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    愛の時代 その5 00101

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    愛の時代 その5

     

     

    天使の愛

     

     

    六次元神界上段階以上の人々のことを「光の天使」といいます。そして各段階によって、「愛」の発現の仕方が違っています。ま、次元が上がっていくほど、「愛」の発現もバージョン・アップしていくのですね(^^;。

     

    ●六次元の天使の三つの愛

    ①地上の人々に対する守護神としての愛

    ②地獄霊救済者としての愛

    ③五次元霊界の人への教育者としての愛

     

    ●七次元の天使の四つの愛

    ①地上に生まれ、世の人びとを導く愛

    ②如来の補助者としての、奉仕の愛

    ③地獄霊救済のための責任者としての愛

    ④実在界(あの世)の光の供給者としての愛

     

    ●八次元の天使の五つの愛

    ①数百年おきに地上に出て、新しい教えを説く愛

    ②諸菩薩の指導者としての愛

    ③地獄のサタン救済のための大隊長としての愛

    ④神の七色光線のひとつを専門とし、それを普及する愛

    ⑤新文明設計の実務担当者としての創造的な愛

     

    ●九次元の天使の六つの愛

    ①数千年おきに地上に出で、地上を浄化する救世主としての愛

    ②地上に降りた救世主を、実在界から指導する、指導者としての愛

    ③人類の進化をつかさどる、推進者としての愛

    ④神の光の光源としての愛、光の供給者としての愛

    ⑤実在界での、秩序統制者としての愛

    ⑥宇宙計画のなかで、地球計画をつかさどる、最高責任者としての愛

     

    以上のように、悟りの段階が上がっていくごとに、責任が大きくなっていきます。これは当然のことです。これは、悟りの段階が上がっていくごとに、神の光を受ける器が大きくなっているということです。多くの愛を放っていくためには、より大きな器となって、神の愛を受け入れていく必要があるのですね。

     

    天使たちが、悟りを求めるのは、要するにより大きな愛の器になろうとしているということなのです。より大きな愛の器となって、もっともっと愛を放っていきたい。こうした思いがあるのです。単に、己の自己満足のために悟りを求めているわけではないのであります。

     

     

    地獄霊と愛

     

     

    愛は、根源の神から流れてくるものです。それは巨大なエネルギーの大河であります。はるかな高次元世界から九次元、八次元、七次元、六次元、五次元、四次元へと、下流に向って流れる「愛の大河」です。神の愛は、無限供給なので、この「愛の大河」は決して枯れることがありません。とどまることを知らぬ怒涛のパワー、あらがいがたい生命の奔流です。

     

    一方、地獄界とは何でしょうか?私たちは、悪魔という存在を、神様と対等のように考えて、悪魔を、二大勢力の一方であると考えて、恐れてきました。神様と悪魔の力が拮抗している、こうした錯覚にとらわれてきたのです。しかし、実際は、地獄界というのは、「愛の大河」の流れの中のちっぽけな渦巻きにしか過ぎない存在なのです。コップの中の嵐です。

     

    広大無辺な多次元宇宙も、実は、神様の「愛の大河」の流れの中にあるのです。地獄界とは、多次元宇宙の中の、四次元幽界の中の、想念の曇りによって神の光が射さなくなっている影の部分です。神様の統べる多次元宇宙空間のホンの一部分に過ぎないのです。神様と対等の勢力と考えていたのは、大きな錯覚だったのです。 

     

    まず、全体的に見て、地獄界という位置付けを確認しておくことが大切です。必要以上に恐れることはないのですね。やがては、解消されていきます。神様の圧倒的な「愛の大河」の力に抵抗できるものなど、何一つないのであります。

     

    しかし、だからといって、侮っていいというわけでもないのです。なぜなら、地獄界と地上界は、隣接しているのです。相互に強く影響を与え合っている世界だからです。 

     

    実は、地獄界というのは、地上世界を縁として、人間自身が創りあげて来た世界なのです。神様が、悪魔を創造されたのではないのです。人間が、悪魔になっていったのです。神は、人間に創造力を与えてくださっているのです。人間は、その創造力を、自由に使うことが出来るのです。

     

    そして、創造力を行使する時、常に選択が必要なのです。二者択一となります。

     

