」なのです。難しい理論や理屈、専門知識など一切いらないからです。ただ愛していきたいという気持ちになりさえすれば、誰だって実践できます。

 

人間というのは、人に「愛」を与えた時、幸福を感じることができるようになっています。これは理屈ではありません。人に親切にして、気分が悪くなる人はいないのです。必ず、気持ちよくなる。ウソと思うならば、一度試してみれば、すぐわかることです。理屈ではないのです。やってみればわかることなのです。やるかやらんか?これだけのことなのです。やった人は、わかり、やらない人は、いつまでたってもわからない。

 

「愛」のこもったプレゼントは、贈られたほうもうれしいのですが、贈る側もすごくうれしいのですね。人間とは、そういうふうに創られているのです。だから、「愛する愛」というのは誰でも理解できるし、実践もできる「愛」なのです。そして、もし地上全体に、この「愛」が満ちたら、それは地上ユートピアの実現となります。そうなれば、地獄霊たちのエネルギー源となる人類の悪想念の供給がストップして、地獄もやがて解消されてしまうのです。

 

しかし、この「愛する愛」という日常的な「愛」をおろそかにして、日常生活を放擲して、難民救済運動や宗教活動や政治活動に、「大きな愛」を感じ、のめり込んでいくと、おかしなことになっていくのです。砂上の楼閣となってはいけないのですね。まず足下を固めよ。まず土台を築け。すべてはそこからである。こうした基本的なことをしっかりやる段階が、「五次元霊界」の「愛する愛」の段階なのです。

 

非常に地味な活動です。あまり日の目を見ることもないでしょう。誰も褒めてくれないです。しかし、奇抜なこと、突飛なこと、目立つことは、後回しでいいのです。まずは基本からです。武道には、「守・破・離(しゅ・は・り)」という教えがあります。これは、修行の段階です。「愛の発展段階」も修行なのです。同じことなのです。

 

「守」とは、「まず基本に忠実であれ」という教えです。正師について、基本を徹底的に学ぶということです。そして、基本を、体の細胞レベルまで浸透させたら、次は「破」の段階に進みます。

 

「破」とは、「基本とか型に、いつまでも、縛られるな」という段階です。杓子定規ではいけない。形式主義・教条主義ではいけない。規則なんて破るためにあるのだ。臨機応変であれ。枠内でちぢこまるな。縦横無尽であれ。

 

「型破り」というのは、基本ができていてこそ、「型破り」です。基本のできていない人間が、定石通りに行わないのは、単なる無手勝流です。そうした我流・無手勝流は、時々、奇襲攻撃やうっちゃりで、大金星を上げることもあります。しかし、横綱相撲をとることは、永遠にできない。

 

「存在の愛」とは言ってみれば、横綱相撲です。己の「愛」を「存在の愛」にまで高めていきたいのであるならば、基本である「愛する愛」を徹底的に実践していくことです。横綱になりたいのなら、奇を衒ったトリッキーな動きだけは、無理なのです。そういうのは、すぐに見透かされてしまって二度目は通用しない。だから、まず、とにかく基本をしっかりやることなのです。

 

そして次は型を破っていく。すると、逆に、基本の偉大さが、身に染みてくるのですね。基本を学んでいるときは、「なんで、こんなくだらないことを、えんえんとやらなければならないのだ?」と誰もが思うものです。

 

しかし「破」の段階に入ると、基本とか型というのが、深い叡智に裏付けられたものであることが、しみじみとわかってくるのです。また、「型破り」をやっていると、時には、新しいものが生み出されてくることがあるのです。そして、それが、また新しい「型」となっていくのです。こうして武道なども進化していくのです。

 

「守」と「破」を極めていくと、最後は「離」の境地に達するのです。完全に自由自在の境地です。あらゆることに対し、臨機応変・縦横無尽に対応していくことができる段階です。「破」の段階では、意識的に「型破り」をするのですが、「離」の段階は、あらゆる出来事に対して、無意識のうちに、もっとも理にかなった対応をしていける段階なのです。

 

