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愛の時代 その5 00101>メインページへ 20060419 00101 愛の時代 その5
天使の愛
六次元神界上段階以上の人々のことを「光の天使」といいます。そして各段階によって、「愛」の発現の仕方が違っています。ま、次元が上がっていくほど、「愛」の発現もバージョン・アップしていくのですね(^^;。
以上のように、悟りの段階が上がっていくごとに、責任が大きくなっていきます。これは当然のことです。これは、悟りの段階が上がっていくごとに、神の光を受ける器が大きくなっているということです。多くの愛を放っていくためには、より大きな器となって、神の愛を受け入れていく必要があるのですね。
天使たちが、悟りを求めるのは、要するにより大きな愛の器になろうとしているということなのです。より大きな愛の器となって、もっともっと愛を放っていきたい。こうした思いがあるのです。単に、己の自己満足のために悟りを求めているわけではないのであります。
地獄霊と愛
愛は、根源の神から流れてくるものです。それは巨大なエネルギーの大河であります。はるかな高次元世界から九次元、八次元、七次元、六次元、五次元、四次元へと、下流に向って流れる「愛の大河」です。神の愛は、無限供給なので、この「愛の大河」は決して枯れることがありません。とどまることを知らぬ怒涛のパワー、あらがいがたい生命の奔流です。
一方、地獄界とは何でしょうか?私たちは、悪魔という存在を、神様と対等のように考えて、悪魔を、二大勢力の一方であると考えて、恐れてきました。神様と悪魔の力が拮抗している、こうした錯覚にとらわれてきたのです。しかし、実際は、地獄界というのは、「愛の大河」の流れの中のちっぽけな渦巻きにしか過ぎない存在なのです。コップの中の嵐です。
広大無辺な多次元宇宙も、実は、神様の「愛の大河」の流れの中にあるのです。地獄界とは、多次元宇宙の中の、四次元幽界の中の、想念の曇りによって神の光が射さなくなっている影の部分です。神様の統べる多次元宇宙空間のホンの一部分に過ぎないのです。神様と対等の勢力と考えていたのは、大きな錯覚だったのです。
まず、全体的に見て、地獄界という位置付けを確認しておくことが大切です。必要以上に恐れることはないのですね。やがては、解消されていきます。神様の圧倒的な「愛の大河」の力に抵抗できるものなど、何一つないのであります。
しかし、だからといって、侮っていいというわけでもないのです。なぜなら、地獄界と地上界は、隣接しているのです。相互に強く影響を与え合っている世界だからです。
実は、地獄界というのは、地上世界を縁として、人間自身が創りあげて来た世界なのです。神様が、悪魔を創造されたのではないのです。人間が、悪魔になっていったのです。神は、人間に創造力を与えてくださっているのです。人間は、その創造力を、自由に使うことが出来るのです。
そして、創造力を行使する時、常に選択が必要なのです。二者択一となります。
【間違った方向性】を選んでしまったとき、地獄界建設に力を貸してしまうことになるのです。創造力とは、念の力です。念の力によって生み出されたものは、反対の念を発することで、打ち消していくことが出来るのです。だから、人間の心のあり方を、変えていけば、地獄界は、やがて消滅するのです。
もし、悪魔や地獄界が、神様の創造したものであるのならば、何人たりとも、これらを、消滅させることはできません。なぜなら、それは、実相の世界に実在するものだからです。しかし、人間の念によって創造されたものは、仮の存在なのですね。地獄界も、如来界も、人間の想念が、仮に創り出している世界です。
悪魔という存在は、人間なのです。人間のなれの果てであります。悪魔とか天使とかいった、人間とは別種族の強大な生物が存在しているのはないのです。彼らも、人間です。悪魔も、心の曇りを取り除けば、私たちと同じ人間です。
だから、人間自身が、地獄を創り上げてしまった以上、人間自身が、想念のあり方を反省して、消滅させていくべきなのです。