    ●神の心にかなう方向性【正しい方向性】

    ●神の心にかなわない方向性【間違った方向性】

     

    【間違った方向性】を選んでしまったとき、地獄界建設に力を貸してしまうことになるのです。創造力とは、念の力です。念の力によって生み出されたものは、反対の念を発することで、打ち消していくことが出来るのです。だから、人間の心のあり方を、変えていけば、地獄界は、やがて消滅するのです。

     

    もし、悪魔や地獄界が、神様の創造したものであるのならば、何人たりとも、これらを、消滅させることはできません。なぜなら、それは、実相の世界に実在するものだからです。しかし、人間の念によって創造されたものは、仮の存在なのですね。地獄界も、如来界も、人間の想念が、仮に創り出している世界です。

     

    悪魔という存在は、人間なのです。人間のなれの果てであります。悪魔とか天使とかいった、人間とは別種族の強大な生物が存在しているのはないのです。彼らも、人間です。悪魔も、心の曇りを取り除けば、私たちと同じ人間です。

     

    だから、人間自身が、地獄を創り上げてしまった以上、人間自身が、想念のあり方を反省して、消滅させていくべきなのです。

     

    地獄界を創り出している要素とは何でしょうか?それは、人間の間違った想念です。下のような想念が、間違った想念です。

     

    ねたみ、そねみ、怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、にくしみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和・・・・・・

     

    地獄界とは、このようなマイナス・エネルギーの渦巻いている世界です。しかし、これらは、実在のエネルギーではないのですね。神様は、こうしたマイナスのエネルギーを創造されていないのです。神様の創造は、完全無欠であって、すべて善きものです。従って、悪しきものは、存在するように見えても、本当は非実在なのです。この考え方は、「光一元論」といって、これが実相なのですね。

     

    では、こうしたマイナス・エネルギーの正体とは何なのか?これは、結局、「愛の不在」であります。愛のエネルギーが足りないだけなのです。地獄霊というのは、愛されたいばかりなのです。

    愛して欲しい。

    愛が欲しい。

    愛を下さい。・・・・・・

    もらうことばかり考えている。彼らは「愛されたい存在」なのです。

     

    彼らは、「愛の本質」が「与え続けていくこと」にあるということを忘れ去っているのです。マイナス・エネルギーの想念の正体は、「もっともっと愛がほしい」という思いなのです。

     

    「愛の本質」を、「奪う愛」「与えられるもの」だと思っているところに、彼らの間違いがあるのです。彼は、病人です。病名は「愛欠乏症」です。しかし、そんな病気は、本来存在しません。愛の欠乏している存在など、何一つないのです。

     

    地獄界も地獄霊も、「愛の大河」の中であります。彼らも、愛に満たされているのです。ただ、彼らは、それに気づいていないだけなのです。

     

    彼らが、目覚めていく方法は、まず、「愛の本質」が、「奪う愛」にはなく、「与える愛」にあるということに気づくところからです。そして、愛を与えはじめた時、人にやさしくし始めた時、彼らのマイナス・エネルギーは、打ち消されていくのです。

     

    「愛欠乏症」を癒すためには、愛されることよりも、愛していくことなのですね。愛されることを待ちつづけるのではなく、愛していくことです。愛を放つことで、なぜか、愛に満たされていくのです。

     

    もう一点大切なことは、地上の人間の悪想念が、地獄のエネルギー源となっている、という点です。愛は愛を呼び、その力が二倍にも三倍にも増幅されていきます。

     

    悪想念も同じことなのです。増幅していくのです。地上の悪想念と地獄の悪想念が、相互に影響し合って、増幅してきたのです。地獄界の増大は、地獄霊だけのせいではないのです。地上の人間のマイナス・エネルギーが、大きな要因となって、さらに地獄を増大させていくのです。

     

    地獄を消滅させたいのなら、地上の人間の悪想念をストップする必要があるのです。天使たちが、地獄霊を、どんどん救済していっても、地上から、どんどんと悪想念が、地獄界に送り込まれているならば、天使たちがどれだけ必死になっても、地獄界はいっこうに解消しないのです。地上からの悪想念の供給をストップしていくこと。これが大切なのです。

     

