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悟りへの道標 その1 00102

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悟りへの道標 その1

 

 

悟りと努力

 

 

つまり、悟りとは、神仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が神仏に近づいてゆくということです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。

(旧版「太陽の法」より)

 

とはいえ、悟りにも、また、段階があります。ですから、それぞれの段階において悟ったということは、可能です。そして、地上に肉体をもった人間としての最高の悟りというものはありうるのです。

(旧版「太陽の法」より)

 

究極の「悟り」というのは、ありえません。人間の「悟り」には、限界があるのです。ある一定のラインを越えてくると、もう、人間を卒業しなければならない(^^;。そこを超えると、人間から「惑星意識」へと進化してしまうのです。

 

しかし、「惑星意識」もまた、進化の途上です。さらにさらに高い悟りの境地、すなわち「恒星意識」の悟りを目指して、修行していくのです。そして「恒星意識」もまた、修行過程なのです。このように「悟り」とは、究極の神様まで続く無限階梯なのです。

 

ただ、各段階における「悟り」の境地というものがあるのです。四次元から九次元まで、それぞれの段階の「悟り」というものがあります。つまり、究極の意味での「悟り」を得ることは、誰にもできないけれど、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元という各段階の「悟り」を得ることはできるということです。

 

たとえば、Aさんが「悟った」とします。Bさんも「悟った」とします。言葉だけ見れば、どちらも「悟った」ことになるけれど、「悟りの内容」、「悟りのレベル」、これは、まったく別ものだと考えなければならないのです。

 

たとえば、Aさんは自分で、「究極の悟りだ」といっているけど、実際は地獄霊にそそのかされているだけのことである場合がある。Bさんは、「たいした悟りではありませんが・・・・・・」と言いながらも、七次元の悟りかも知れないのです。「悟った」という表現は、同じでも、中身がまったく別物です。

 

「悟った!」といって、すぐ教祖さんになる人が、たくさんいるのですが、実に困ります。いったい、その悟りは「何次元の悟りですか?」と聞きたいのですね。己の悟りの段階を見極めもせずに、人を指導してはいけないのです。

 

己の理解している部分と、理解できていない部分を、ハッキリと見極めてから、他人の指導にあたるべきなのです。当然のことなのです。もし、間違った教えで、他人の人生を狂わせた場合、「すみません」では、すまないのですね。

 

たとえば、「数学」という学問で考えてみましょう。数学のすべてをマスターしているのか、それとも、数学の中の一部分だけをマスターしているのか、それによって、その数学教師としてのレベルが決まって行きます。

 

すべてを完全にマスターしている人は、「数学」のことなら、誰にでも、どんな内容のことでも、教えることができます。ま、大学の教授のような感じでしょうか。しかし、中学生レベルだけをマスターしている教師は、中学生限定の教師で、それ以上のレベルの数学を求めている人に、教えることができません。

 

「悟った、悟った」と言うけれど、教祖様、いったい何を悟ったのですか?一部分だけですか?すべてを解明したのですか?これが聞きたいのですね。今の宗教でおかしいのは、悟ったら、もう、すぐにオールマイティの存在として、自分で、自分自身を神仏に祭り上げてしまうところです。

 

「神の化身」「神の代理人」になってしまうのです。やがて、色んな特別理由が、どんどん追加されていって、最後は、神そのものになっていきます(^^;。「私だけは特別だ」と、皆さん、おっしゃっています。自分だけを例外にするのは、曲がり始めている証拠と考えていいと思います。

 

たいていは、一部分だけを悟っている状態なのですね。それなら、まだ、ましなほうです。単なる「魔境」を、「悟り」だと勘違いして、教祖になってしまう人も多いようです。狐とか蛇の霊にたぶらかされて、己を神に選ばれた人間だと勘違いしてしまうのです。

 

己の小さな悟りを、「最高の悟り」だと勘違いしてはならないのです。それは単なる勉強不足。「悟りの段階」を勉強せずに、生悟りで、いい気になっているのですね。こういうのを「野狐禅」といいます。「井の中の蛙、大海を知らず」です。

 