地獄界を創り出している要素とは何でしょうか?それは、人間の間違った想念です。下のような想念が、間違った想念です。
地獄界とは、このようなマイナス・エネルギーの渦巻いている世界です。しかし、これらは、実在のエネルギーではないのですね。神様は、こうしたマイナスのエネルギーを創造されていないのです。神様の創造は、完全無欠であって、すべて善きものです。従って、悪しきものは、存在するように見えても、本当は非実在なのです。この考え方は、「光一元論」といって、これが実相なのですね。
では、こうしたマイナス・エネルギーの正体とは何なのか?これは、結局、「愛の不在」であります。愛のエネルギーが足りないだけなのです。地獄霊というのは、愛されたいばかりなのです。
もらうことばかり考えている。彼らは「愛されたい存在」なのです。
彼らは、「愛の本質」が「与え続けていくこと」にあるということを忘れ去っているのです。マイナス・エネルギーの想念の正体は、「もっともっと愛がほしい」という思いなのです。
「愛の本質」を、「奪う愛」「与えられるもの」だと思っているところに、彼らの間違いがあるのです。彼は、病人です。病名は「愛欠乏症」です。しかし、そんな病気は、本来存在しません。愛の欠乏している存在など、何一つないのです。
地獄界も地獄霊も、「愛の大河」の中であります。彼らも、愛に満たされているのです。ただ、彼らは、それに気づいていないだけなのです。
彼らが、目覚めていく方法は、まず、「愛の本質」が、「奪う愛」にはなく、「与える愛」にあるということに気づくところからです。そして、愛を与えはじめた時、人にやさしくし始めた時、彼らのマイナス・エネルギーは、打ち消されていくのです。
「愛欠乏症」を癒すためには、愛されることよりも、愛していくことなのですね。愛されることを待ちつづけるのではなく、愛していくことです。愛を放つことで、なぜか、愛に満たされていくのです。
もう一点大切なことは、地上の人間の悪想念が、地獄のエネルギー源となっている、という点です。愛は愛を呼び、その力が二倍にも三倍にも増幅されていきます。
悪想念も同じことなのです。増幅していくのです。地上の悪想念と地獄の悪想念が、相互に影響し合って、増幅してきたのです。地獄界の増大は、地獄霊だけのせいではないのです。地上の人間のマイナス・エネルギーが、大きな要因となって、さらに地獄を増大させていくのです。
地獄を消滅させたいのなら、地上の人間の悪想念をストップする必要があるのです。天使たちが、地獄霊を、どんどん救済していっても、地上から、どんどんと悪想念が、地獄界に送り込まれているならば、天使たちがどれだけ必死になっても、地獄界はいっこうに解消しないのです。地上からの悪想念の供給をストップしていくこと。これが大切なのです。
そして地上の悪想念を消滅させるための解決策も、同じことなのです。地上の人びとが、まず、「愛の本質」が「与え続けていくこと」にあるということを知ることです。そしてそれを実践していくことです。
さて、では、具体的には、何を与えていくのか? 「与える愛」は、「感謝」することからはじまります。「感謝」と「愛」は、切り離すことができないものです。「感謝」を知らぬ者は、本当の「愛」を知りません。「愛」を知る者で、「感謝」を知らぬ者はいないのです。まずは「感謝」ということを知ることが大切なのです。
しかしどうすれば「感謝」できるでしょうか? それには、私たちは、既に、神様に、必要なものすべてを、与えられているということに気づくことです。これは、自分自身で感じ取る以外に方法がないのです。じっくり考えてみましょう。
書物に学ぶのもいい。人間関係の中でつかみ取っていくのもいい。何よりも、大自然の姿に、答えは隠されていると思います。とにかく、この部分に関しては、自分自身で実感する以外にないのです。すべてはそこから始まるといっても言い過ぎではありません。
また、正法神理を謙虚に学んでいくことです。学び、実践し、疑問を追及していくことで、必ず、見えてくると思います。理論は、もうわかっているのです。後は、それをやっていくだけなのです。