    そして地上の悪想念を消滅させるための解決策も、同じことなのです。地上の人びとが、まず、「愛の本質」が「与え続けていくこと」にあるということを知ることです。そしてそれを実践していくことです。

     

    さて、では、具体的には、何を与えていくのか? 「与える愛」は、「感謝」することからはじまります。「感謝」と「愛」は、切り離すことができないものです。「感謝」を知らぬ者は、本当の「愛」を知りません。「愛」を知る者で、「感謝」を知らぬ者はいないのです。まずは「感謝」ということを知ることが大切なのです。

     

    しかしどうすれば「感謝」できるでしょうか? それには、私たちは、既に、神様に、必要なものすべてを、与えられているということに気づくことです。これは、自分自身で感じ取る以外に方法がないのです。じっくり考えてみましょう。

     

    書物に学ぶのもいい。人間関係の中でつかみ取っていくのもいい。何よりも、大自然の姿に、答えは隠されていると思います。とにかく、この部分に関しては、自分自身で実感する以外にないのです。すべてはそこから始まるといっても言い過ぎではありません。

     

    また、正法神理を謙虚に学んでいくことです。学び、実践し、疑問を追及していくことで、必ず、見えてくると思います。理論は、もうわかっているのです。後は、それをやっていくだけなのです。

     

    地獄界を解消するためには、地獄霊たちを責める必要はないのです。私たち一人ひとりが、愛に生きることです。そうすれば、悪想念の供給がストップするのです。そうなった時、地獄は縮小して行かざるを得ません。やがて、彼らも、自分たちのやってきたことの空しさに気づいていくのです。その時が、本当に地獄界が消滅する日であります。

     

     

    愛の実践と八正道

     

     

    「反省」と「進歩」。この二本のモノサシが、神の子としてのほんとうの人生の証です。ですから日々反省し、自らの極端な思いと行動をいましめ、日々、自己観照して、自らの進歩をふりかえってみなくてはなりません。そうするときにはじめて、人間は、人生の日々の勝負に勝利しているといえるのです。

    (旧版「太陽の法」より)

     

    正法の生き方は、中道の生活にあります。そして、中道とは、八正道の生き方です。しかし、角度を変えれば、もうひとつのモノサシが見えてくるのです。それが、「愛の発展段階説」です。八正道は、「自己反省」というモノサシです。「愛の発展段階説」は、「自己観照」というモノサシなのです。

     

    「自己観照」とは何か。「自己観照」とは、自分自身の「進歩」を振り返ることです。己の「進歩」の度合いは、「愛の段階」でわかるのです。それを日々振り返ることが大切なのです。

     

    まず、「自己反省」によって、己の過ちを修正していくことです。「反省」とは、神仏に己の過ちを詫び、今後、同じ過ちを繰返さないように決心することです。そして何よりも大切なことは、実生活で、本当に「反省」した通りに生きていくことです。行動で証明していくことが大切なのです。

     

    しかし、これだけでは、何かが足りないのです。それは「愛の実践」という観点です。失敗しない無難な生き方をして、毒にもならず、薬にもならない人生を生きれば、地獄に落ちることもないでしょう。

     

    しかし、それは、正法の生き方ではないのです。「愛行」、「愛の実践」のない人生は、ハッキリいって失敗の人生です。日々の「進歩」とは、「愛の実践」にあるのです。日々の「愛行」の積み重ねが、己の愛の段階を高めていくのです。

     

    「自己観照」とは、己の「愛の発展段階」を振り返りなさいということです。己の「愛の段階」を、客観的な目で、振り返り、いったい今どの段階なのか?これを知っておくことが、日々の「感謝」と「報恩行」の指針となっていくのです。

     

    己のちっぽけな「愛行」を、過大評価して、慢心してはならないのです。「愛の発展段階説」というモノサシで、己の「愛の実践」を、はかってみることです。「愛の発展段階」は、すなわち、成長のバロメーターなのです。

     

    人を差別化するための「段階」ではないのですね。そのような、ひねくれた見方をしてはならないのです。このモノサシは、他人の「愛」をはかるモノサシではありません。己の「愛の発展段階」を客観的には見るためのモノサシなのです。ありのままに見ることです。卑下してもいけない。過大評価もいけない。ありのままに見て、そこを基盤にして、そこを足がかりにして、そこから一歩一歩向上を目指すことです。