調子に乗っていると、気づかないうちに、地獄霊や動物霊に惑わされて、曲がってゆき、やがて、落ちてゆくのです。己だけが落ちていくのなら、まだしも、多くの信者さんたちをミスリードしていますから、大変なことになってしまうのです。

 

また、自分を、神仏に祭り上げてしまうと、わからないことを、「わかりません」と素直に言うことができなくなってきます。で、その場しのぎのでたらめなことを言って、信者さんの人生を狂わせてしまうのです。引っ込みがつかなくなって行くのですね。

 

偉大な神の使者である教組様に、わからないことがあってはいけないのです(^^;。そんなことは、恥だからと思って、何でも知っているフリをしてしまうのです。実に愚かなことです。わからないことは、わからないと、率直に言わなければならないのです。それが誠実さです。

 

ちょっと霊的体験したぐらいで、天狗になってはいけないのです。動物霊でも、霊的現象ぐらい簡単に起すことができるそうです。動物霊は、神仏に化けることもできるのです。だから、己に霊的現象が起こっても、いい気になってはいけない。瞑想中、神仏があらわれたからといって、悟ったと思ったら、大間違いなのです。

 

「悟りの段階」を、ある程度、頭に入れておけば、だいたいの目安になるのです。「今の自分は、おそらく、この段階だ」ということが、わかるのです。そうしたら、つまらぬ霊的現象に惑わされることもないのです。人に、おだてられて、木に登ってしまうこともない。己の「分」というものが、わかるからです。己の分際を超えて、色々やってみたところで、長続きしません。

 

今の段階から、一歩ずつステップ・アップしていくこと。一段あがれば、それがひとつの「悟り」です。そういう「小悟」を積み重ねていくことが大切です。「千里の道も一歩から」と申します。ズルはできないのです。悟りの段階を、誤魔化すことはできないのです。今、立っているこの場所が、私たちの「悟り」の段階です。

 

「悟り」を高めていくためには、自分自身の足で、「悟り」の階段を、一段ずつ登っていく以外に、方法はないのです。一足飛びにはいかんのです。

 

悟りには、「漸悟(ぜんご)」と「頓悟(とんご)」という考え方があります。

「漸悟」とは、ま、いってみれば、長期間の努力によって、段階を踏みながら「悟り」にいたるという考え方です。

 

「頓悟」とは、「如来界へと、一躍跳入していくのが『悟り』というものである」、という考え方です。修行期間の長い短いは、関係ない。ある瞬間パッと悟るものだ、という考えですね。これを、簡単に考えて、ある日突然「棚からぼた餅」式に高い「悟り」の境地に入ることができると考えている人たちが、あまりにも多いのです。

 

確かに、「悟り」とは、「頓悟」であると言われています。しかし、僕は、「頓悟」と「漸悟」は、表裏一体だと思っています。別ものではないと思うのです。

 

中国禅宗の五祖、弘忍(こうにん)禅師の弟子の中に、神秀(じんしゅう)という優等生のお弟子さんがいました。この神秀は、たぶん、法灯を継ぐことになるだろうと考えられていました。ところが、実際、衣鉢を継いで、六祖となったのは、慧能(えのう)という人でした。

 

この慧能という人は、無学文盲です。読み書きができない。そういう面では、日本の小学生よりも劣っています。だから、米搗きとか、雑用とかばかりさせられていて、修行らしい修行はやっていなかったのです。

 

この慧能が六祖となる経緯は、こうです。ある時、弘忍禅師が、お弟子さんたちに、「今の心境を詩で表現せよ。そのでき具合を見て、後継ぎを指名する」といいました。そして、神秀の発表したものは、期待通り、ずば抜けて、素晴らしいものでした。やはり六祖は、神秀に決定だなと、皆が思っていたのです。

 

ところが、神秀の詩の内容を教えてもらった慧能が、大胆にも、神秀に対抗して、詩を作ったのですね(^^;。弘忍禅師は、それを見て、うなってしまったのです。慧能の心境が、神秀の心境よりも上を行くものだったからです。

 