地獄界を解消するためには、地獄霊たちを責める必要はないのです。私たち一人ひとりが、愛に生きることです。そうすれば、悪想念の供給がストップするのです。そうなった時、地獄は縮小して行かざるを得ません。やがて、彼らも、自分たちのやってきたことの空しさに気づいていくのです。その時が、本当に地獄界が消滅する日であります。
愛の実践と八正道
正法の生き方は、中道の生活にあります。そして、中道とは、八正道の生き方です。しかし、角度を変えれば、もうひとつのモノサシが見えてくるのです。それが、「愛の発展段階説」です。八正道は、「自己反省」というモノサシです。「愛の発展段階説」は、「自己観照」というモノサシなのです。
「自己観照」とは何か。「自己観照」とは、自分自身の「進歩」を振り返ることです。己の「進歩」の度合いは、「愛の段階」でわかるのです。それを日々振り返ることが大切なのです。
まず、「自己反省」によって、己の過ちを修正していくことです。「反省」とは、神仏に己の過ちを詫び、今後、同じ過ちを繰返さないように決心することです。そして何よりも大切なことは、実生活で、本当に「反省」した通りに生きていくことです。行動で証明していくことが大切なのです。
しかし、これだけでは、何かが足りないのです。それは「愛の実践」という観点です。失敗しない無難な生き方をして、毒にもならず、薬にもならない人生を生きれば、地獄に落ちることもないでしょう。
しかし、それは、正法の生き方ではないのです。「愛行」、「愛の実践」のない人生は、ハッキリいって失敗の人生です。日々の「進歩」とは、「愛の実践」にあるのです。日々の「愛行」の積み重ねが、己の愛の段階を高めていくのです。
「自己観照」とは、己の「愛の発展段階」を振り返りなさいということです。己の「愛の段階」を、客観的な目で、振り返り、いったい今どの段階なのか?これを知っておくことが、日々の「感謝」と「報恩行」の指針となっていくのです。
己のちっぽけな「愛行」を、過大評価して、慢心してはならないのです。「愛の発展段階説」というモノサシで、己の「愛の実践」を、はかってみることです。「愛の発展段階」は、すなわち、成長のバロメーターなのです。
人を差別化するための「段階」ではないのですね。そのような、ひねくれた見方をしてはならないのです。このモノサシは、他人の「愛」をはかるモノサシではありません。己の「愛の発展段階」を客観的には見るためのモノサシなのです。ありのままに見ることです。卑下してもいけない。過大評価もいけない。ありのままに見て、そこを基盤にして、そこを足がかりにして、そこから一歩一歩向上を目指すことです。
「奪う愛」の段階か?「本能の愛」ではなかったか?「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」ができていたか?こうしたことを「自己観照」して、己の成長を確かめなくては、次の方針を立てることができないのです。
たとえば、「自己観照」して、今、自分が「本能の愛」の段階であるのならば、「愛する愛」という「与える愛」の最初の段階を学ばなければならない、こうした方針を立てることができます。
自分がどこにいるかもわからない人間が、いったいどこへ行こうというのでしょうか?東京を目指すならば、今、自分がどこにいるのかを知っておくことが必要なのです。今どこにいるかを知っていれば、地図を広げ、どのルートで進めばよいか、方針を立てることができるのです。
「愛ある日々」、「徳ある日々」を送ることこそが、日々の進歩につながっていくのです。そのためには「自己観照」して、己の現在地を確認しておくことが大切なのです。
「自己反省」と「自己観照」、この二本をモノサシとして生きていくことが大切です。この二刀流で行くことが、間違いの少ない修行方法なのです。これが三刀流、四刀流になると、すべて中途半端になっていくし、一刀流だと、片寄っていくのです。二刀流がいいのです。