     

    「奪う愛」の段階か?「本能の愛」ではなかったか?「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」ができていたか?こうしたことを「自己観照」して、己の成長を確かめなくては、次の方針を立てることができないのです。

     

    たとえば、「自己観照」して、今、自分が「本能の愛」の段階であるのならば、「愛する愛」という「与える愛」の最初の段階を学ばなければならない、こうした方針を立てることができます。

     

    自分がどこにいるかもわからない人間が、いったいどこへ行こうというのでしょうか?東京を目指すならば、今、自分がどこにいるのかを知っておくことが必要なのです。今どこにいるかを知っていれば、地図を広げ、どのルートで進めばよいか、方針を立てることができるのです。

     

    「愛ある日々」、「徳ある日々」を送ることこそが、日々の進歩につながっていくのです。そのためには「自己観照」して、己の現在地を確認しておくことが大切なのです。

     

    「自己反省」と「自己観照」、この二本をモノサシとして生きていくことが大切です。この二刀流で行くことが、間違いの少ない修行方法なのです。これが三刀流、四刀流になると、すべて中途半端になっていくし、一刀流だと、片寄っていくのです。二刀流がいいのです。

     

    人間の眼球も二つあるから、焦点を合わすことができるのです。中道の生き方も同じです。二本のモノサシではかって行くとき、複雑に入り組んだように見えた道も、シンプルに見ていくことができるのです。

     

     

    愛と祈り

     

     

    愛なくして祈りなく、祈りなくして愛はありません。愛は祈りによりて、より積極的な力となります。愛は祈りによりて、すべてのものごとを成就するのです。祈りは愛を高める力であり。祈りは愛を深める秘法です。すなわち、神への祈りによりて、愛は成就し、神への祈りによりて、愛は実現するのです。

    神は愛なり、愛は神なり。愛をして神ならしむ力は、祈りなり。祈りによりて、人は生き、祈りによりて神を知る。かくして、祈りによりて、人は愛の力を最大に発揮することができるのです。

    (旧版「太陽の法」より)

     

    「祈り」とは、想念のエネルギーです。「祈り」においてもっとも注意すべきは、その思いが、どこに通じているのか?ということです。「心の針」は、広大な「一念三千」の世界のどこかに、必ず通じていくのです。これが、もし、地獄の世界につながった時は、その想念のエネルギーは、地獄界に力を与えていくことになります。

     

    また、常時、「祈り」によって地獄界に通じている人は、「類は友を呼ぶ」法則によって、やがて地獄霊に憑依されていくことになるのです。

     

    手紙であれば、その内容に関係なく、宛先に届けられることになります。電話ならば、相手の電話番号をダイヤルすれば、必ずその相手に通じていきます。しかし、「祈り」は、たとえ「神様、イエス様、ミカエル様」と呼びかけても、必ずしも、その呼びかけた相手に通じていくとは限らないのです。

     

    「祈り」というものは、確実に、どこかにつながっていきますが、それは、必ずしも呼びかけた相手につながっていくというわけではなく、その「祈り」の想念エネルギーの「質」と「強さ」に応じた世界に通じていくのです。従って、言葉では、「イエス様、お願いします」と祈っていても、実際、その祈りは、地獄霊に届いている場合があるということです。

     

    おそらく、「イエス様」という呼びかけは、イエス様にも聞こえていると思うのです。しかし、「祈り」の内容が、神の御心にかなわないものであるならば、たとえイエス様でも、その「祈り」の実現に手をかすことは許されないのです。間違った「祈り」などは、叶えられないほうがよいのです。間違った「祈り」が、叶えられる時は、その「祈り」に手をかしていたのは、地獄霊であったということなのです。

     

    「祈り」を、「願望達成術」のようなものと同列に考えてはいけないのです。「祈り」の時において、まず、もっとも大切なことは、「心清らかである」ということです。透明な心です。邪心の無い思い。善我なる心。まずこれを振り返らなければならないのです。自我我欲の祈りが、天上の世界に届けられることは、決してないのであります。悪想念の「祈り」で、地獄界にエネルギーを与えてはならないのです。

     

    「正法神理」を学びながらも、曲がっていく原因は、二つです。

     