それで、後世、慧能の悟りは、「頓悟」で、神秀の悟りは「漸悟」的であると思われるようになったのです。慧能は天才型、神秀は努力型、こういうイメージでしょうか?現在、伝わっている禅の教えは、六祖慧能禅師の流れですが、当時は、神秀の「漸悟」的な禅も、人気が、相当高かったそうです。人気は、あったけど、滅んでしまったのです・・・・・・。

 

ま、このように「頓悟」「漸悟」は、別もののように考えられています。しかし、本当に慧能という人は、修行もせずに、ある時、パッと悟ったのでしょうか?・・・・・・。僕は、そうではないと思うのです。修行とは、難しい本を何千冊も読んだり、お経をあげたり、滝に打たれたり、そうしたことだけではないと思うからです。 

 

八正道というのは、日常生活の中で行ってゆくものです。八正道の生き方は、難しい本を読めとか、幾ら献金しなさいとか、折伏しなさいとか、難行苦行しなさいとか、そうしたことをせよ、とは言っていないのです。

 

日常生活そのものが、八正道の修行だと言っているのです。つまり、米搗きや薪割りといった、慧能の日々の仕事そのものが、八正道の生き方となっていたのではなかったか?このように思うのです。

 

としたら、彼は、日々修行を重ねていたといえるのではないでしょうか?彼は日々、時時刻刻、「米搗き瞑想」、「まき割り瞑想」に励んでいたのかもしれないということです(^^;。こういうのを「事上磨練(じじょうまれん)」といいます。特別なことだけが修行ではない。日常のすべてが修行である。こういう考え方です。

 

慧能という人は、おそらく、日々、日常の仕事の中で、小さな「悟り」を発見していたのだと思うのです。その積み重ねが、徐々に徐々に慧能禅師の「悟り」を高めていった。そしてある日、とうとう一躍跳入、悟りの世界に飛び込むことができたのではないかと思うのです。

 

「漸悟」は、段階を踏んで悟るという考え方ですが、最後の悟りに至る部分は、結局は、一躍超入なのです。理論や理屈では、菩薩界や如来界という「悟り」の関門は、決して超えてゆくことができない。最後の部分は、理論や理屈を、飛び越えていかなければならない。そういう意味では、悟りとは、すべて「頓悟」です。最後は、「一躍跳入」で、パッと悟る。

 

しかし、「一躍跳入」のその時に至るまでは、絶えざる努力が必要だと思うのであります。そうした、不断の努力無しに、「一躍跳入」という瞬間は、絶対にやってこないのではないかと思います。

 

たとえば、学問上の発見で、よく聞く話があります。ある難題について「考えに考え抜いてみた」が、どうしてもわからず、とうとう力尽きて、ウトウトっとしたときに、パッとひらめく、というようなことがあるそうです。

 

これが、もし、「考えに考え抜く」という「努力」がなかった場合、ウトウトっとしたとき、パッとひらめいていただろうか?と思うのです。恐らく、そうした「努力」があったからこそ、その後、インスピレーションが降りてきたのだと思うのです。

 

だから、「努力」あっての「頓悟」だと思うのです。つまり、「漸悟」も「頓悟」も、同じなのですね。

「漸悟」の考え方は、「努力するから、ひらめく」という発想です。

そして、「頓悟」は、「ひらめいたということは、努力していないように見えて、実は、どこかで努力している」と考えることができるのであります。

 

要するに、同じことですね(^^;。パッとひらめいて悟るというけれど、実際はそれまでに、「努力」をやっているのですね。ただ、その「努力」を強調しないだけなのです。

だから、いずれにせよ「努力」というものは必要なのです。何の「努力」もなしに、ある日突然、パッと悟れないと思いますよ。もしも、パッと悟った人がいたとするなら、実は、どこかで必ず「努力」しているのですね。「努力」しているのだけど、本人には分からない場合があるということです。

 

たとえば、素晴らしい絵を描いた人。実に細かい作業の積み重ね。手間暇かけて完成しました。それを見ていた人は、彼の「努力」をよく知っているのです。ところが、彼自身は、「努力」したとは思っていないのですね(^^;。「楽しい、楽しい」と思いながら、生きがいを感じながら、面倒くさい作業を延々と繰返したことだと思います。