人間の眼球も二つあるから、焦点を合わすことができるのです。中道の生き方も同じです。二本のモノサシではかって行くとき、複雑に入り組んだように見えた道も、シンプルに見ていくことができるのです。
愛と祈り
「祈り」とは、想念のエネルギーです。「祈り」においてもっとも注意すべきは、その思いが、どこに通じているのか?ということです。「心の針」は、広大な「一念三千」の世界のどこかに、必ず通じていくのです。これが、もし、地獄の世界につながった時は、その想念のエネルギーは、地獄界に力を与えていくことになります。
また、常時、「祈り」によって地獄界に通じている人は、「類は友を呼ぶ」法則によって、やがて地獄霊に憑依されていくことになるのです。
手紙であれば、その内容に関係なく、宛先に届けられることになります。電話ならば、相手の電話番号をダイヤルすれば、必ずその相手に通じていきます。しかし、「祈り」は、たとえ「神様、イエス様、ミカエル様」と呼びかけても、必ずしも、その呼びかけた相手に通じていくとは限らないのです。
「祈り」というものは、確実に、どこかにつながっていきますが、それは、必ずしも呼びかけた相手につながっていくというわけではなく、その「祈り」の想念エネルギーの「質」と「強さ」に応じた世界に通じていくのです。従って、言葉では、「イエス様、お願いします」と祈っていても、実際、その祈りは、地獄霊に届いている場合があるということです。
おそらく、「イエス様」という呼びかけは、イエス様にも聞こえていると思うのです。しかし、「祈り」の内容が、神の御心にかなわないものであるならば、たとえイエス様でも、その「祈り」の実現に手をかすことは許されないのです。間違った「祈り」などは、叶えられないほうがよいのです。間違った「祈り」が、叶えられる時は、その「祈り」に手をかしていたのは、地獄霊であったということなのです。
「祈り」を、「願望達成術」のようなものと同列に考えてはいけないのです。「祈り」の時において、まず、もっとも大切なことは、「心清らかである」ということです。透明な心です。邪心の無い思い。善我なる心。まずこれを振り返らなければならないのです。自我我欲の祈りが、天上の世界に届けられることは、決してないのであります。悪想念の「祈り」で、地獄界にエネルギーを与えてはならないのです。
「正法神理」を学びながらも、曲がっていく原因は、二つです。
この二つの間違った姿勢が、やがて「法」を曲げ、自らの人生も曲げていくのです。「祈り」にも、テクニックのようなものが、確かに、あるかもしれません。しかし、そんな表面的なものに流されて、「祈り」の力を、自分の都合のために使ってはならないのです。「正法」の理解が浅い時、そのような、間違った「祈り」に流されていくのです。
慢心せず、常に「謙虚」な気持ちで学ぶ気持ちを大切にすることです。「知」に傾くことも、間違いの元です。しかし、「知など必要ない」というのも、これまた魔のささやきなのです。「謙虚」な姿勢で学びつづけることです。決して疑問を誤魔化してはなりません。疑問が出たら、追究して解明していくことです。
そしてもう一つのチェックポイントは、「正法神理」を自分に都合よく利用しないことです。自己実現の道具ではないのです。願望達成術ではない。名声を博するためのものではないのであります。あるいは、現実世界で、夢破れた者が、真理の世界で、一旗あげようなどと思ってはならないのです。商売の道具ではないのです。
正しい祈りの基準――「美」「善」「愛」
こうした「祈り」の基準というのは、人によって考え方が違うので、正解というものはないのかもしれません。参考にして下さい。
①祈りの姿に、「美」があるかどうか?
②祈りの内容は、「善」であるかどうか?恥ずかしくないか?
③「愛」があるかどうか?
以上、正しい祈りの基準は、「美」「善」「愛」の三つです。これがそなわった時、「祈り」は、大きな力を発揮していくことでしょう。 TrackbacksWeblogs that reference this entry
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