    ●理解の浅さ

    ●自分の都合のために利用すること

     

    この二つの間違った姿勢が、やがて「法」を曲げ、自らの人生も曲げていくのです。「祈り」にも、テクニックのようなものが、確かに、あるかもしれません。しかし、そんな表面的なものに流されて、「祈り」の力を、自分の都合のために使ってはならないのです。「正法」の理解が浅い時、そのような、間違った「祈り」に流されていくのです。

     

    慢心せず、常に「謙虚」な気持ちで学ぶ気持ちを大切にすることです。「知」に傾くことも、間違いの元です。しかし、「知など必要ない」というのも、これまた魔のささやきなのです。「謙虚」な姿勢で学びつづけることです。決して疑問を誤魔化してはなりません。疑問が出たら、追究して解明していくことです。

     

    そしてもう一つのチェックポイントは、「正法神理」を自分に都合よく利用しないことです。自己実現の道具ではないのです。願望達成術ではない。名声を博するためのものではないのであります。あるいは、現実世界で、夢破れた者が、真理の世界で、一旗あげようなどと思ってはならないのです。商売の道具ではないのです。

     

     

    正しい祈りの基準――「美」「善」「愛」

     

     

    こうした「祈り」の基準というのは、人によって考え方が違うので、正解というものはないのかもしれません。参考にして下さい。

     

    ①祈りの姿に、「美」があるかどうか?

     

    「祈り」は、神と人間を結ぶ架け橋であります。非常に崇高な行為なのです。自己保存・自我我欲のままに祈る姿には「美」はありません。

     

    清らかな心で、透明感のある心で祈る時、そこに、ひとつの「美」が生まれるのです。その人の容姿の美醜は、関係ない。老若男女、これも関係ない。清らかな心で、真摯に祈る姿は、この世でもっとも尊く、もっとも美しいものの一つなのです。

     

    それは、形の美しさとなって表われてくるのです。しわくちゃの老婆が、敬虔に祈る姿は、どんな美人のおねぇーちゃんよりも、なぜか、美しく見えるのですね。不思議であります。真実の信仰、真実の「祈り」は、「美」そのものなのです。非常に気高く美しいものです。この「美しさ」があるかどうか?これは、漠然とした基準のように感じるかもしれませんが、正直になって、客観的に自分自身の心を見つめれば、一目瞭然なのです。

     

    自らの祈りを点検する際に、その姿が美しいかどうかを見よ。

    あたかも鏡に映した自己像を見るかのごとくに、自らの祈りの姿が、その内容が、言葉が、態度が、顔つきが、美しいかどうかを見よ。

    醜いものであると思うならば、鏡を下げよ。

    祈りの前に、祈りの門の前に立つのを止めよ。

    まだ祈りに至っていない。

    祈れるだけの立場にないということを知りなさい。

    (1988.12.18第5回幸福の科学大川隆法講演会「祈りの原理」より)

     

    非常に厳しい言葉です。しかし、その通りだと思うのです。「祈り」とは、神の王国の門の前に立つということです。傲慢な思い、足ることを知らぬ欲望、憎しみや怒り、こうしたマイナスの想念を胸に抱いたままで、「祈り」の門の前に立つことは許されていないのです。

     

    そうした醜い心は、態度や顔つきに、必ず、あらわれて来ます。隠しようがないのです。一目瞭然なのです。自分自身を誤魔化すことはできないのです。肉体は、心の影であります。心が傲慢であれば、顔つきや態度も、傲慢になります。心が、欲望の炎で燃え盛っている時は、態度や顔つきにも、卑しさがあらわれて来るのです。

     

    イエス様が、パリサイ人シモンの家に、食事に招かれていた時、一人の罪深い女が、イエス様の足もとに近づき、何も語らず、ただ泣きながら、その涙でイエス様の足を濡らし、髪の毛で拭いました。そしてイエス様の足に接吻してやまなかった。その後、持参してきた石膏の壷の香油をイエス様の足に塗りました。イエス様は、何もおっしゃらず、その罪深き女のしたいようにさせていました。 

     