「守」と「破」の段階は、師匠のもとでの修行です。しかし「離」とは、師匠から「離」れる段階に入ったということです。独自の道を切り開いていく段階です。オリジナルの段階です。また、今度は教える側、導く側になっていきます。

 

だから、私たちは、まず「守」の段階、「愛する愛」という段階で、がんばっていく必要があるのです。たとえ、大如来の生まれ変わりの魂であっても、最初は、雑巾がけから入るべきなのです。基本を叩き込まれるべきなのです。これをすっ飛ばすと、後で問題が起きてくる。

 

どれほど偉い魂であっても、この世に生まれた以上は、「ゼロからのスタート」であります。「愛する愛」という徳積みを、おろそかにしてはならないのです。こうした地味なところからスタートして、経験を積むことで、人間性が練り上げられてくるのです。

 

「過去世において、もう、そういうことは卒業したから、今世は、いきなり法を説きます」、というわけにはいかないのですね。過去世は過去世、今世は今世です。過去世で偉い人だったとしても、今世は今世で、また一から、人間社会の荒波にもまれ、人情の機微を学ばなければ、多くの人々を導いていくことなど、できるものではないのです。

 

私たちは、冷たい心の天才よりも、心のあたたかい人間性の豊かな人について、人生というものを学んでいきたいのです。指導者を目指すかたは、我々のこうした心理を知っておく必要があるでしょう。

 

己の優秀さをひけらかすような、そんな人間には、風格というものがないのですね。風格とか品格というものは、やはり、基本を徹底的にやった人でなければ、身につかないと思います。己の才をひけらかすのは、中途半端な人間のやることです。そんな人間になってはいけないのです。そのためには、基本をきっちりやることです。苦労も必要なのです。そして、常に初心に返り、基本に戻ることです。こうして原点をしっかりと確立した人は、強いのです。そう簡単にはブレません。

 

「愛」の大家を目指すならば、まず、「愛」の本質が「与えること」であることを知り、そのスタートとなる「愛する愛」を、生涯実践していくことです。たとえ「如来の悟り」を開いたとしても、「愛する愛」の実践は、一生続けなければダメなのです。もう如来になったから、法だけを説いていればよいという考えは間違いのもとなのですね。偉くなるほど、日常の「愛の実践」を忘れてはいけない。これが増上慢から身を守る命綱になっていくのです。

 

偉い先生になってしまって、寝床を上げることすらしないようになってしまう人もいるようです。自分のけつも拭けないような人間は、もうダメですね。「先生」になってしまったらダメなのです。イエス様は、お弟子さんの足を洗って、本当の謙遜ということを示しました。これが本当の「先生」です。「先生」と呼ばれて、ふんぞり返っていくような人は、本物ではないのです。そんなみっともない人間にならないためには、日常の「愛の実践」を決して、おろそかにしないことです。

 

 

生かす愛

 

 

そして、「愛する愛」を極めた時に、「愛」は次のステージに昇華していく。「愛する愛」は、誰にでも実践可能な「愛」でした。しかし次の段階の「愛」は、「愛する愛」を極めた者でなければ難しいのです。「守・破・離」の「離」の段階に入った人の「愛」です。「愛する愛」は「五次元霊界の愛」です。次の段階とは「六次元神界」の「生かす愛」です。

 

「生かす愛」とは何か?これは指導者の「愛」なのです。「導く愛」です。「六次元神界」の人びとは、要するに、この世でいうなら、リーダー的な存在の人たちです。また一芸を極めた人たちも、この「六次元神界」に入っていきます。そして「六次元神界」で、重要なことは神様の研究であります。「神理知識」を学ぶ意欲のない者は、「六次元神界」に入っていけないのです。

 

こうしたリーダーの器、専門的な分野の巨匠、あるいは「神理知識」の権威、こうした人々は、要するに、自己を磨きぬいて、一般の人よりも抜きん出た存在です。その大きな器で、あるいは専門的知識で、人々を教え導く段階にあるのです。だから、彼らの実践すべき「愛」は、人を導いて、生かして行くという形の「愛」なのです。

 