 

七転八倒の「努力」をして完成させたモノだけが、素晴らしいものだというわけではないのですね。楽しく、生きがいを感じながら、ワクワクしながら完成させた作品もまた神品であります。

 

芸術作品というのは、実際は、こうした地味な「努力」の積み重ねで完成するものです。しかし当人にとっては、こうした「努力」は、「努力」だとは思っていない(^^;。しかし、それは「努力」でないようで、実は、「努力」なのですね。

 

本人が、「努力していません」といったところで、それは「努力」なのです。ただ、それは楽しい「努力」であるということです。「努力」が苦しいものだというのは決めつけなのですね。楽しい「努力」もあるのです。

 

だから、「悟り」の段階を登っていくという「努力」も、苦しい「努力」だとは限らないのです。苦虫を噛み潰したような顔をして、いかにも「苦行をやってます」的な修行者は、まだまだなのですね。イエス様は言いました。断食する時に、偽善者のように苦しそうな表情を見せるな、と。

 

偽善者たちは、人に見せるために、誇るために、苦しげな表情を浮かべるのです。で、人びとに、賞賛されたり、同情されたりして、それを見て、内心、喜んだり、「どうだ、俺はすごいだろう」という自惚れに酔いしれているのです。

 

彼らの断食の功徳は、人びとの賞賛や同情という形であらわれて、それが、彼らの「報い」となるのです。しかし、人に気づかれぬように断食した人は、隠れて見ておられる神様から「報い」をいただくのです。その「報い」は、天の倉に積まれる宝で、腐りもせず、盗まれる心配もない、本当の宝です。

 

パッと悟ったように見える人というのは、要するに、「努力」を他人に見せていなかっただけのことなのです。本当は、やっているけど、誰にも、その「努力」を気づかせない。だから周りからは、ある日、突然、悟ったように見える。それで、天才だとか言われるのですね。

 

本当にすごくなってくると慧能禅師のように、自分自身も、周囲も、自分自身の「努力」にまったく気がつかない。こうなってくると「無為にして為す」ですね。老荘の世界です(^^;。

 

ま、とにかく、天才とは、実際は努力家なのです。秀才は、努力を見せびらかすレベルです。天才は、努力を気づかせないレベルです。これは、陰徳を積んでいるのですね。人から賞賛されたら、積んだ徳は消えてしまうのです。だから、徳積みは、人に気取られないようにしたほうがいいのです。

 

秀才は、積んだ徳を、次から次へと使い果たしていくのです。天才は、陰徳を積むので、それは天の倉に蓄積されていくのです。

 

真の天才になってくると、「無為にして為す」状態です。「陰徳」もクソもない。何の策も弄さない。まるで赤子のような純粋な「努力」です。無為自然、自然法爾であります。だれも隣に神人がいるとは気づかないのです。本人さえ、自分が神人であることに気づいていない(^^;。

 

 

「類は友を呼ぶ」法則

 

 

天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、不調和な心をもっていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。

(旧版「太陽の法」より)

 

「類は友を呼ぶ」法則という法則があります。「似たもの同士が集まる」法則です。たとえば地上を見てみると、気圏、水圏、岩圏に分かれています。ごちゃ混ぜになっていないですね。空気は空気で、水は水で、石は石で集まっています。こういうのを「類は友を呼ぶ」法則というのです。

 

あの世の世界というのは、この「類は友を呼ぶ」法則によって、似た者同士が集まって、色んなグループに分かれています。一番シンプルな分類は、「神の心」に近いか、それとも離れているかという分類です。「神の心」との距離によって、分類できるのです。

 

たとえば、「神の心」に近い人びと。だいたい1メートル前後の人びと。2メートル前後、離れている人びと。3メートル、4メートル・・・。ま、こうした分類。

 

これが「悟りの段階」といわれている分類です。神の側近き人びとのグループから、神の心にそむく人びとのグループまで、その距離によって、整然と分類することができます。

 

近いほうから順に、九次元、八次元、七次元、六次元、五次元、四次元というグループに分かれています。この分類から、はみ出る者は、誰一人としていません。いかなる人物であろうとも、どこかのグループに属することになります。