    シモンは、穢れた女が、体に触れることを許すイエス様の気持ちが理解できませんでした。パリサイ人たちは、自分たちこそ、モーセの律法を遵守する、神に最も近い人間だという自負があるのです。だから、彼らは、徴税人や遊女や罪人たちを穢れた人間として蔑んでいました。

     

    そして、そうした穢れた者たちと交わると、自分たちも穢れるという理由から、パリサイ人たちは、穢れていると言われているような人びとと、決して、交わろうとはしなかったのですね。ところが、イエス様は、そうした卑しいと呼ばれている人々と親しくしていたのです・・・・・・。

     

    僕は、イエス様の足を涙で濡らした、この罪深き女の姿こそ、もっとも尊い「祈り」の姿ではないかと思うのです。聖書には、この女が祈ったとは、どこにも書いていませんが、僕には、非常に崇高な「祈り」そのものに見えるのです。

     

    人の足を洗ったり、足に接吻したり、というのは、本当にへりくだった姿勢です。また涙を流している姿にも真実の「祈り」の姿を感じます。これこそ本当の信仰であり、「祈り」であると僕は思います。

     

    でも、パリサイ人シモンには、この女の姿に、美しさを感じることができないのです。彼は、彼女の噂や、服装や、そうした外見だけで、彼女を罪人だと決め付けているのです。

     

    イエス様は、この女性の外見を見ないで、心を見ていた。許されたいという切実な思い、深い後悔と悲しみ、そしてイエス様を深く尊敬し愛している心を感じ取っていたのです。そして、たとえ話しをしてから、女性に向って言いました。あなたの罪は許された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と・・・・・・。

     

    そのたとえ話とは・・・・・・。

    ある金貸しから、500デナリオン借りている人と、50デナリオン借りている人がいた。しかし二人とも借金を返せそうになかったので、寛大な金貸しは、二人の借金を帳消しにしてやった。さて、いったいどちらが、その金貸しをより多く愛するだろうか?

    答えは、500デナリオンを帳消しにしてもらったほうだ。多く許してもらったほうが、より多く感謝する・・・・・・。

     

    このたとえ話は、寛大な金持ちは、神様のことで、500デナリオン許してもらった人が、罪深き女のことで、50デナリオン許された人が、パリサイ人シモンのことだと思います。

     

    シモンは、イエス様が来ても、足を洗う水を出すこともなかったし、接吻の挨拶もしなかったし、頭にオリーブ油を塗ることもしなかった。でも罪深き女は、涙でイエス様の足を洗い、その足に口づけして、香油を塗ったのです。

     

    つまり、罪深き女の示した、イエス様への深い愛情をみれば、罪深い女の罪のすべてが、許されたことが分かる、ということです。許されることが少ない者(シモン)は、愛することも少ない。多く許された者は、許してくださった神様により多くの愛を捧げるものです。

     

    自分を立派だと思っているパリサイ人には、本当の「愛」が、わかっていないのです。確かに、彼らは、優等生かもしれない。神様にあまり借金をしていなかったのかもしれない。そして当然、神様から帳消しにしてもらった借金は、小額だった。しかし、だからこそ、彼らは、神様を愛していないのですね。それはイエス様への態度を見れば、ハッキリしているのです。

     

    神様をあまり愛していない彼らの信仰が、はたして立派な信仰と呼ぶことができるのだろうか?彼らの信仰は、罪深き女の信仰よりも劣っているのではないか?

     

    このたとえ話は、非常に深いです。自力と他力についても考えさせられます。色んなことを考えさせられます。「ルカによる福音書」の第七章です。じっくり味わって欲しい部分です。僕は、ここを読むと、涙が止まらなくなります(^^;。この罪深き女は、マグダラのマリアだという説がありますが、よくわかりません。ルカの作り話かもしれません(^^;。

     

    ②祈りの内容は、「善」であるかどうか?恥ずかしくないか?