人を導くためには、それなりの器でないと、無理です。「生かす愛」の段階の人とは、それだけの器にまで、己を高めてきた人たちです。「愛する愛」を極め、また職業を通して専門知識を極めてきた人、そして、「神理知識」「霊的真理」こうしたものを真剣に学んでいる人たち。こうした人たちが、そこまで達していない人たちを、愛を込めて指導していく。これが「生かす愛」です

 

生かす愛とは、知性の愛であり、理性の愛なのです。ですから、高き知性によって、人間と社会の本質を見抜き、すぐれた理性によって、その問題解決のメスをふるうことのできる人でなければ、真に人を生かすことができないのです。

(旧版「太陽の法」より)

 

つまり、「生かす愛」とは、要するに、人よりも、多くの知識とか、技術とか、才能のある人であれば、実践していくことができるということです。「六次元神界」の価値概念は、「有用性」にあるのです。豊富な知識や高い技術は、この世の中に役に立つから、そうしたものを習得して、それを人々に教えていく。これが、この段階での「愛」です。

 

この「愛」が広まれば、三次元世界は、色んな意味で進歩・発展していくことでしょう。「六次元神界」の霊人たちというのは、専門知識でもって、三次元世界の進化を推進していく人たちです。お医者さんたちは、難病奇病の原因を見極め、その治療を確立する。発明家は、素晴らしい発明を、次から次へと生み出していく。宗教指導者は、深い知識で、臨機応変に、人々を導いていく。こうした感じで、「六次元神界」の専門家たちは、それぞれの分野で、この世の中に貢献していくのです。

 

現代社会というのは、知的な面と技術面での「生かす愛」の実践者が多いです。知識と技術だけに片寄っているのです。「神理知識」の学びと「愛する愛」の実践ができていない。知識と技術だけが突出して、そのこと関しては、非常に優秀な指導者たちが多い。しかし、それでは世の中のバランスが崩れてしまうのです。実際、今の世の中は、心を失った物質経済文明なのですね。これを乗り越えていくためには、この上の「愛」が実践されていく必要があるのです。

 

 

許す愛

 

 

それが「許す愛」です。これは宗教的な境地の「愛」です。知識や技術や才能をどれだけ伸ばしていっても、この境地には到達できないのです。これは「愛する愛」と「生かす愛」という「愛」を、トコトン実践した時に生まれてくる、大いなる寛容の精神であります。人びとを愛して、愛して、愛し抜いく、傷つくまで愛し抜く、これが「許す愛」ですね。どれだけ裏切られても愛していく。どれだけ罵られようと、どれだけバカにされようと、愛していく。

 

この境地は、菩薩の境地です。敵すらも許し、愛し、彼らのために祈る心境です。この境地は、理論理屈では理解できるのですが、さて、自分がそうした「愛」を実践できるかというと、とてもじゃないけど、無理(^^;。ま、ほとんどの人には、はっきりいって無理だと思います。

 

ただ、無理だからといって、諦めてはいけないのですね。たとえ私たちが、「四次元幽界の悟り」の段階だったとしても、その段階なりの「愛の修行」として、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」というものがあるのです。それらすべてを、自分にできる範囲で学んでいくことが大切なのです。

 

努力していくということが、何よりも大事なのです。「ああ、俺はどうせ、四次元の人間だから、『許す愛』なんて必要ないんだ。そうかわかったよ。だったら誰も許す必要なんてないさ。憎んで憎んで憎み倒してやる!」、こういうのは開き直りですね(^^;。たとえ四次元だろうが何次元だろうが、人を許していく気持ちというのは大切なのです。

 

しかしまだ、この「許す愛」の段階では、悪を悪と見、敵を敵と見る気持ちが残っているといえます。つまり善悪の二元論にとらわれ、悪なれども許す、敵なれども愛するという気持ちには、まだ、神の気持ちに遠いものがあるからです。

真の真なる愛は、善悪の二元を超えたるものであるべきなのです。敵を敵として許しているようでは、また、自らを一段高しとして、許しの玉座に登りて、他人を許しているようでは、まだ真の悟りは得ていないといえます。

(旧版「太陽の法」より)

 