 

人間という存在は、「神の光」「神の愛」を受ける「器」であるといわれています。九次元という神に最も近い人間は、要するに人間の「器」が、もっとも大きい人たちです。そしてその「器」に「神の光」をたくさん取り入れることができるということです。

 

「神の光」、これを「光子」といいます。つまり「器」の大きい人ほど、光子量が多いのですね。四次元の人よりも五次元の人のほうが、光子量が多いのです。五次元より六次元、六次元より七次元、といった感じで、神に近い人ほど、光子量が増えていくのです。

 

光子量を見れば、「悟りの段階」がわかるということです。あの世では、「類は友を呼ぶ」法則によって、光子量が同じぐらいの人びとが、集まってグループを作るのです。

 

これは、水平的な分類です。ま、イメージで行くと、7階建てのビルのような感じです。地下は地獄界です。一階は三次元、二階は四次元、・・・・・・七階が九次元です。

 

もう一つの分類方法があります。それは縦割りの分類です。神の七色光線による分類です。あの世は、頂点である神から、光が四方八方に放たれているのです。そして、その光は、九次元宇宙界で、七色に分光するのです。

 

この七色光線が、八次元世界から四次元世界までを、縦割りに分類しているのです。ま、七色といっても、実際は無数の色に分光されているのです。大雑把に見て七色だということです。

 

たとえば白色光線の人は、白色光線のもとにグループを作っています。この白色系の霊団が、九次元から四次元までを、縦割りに、貫いているのです。

 

このようにあの世は、碁盤の目のような感じで、横と縦の線で分類できるのです。あの世にも住所があるということです(^^;。たとえば、6次元の悟りで、白色光線の人ならば、その人が、あの世のどのあたりに住んでいるのかが、だいたい分かるということなのです。

 

このように、あの世では、「類は友を呼ぶ」法則によって、住み分けがあるといことです。だから、周りを見渡せば、だいたい自分と同じようなレベルで、同じようなタイプの人間ばかりがいるのですね。

 

だから、もし、心が堕落したら、その場にとどまることができません。「類は友を呼ぶ」法則が働いて、その人の心の段階に応じた、下のほうの住所に移動してしまうのです。もちろん、逆の場合もあります。進歩したら、上の階に移動していくのです。

 

もっとも、あの世では、心がガラス張りになっているそうです。誰に対しても、心を隠すことも、偽ることもできません。だから、あの世においては、通常、進化することはあっても、堕落することはありません。

 

堕落というのは、この物質世界が、起源となっているのです。この世での生活によって、人間は堕落し始めたのです、物質的なものに対する執着が、人間を堕落させていったのであります。

 

じゃ、人間を堕落させるための地上界なのか?というと、そうではありません。本当は、「調和」「進化」を目的に創られた世界だったのです。しかし「進化」していくためには、自由意志が尊重されなければなりません。

 

「悪を捨て、善を行っていく」という選択を、自由意志によって、繰返していくことが「進化」につながっていきます。自分の意志で選択して、実行していくことが「進化」につながるのです。従って、選択を誤ったときには、「堕落」するということなのです。つまり「進化」するためには、「堕落」「退化」のリスクを背負わなければならないということなのです。

 

だから、この地上を縁として、堕落した者もいるけれど、大きく進歩した者もたくさんいるのです。一長一短です。あの世というのは、「類は友を呼ぶ」法則によって、住み分けがあるので、同じレベルの者同士の中で、切磋琢磨して、魂修行を行っています。

 

ただ、こうした環境では、進化のスピードが遅いのです。これは、スポーツの上達と同じことです。たとえば柔道。自分と同じレベルの相手と練習するよりも、自分よりも強い人と練習したほうが、上達が速いのです。

 

自分よりも強い相手と練習するのは、ハッキリ言って、しんどいです。苦しいです。だけど、苦しい分だけ、急速に進歩する。地上界の不条理、理不尽、矛盾などによって生じる苦しさや悩みは、要するにスポーツの練習の苦しさと同じ役割を果たしているのです。地上の苦しさによって、魂が浄化され、急速に進歩するのです。だから、地上は、「魂の修行場」であるというのですね。