     

    すなわち、羞恥の心があるということ自体が、人間の心は善なるものをめざすようにできており、そしてそれに反した時に、ちゃんと各人がチェックできるように、そういうものを与えてくれているということなのです。

    (1988.12.18第5回幸福の科学大川隆法講演会「祈りの原理」より)

     

    「祈り」にも、色んな「祈り」があります。感謝の「祈り」、世界平和の「祈り」、結婚相手募集の「祈り」、自我我欲の「祈り」・・・・・・

     

    この「祈り」の内容を、誰かに見られても、恥ずかしくないものかどうか?これをチェックする必要がある。「恥ずかしい」という感情は、いかなる時に、湧き起こってくるだろうか?「恥ずかしさ」という感情は、善なるものを判断するための基準なのです。

     

    「祈り」は「善なるもの」でなければなりません。悪いことを祈ってはならないのです。誰かの不幸を祈ったりするのはいけないのです。そうした悪しき「祈り」をした時には、必ず「恥ずかしい」という感情が生まれているのです。人間には「良心」がそなわっています。「良心」は、己の心が「善」から離れてしまった時、「恥ずかしい」という感情を起すものなのです。「羞恥心」です。

     

    もし、「祈り」の内容を誰かに見られることが、「恥ずかしい」と感じるなら、その「祈り」の内容には、「善ならざるもの」が含まれている可能性があるのです。それを厳しくチェックする必要があります。ただ、恥ずかしがり屋さんもいるのですね。立派な「祈り」でも、人に見られるのは「恥ずかしい」という場合があります。そういう「恥ずかしさ」とは、また意味が違うので注意してください(^^;。 

     

    ③「愛」があるかどうか?

     

    愛なき祈りは祈りにあらず。

    それは死せる言葉なり。

    そうわたしは断定しておきたいと思います。

    なぜならば、愛なきものは神を知らず、神を知らないものは真なる祈りをできないからであります。

    愛なきものは神を知らない、知によっては神はわからない、神を知るには愛が要る。

    愛のなかに神を発見する道がある。

    従って無限の祈りの道は、無限の愛の道でもあるということを知らねばならないのです。

    (1988.12.18第5回幸福の科学大川隆法講演会「祈りの原理」より)

     

    愛とは、無限に善きものであり、無限に素晴らしきものであり、無限の喜びであり、また無限の悟りでもあります。

    愛を知るということは、悟るということでもあるのです。

    この愛を知ったときに、この愛の一つの通路を自らのものとしたときに、その通路から神の創られた総ての世界が見えます。

    この神の創られた総ての世界を知ること、それを悟りとも言います。

    そしてその悟りという名の悦びは、次なるものへとつながっていきます。

    その次なるものとは愛の発展であります。

    知るところに悟りがあり、悟りがあるところに愛の発展がある。

    悟りとは愛を発展させるための原動力である。

    (1988.12.18第5回幸福の科学大川隆法講演会「祈りの原理」より) 

     

    「神即愛・愛即神」です。また「愛即祈り・祈り即愛」であります。「祈り」には、「愛」が必要なのです。通常「祈り」とは、何かを求めているのですが、本当の「祈り」になってくると、もう、「愛」と一致してしまうので、何も求めない「祈り」になってしまうようです。

     

    矛盾するようですが、見返りを求めない「祈り」が、究極の「祈り」なのです。

     

    つまりこうです。

     

    「神様、どうか、わたしを、あなたの手足として、道具として使ってください」

     

    こうした「祈り」となってくるのです。これは「七次元菩薩界」以上の愛の段階だといえます。

     

    「祈り」をここまで高めるのは、至難の業ですが、これが究極の「祈り」ですね。「愛即祈り・祈り即愛」であります。

     

    通常の「祈り」は、ここまで行く必要がないでしょう(^^;。

     

    チェック・ポイントとしては、自己保存・自我我欲のみの「祈り」ではないかどうか?ですね。ガリガリ亡者の祈りでは、いけないのです。常に「愛」というものがなければダメなのです。誰かの幸福を祈ったり、迫害者のために祈ったり、世界の平和を祈ったり・・・・・・、こうした「愛」の思いが「祈り」には、どうしても必要なのです。

     

    ①祈りが実現されることによって、その人の人格が高まるか、低くなるか?

    ②祈りが実現されることによって、他人が幸せになるか、不幸になるか?

     

    このような視点が大切だと思います。これを「自利利他」といいます。「祈り」が実現するとして、「自分も向上して、周囲も潤っていくかどうか?」、ここをチェックする必要があるのです。

     

    以上、正しい祈りの基準は、「美」「善」「愛」の三つです。これがそなわった時、「祈り」は、大きな力を発揮していくことでしょう。

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