これは非常に素晴らしい洞察だと思います。「許す」という思いには、ものすごく傲慢な気持ちが隠されている場合があるのです。「自分のほうが上の人間だから・・・」こうした思いを持って、許している場合、非常に危険なのです。これは一種の見下しの気持ちなのですね。「ま、許してやろうか」って感じがします。

 

でも本当の「許し」の根源には、自分もまた過ち多き人間だという自覚にあると思うのです。自分を相手より高級な人間と考えて、低級である相手を「許す」というやり方には、「愛」が感じられないように思う。こういう「許し」は、「愛」ではないです。

 

そうではなくて、「私も多くの過ちを犯してきた。神様は、そんな私を許し、あたたかく抱きしめてくださっている。彼の犯した過ちには、腹が立つけど、でも、考えてみれば、私が彼の立場だったら、同じことをしていたかもしれない。そうだな、私には、彼を責める資格がないかもしれない。神は、彼を無条件で許しておられる。ならば、私も神様の教え通り、ただひたすらに彼を許さなければいけないなあ・・・」。せめてこうした感じの気持ちが欲しいと思うのです。

 

「自分のほうが上」という気持ちの「許し」と、

「自分も彼も、過ち多き同じ人間じゃないか」という気持ちの「許し」とでは、ぜんぜん意味が違ってくると思う。もし自分が見下されて、許されるのなら、すごく嫌な気持ちになると思う。でも、「お互い様じゃないか」っていってくれたら、本当に救われると思う。前者には、やさしさが感じられないけど、後者には、やさしさを感じるからだろう。

 

こう考えてみると、「許すということ」にもいろいろあります。たとえば宗教の「教え」に従って義務的に「許す」場合もあるでしょう。あるいは、貸しをつくる為に、恩着せがましく「許す」場合もあるでしょう。見下しの気持ちの「許し」もある。結局「許す愛」というのは、真心で「許す」ことなのでしょう。「許す」という形だけ真似するのは偽善だと思う。

こうした偽善を積み重ねると、せっかくいいことをやっているのに、心はドンドン汚れて行くと思います。

 

 

存在の愛

 

 

これは「八次元如来界の愛」です。菩薩の愛は、「善悪二元論」の枠組みの中で、善と悪を分け、そして大きな「愛」の心で悪をも許し愛していく境地でした。これは徳高き宗教家の「愛」です。素晴らしい境地です。しかし如来の「愛」とは、もはやそうした「相対的な愛」の段階を超えた「絶対的な愛」の段階なのです。

 

「存在の愛」とは、人類史にそそり立つような偉大な人物の愛、この世の光、「時代の精神」であるといわれています。それは、あの太陽の如き「愛」、善人にも悪人にも分け隔てなく愛を放ち続ける「絶対的な愛」であります。

 

霊界の人口は、約500億人だそうです。そして、現在、如来呼ばれる人は、500人弱。

つまり、一億人に一人の割合です。これは如来とは、一人で一億人の人々を指導していくだけの力量を持っているということを意味します。あるいは一億人の人生を、如来は背負っているともいえるのです。それだけの権威を与えられている代わり、それだけの責任も背負っているのです。

 

人類史にそそり立つ巨人とは、いったいどういう人々でしょうか?

たとえば、ギリシャ哲学のソクラテス、プラトン、アリストテレス。

たとえば、中国の老子、墨子。

たとえば、バプテスマのヨハネ、エレミヤ、エリア。

 

こういう方々は二千年以上前の人たちですが、現代まで語り継がれている人物です。こうした方々が如来なのです。ただ、名前が残っているからといって、それらの人がすべて如来というわけではありません。菩薩のかたである場合もあります。あるいは、地獄に落ちたようなかたが、勘違いされ、偉人として語り継がれる場合もあるのです。

 

 

救世主の愛

 

 

さて、「如来界」よりさらに高い悟りの世界が、「九次元宇宙界」です。この世界の「愛」は「救世主の愛」といいます。この段階は、もはや努力によって到達できる段階ではありません。理論的には可能なのですが、理論と実際は違うのですね。地球上に人類があらわれてから、三億六千万年の月日が流れましたが、今のところ、「八次元如来界」から「九次元宇宙界」へと進歩した霊人はいないようです。