 

 

ゼロからのスタート

 

 

実在界においては、決して会うことのできない人びとが、この三次元世界においては、一堂に会する。そういうチャンスがあるのです。

(旧版「太陽の法」より)

 

あの世においては、周囲は、同レベルばかりです。ところが、地上は、いろんなレベルの人間が、一堂に会する場であります。たとえば、あの世で、九次元の大如来に会うことはありえません。あの世では、原則、下の世界から上の世界に行くことができないのです。上の世界から下の世界には、自由に行くことができるのですが、その逆は許されていないのです。

 

しかし、この世に、もし、九次元の大如来が生まれ変わっていたとするならば、私たちでも、会って、お話を聞くことができるのです。これも、この世に生まれることのメリットです。

 

たとえば、イエス様は、今から約400年後に生まれ変わってくる予定になっているそうです。考えてみれば、私たちが、イエス様と直接会うことができるのは、イエス様が地上に降りられたとき以外にないのであります。

 

だから、皆が、その時に生まれ変わろうとします(^^;。ものすごい競争率になるのですね。イエス様は、だいたい2500年周期で生まれ変わるので、2500年に一度のチャンスなのです。競争率が高くなるのは当然でしょう。

 

ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。自らの霊性、神性が試されるときなのです。自分の霊的なる覚醒が、はたしてほんものかどうかが、徹底的に試される場なのです。

(旧版「太陽の法」より)

 

このように地上というのは、九次元の大如来から四次元幽界の人びとまで、色んな人びとが集まって、魂修行をやっている世界です。河原に行くと大小さまざまな石ころが転がっています。よく見ると、どれも丸っこいです。

 

あれは、元から丸かったわけではありません。水の流れに洗われて、あるいは、石ころ同士が、動いて、こすれあって、角がとれて、だんだん丸く磨けてきたのです。あれは、色んな形の石ころがあるから、早く磨けるのです。

 

もし、縦・横・高さ、各一メートルの立方体の石ばかりが、河原に転がっていたとした、丸っこい石に磨かれるまで、何年かかるかわからないです(^^;。小さな石、尖った石、軽い石、硬い石、こうした色んな石が水で転がされ、大きな石を磨いていくのです。色んな石が、お互いにお互いを磨きあっている。だからこそ、河原の石ころは、角がとれて丸いのです。磨けているのです。

 

この地上は、「河原の石ころ磨き」の原理を採用しているのですね(^^;。色んな人びとが、地上という桶に放り込まれて、まるで里芋を洗うように、棒でグルグルとかき混ぜられて、それぞれが磨き合っている状態です。色んな人びとがいるからこそ、相互に磨き合えるのです。角の多い人ほど、ゴシゴシやられます(^^;。その時は、痛くてつらいけど、磨かれてくると、摩擦が少なくなってきて、住み心地がよくなっていきます。

 

ま、天国の快適な環境では、決して味わえない過酷な特訓コースなのです。もう一つは、証明の場、試しの場、という考えもあります。つまり、あの世で修行して、ワン・ランク・アップしたとします。しかし、それが本当に身についたかどうか、この世で試したい、証明したい、という考えもあるのです。

 

地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。

(旧版「太陽の法」より)

 

たとえば、地獄霊というのは、この世に生まれ変わることができません。許されていないのですね。地獄霊は、あの世で、最低でも、四次元幽界上段階の悟りを得て、地獄界を脱出しない限り、地上に生まれ変わることができないのです。

 

さて、地獄界で反省して、何とか悟って、地獄を抜け出したとします。これで、ようやく、人間として、やりなおすチャンスをつかむのです。

 

彼らにとっては、地上というのはチャンスの場なのです。なぜなら、地上には、「悟りの段階」がありません。八次元、九次元の如来だったとしての、この世に生まれたら、ゼロからのスタートです。元地獄霊も、八次元霊も、この世にオギャーと生まれた出た時点では、まったくの平等のチャンスを与えられているのです。これは、地獄で苦しんできた人にとっては、本当に大きなチャンスだと思います。