 

「太陽界」という八次元最上段階におられる約20名の如来たちが、やがて「九次元宇宙界」へと進化していくのでしょうが、それとても、いつになるのかもわかっていない状態です。従って我々凡人が現時点で「救世主の愛」を目指すのは、幼稚園児がいきなり大学受験を目指すようなものなのですね。そうしたことは、無意味といってよいでしょう(^^;。努力の対象としては「存在の愛」が限界なのです。「存在の愛」も本当のことをいえば、努力の対象外なのですが、目安として知っておくことが必要なのです。

 

実際問題われわれが目標とすべきは「許す愛」、「敵すら許し愛していく」段階です。これをクリアしていくことも、まず不可能ですが、努力目標としては、この段階を目指すべきなのです。

 

私たちは、「存在の愛」の上には、単に「神の愛」があるのだと、神の人類に対するおおいなる導きの愛、進化を願う愛があるのだという事実をもって満足をしなければなりません。

(旧版「太陽の法」より)

 

「救世主の法」は、間違って説かれた時のリスクが、あまりにも大きすぎるのですね。「救世主の愛」についても同じことなのです。人間は、自己の無限の可能性を信じることも大切なのですが、現状の自己を分析して「分」をわきまえることも大切なのです。「救世主の愛」は、軽々しく説けるほど、軽いものではないのです。

 

たとえ、わずかな間違いであっても、それが、とんでもない大きな被害を引き起こしていくのです。特に宗教指導者の方々は、このことを肝に銘じておく必要があります。こうした恐ろしさについて、今まで教えてくれる人がいなかったのです。だから、偽メシア、偽預言者が後を絶たなかったのです。しかし「正法」が説かれて、間違った「教え」の害毒が、いかに恐ろしいものであるかが、ようやく私たちにも理解できるようになってきたのです。

 

自分ひとりだけ地獄に落ちて、それですむのなら、それもいいでしょう。しかし、実際は、間違ったその「教え」を信じて、多くの信者が地獄へ落ちていくのですね。その責任は、間違った「教え」を説いた宗教指導者にあります。自分ひとりのことではすまないのです。

 

宗教ドグマで、信者さんの魂を縛ってしまう罪は、殺人よりも重い罪なのです。なぜなら殺人犯によって、肉体が殺されても、魂は死なないからです。でも間違った宗教は、魂を縛り上げて、魂本来の自由性を奪ってしまうのです。これは魂の殺人ですね。これは最悪クラスの罪なのです。どうか、宗教指導者の方々は、このことをよく理解して、「教え」に反映させていただきたいと思うのです。

评论 (2)

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大和春道发表:
さらんさん、いつもありがとうございます。
 
ま、こうした段階は、あくまでも目安です(^^;。宗教好きな人に対するメッセージなんです。宗教好きの人って、すぐに「偉い人」になってしまうと思うのです(^^;。すぐに悟りを開いてしまう(^^;。本当は、たいした悟りでもないんですよね(^^;。
 
さらんさんのように自分の「愛の段階」を冷静に見れる人は少ないです。たいていは、もうマザー・テレサの気分ですよ(^^;。でも、そんなこと、まずあり得ないんですよね。そこで、ひとつの目安、モノサシとして、愛の段階が説かれていると思います。
 
このモノサシで、客観的に図れば、己の愛が、マザーテレサの足もとにも及ばないことが見えてくると思うのです。増上慢にならないために、こうしたモノサシで、自分の状態を客観視することが、大切だと思います。
4 月 18 日
おはようございます

自分はどの段階かなぁ~?なんて考えてしまいました。そんな自分もあれ~?って感じですよね^^;
段階か・・・
その段階段階に登る時って感覚があるのかなぁ~?と思ったのです。
私は、まだまだ床拭きがいいかな、と思いました。
上にナマハンカ、登るのが怖いの知ってますから。。下を見て生きるのが、、いいかな(‾◡◝❀)
でも『存在の愛』には魅かれます。
死ぬ前に体感してみたい気もしました。
一日一善くらいから、実行してみたいです^^;
 
4 月 17 日

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