 

そうです、セロからのスタートです。「今度こそ、立派な人間として生きてみせる!」これを証明する場所、この世には、そういった人生のやりなおしという役割もあると思います。

 

 

日々の進歩

 

 

悟りの方法とは、結局のところ、神仏の境地と、自分の境地とが、融合されていくための手だてなのです。神仏の心を心として生きるには、どうしたらよいのかという方法なのです。神理にそった生き方とはなにかを探ることなのです。

そのために、ひとつには真説・八正道の道があり、いまひとつには、愛の発展段階説があるのです。

(旧版「太陽の法」より)

 

「悟り」とは、「一歩、神様の心に近づくこと」だと思います。一歩でも半歩でも、神様に近づいたという実感を得たならば、それは一つの「悟り」であると思います。これは「小悟」ですが、これを積み重ねることが、いつか「大悟」につながっていくと信じたいのです。

 

その方法論が、「八正道」と「愛の発展段階説」です。「自己反省」と「自己観照」、この二つのモノサシで、「悟り」に一歩ずつ近づいていく。倦まず弛まず、一歩ずつ前進していく。日々のわずかな一歩が大切なのです。

 

「水滴、石を穿つ」と申します。石に穴をあけるのは、最後の一滴ですが、その一滴だけが偉いのではないのです。それ以前に飛び散って玉砕していった、すべての水滴の力があってこそ、最後の一滴が、石を穿つことができたのです。

 

お花には、毎日毎日、水をやることが大切なのです。面倒なので、今日は、一週間分やりました。このほうが、合理的、効率的ですから・・・・・・(^^;。これでは、話になりません。一歩でも半歩でもいい。毎日毎日のわずかな一歩が、最後に岩を打ち抜く。最後に花を咲かせる。

 

今日の一歩だけを見れば、たいした成果でもないだろう。やってもやらんでも、あまり意味がなかったかもしれない。しかし、10年分それが積み重なった時、決してバカにすることができなくなってくるのです。「継続は力なり」、「ローマは一日にして成らず」であります。

 

「蟻の一穴、天下の破れ」です。小さな努力の積み重ねが、いつか岩を打ち抜く。それは小さな穴で、取るに足らない成果のように思うかも知れない。しかし、千丈の堤も蟻の小さな穴が原因で崩れ去っていくのです。

 

小さな一歩と嘆くなかれ。その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ!であります(^^;。なにごとも相乗作用というものが働くものです。小さな一歩の積み重ねが、相乗作用で、ある時を境に、急激に大きな力となっていくものなのです。

 

ものごとが変化して行く時、急に変化のスピードが早まる時点を「シンギュラーポイント」といいます。たとえば、水を一定の火力で加熱していくと、90度までは一定の上昇率で温度が上昇していくのですが、それ以後は、上昇率が激変して、一気に沸点に達します。

 

これは、一歩一歩の積み重ねが、シンギュラー・ポイントを境に、劇的に大きな力に変貌していく例であります。

 

私たちの一歩一歩も、空しい努力のように思えるかもしれませんが、いつか必ず、シンギュラー・ポイントにさしかかる時が来るのです。そして運命の歯車が大きく動き始めるのです。その時が来ることを信じ、頑張っていきましょう。

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大和春道撰寫:
さらんさん、コメントありがとうございます。こちらこそいつもいつも癒されております(^^)。
 
今回は、ちょっと「ことわざ」を多用してみました。このまえ、古本屋さんで、安く、「ことわざ辞典」を手に入れました。それで、使ってみようかなと(^^;。
4 月 22 日
♡さらん♡撰寫:
こんにちは 大和さん。
「悟り」「ゼロからのスタート」・・・いろいろ思いました。分かりやすく書いて下さって、いつもスッ~と心に入っていきます。感謝です。
お花に毎日お水をあげる
その積み重ねがいつか美しい花を咲かせるように・・・
いつか人生のシンギュラー・ポイントを迎えて大きく花開きたいものなのです。。
その時まで強くなりたいです。
いつも「ありがとうございます。」本当に 心のオアシスのようなこのブログです。応援します。
4 月 22 日

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