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    悟りへの道標 その2 00103

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    悟りへの道標 その2

     

     

    阿羅漢

    自己確立・自己完成の段階

     

     

    現在、日本をはじめとする世界の各地に、さまざまな宗教家がおりますが、まず、その人の心と行いをよくごらんなさい。たとえば、自分のことばが批判されると、すぐ激情に走る宗教指導者や、やたら地獄に堕ちるぞとか、罰があたるぞとかいって、目をつりあげて信者をおどし、金銭をまきあげている宗教指導者たちは、決して阿羅漢の境地に達していないのです。阿羅漢の境地とは、光の天使となるための第一段階です。ですから、心が、地位欲、名誉欲、金銭欲、情欲、怒り、にくしみ、愚痴に揺れているようでは、決して天来の宗教指導者とはいえないのです。

    まず、基本的な悟りの方法としては、この世的なことで心が揺れず、心がつねに清明で、自らの守護霊と通じあい、他人の気持ちが手にとるようにわかる段階、すなわち、阿羅漢の境地をめざすべきであります。

    (旧版「太陽の法」より)

     

    阿羅漢の境地とは、神仏への確固とした信仰が根づき、この世的な波風に動じない不動心ができ、守護霊の指導を受けて、日々生活をし、そのなかで接する他人の気持ちが見すかすようにわかる段階です。すなわち、人間としては、かなり完成してきた段階であり、宗教人としても、一般の人びとを指導することができる段階です。

    (旧版「太陽の法」より)

     

    阿羅漢(あらはん、あらかん)とは、六次元神界上段階の「悟り」の境地です。この「悟り」までは、我々凡夫であっても、到達することができるそうです。ここから上の「悟り」の段階にいたるのは、相当、難しいようです。

     

    阿羅漢の境地は、菩薩への登竜門だと言われています。七次元菩薩界は、人びとを、宗教的な意味で救済していく段階に入っている人びとの世界です。人を救うためには、まず、自分自身が救われていなければなりません。自分が溺れているのに、他の溺れている人を救うことはできないのですね。

     

    他人の目のゴミを取り除こうとする前に、まず己の目の中にある丸太を取り除く必要があるのです。盲目の人が、盲目の人を導くことはできないのです。それをやろうとするから、二人とも穴に落ち込んでしまう。だから、まず、自分の目を開くことである。人を救う前に、まず、自分がある程度、救われている必要があるのです。

     

    菩薩の「悟り」に入るには、最低限、「自己確立」できていないとダメなのです。阿羅漢の「悟り」とは、「自己確立」が目安です。自分づくりができた状態、これが阿羅漢です。だから、菩薩の登竜門と言われているのです。

     

    そして、世のため人のために「愛行」を積み重ねていくことで、やがて阿羅漢の「悟り」から、菩薩の「悟り」に入っていくことができるのです。まず、自分が救われていてこそ、人を救っていくことができるのです。「小乗あっての大乗」なのです。

     

     

    霊能力は必要か?

     

     

    阿羅漢は、想念帯の曇りが浄化されて、己の守護霊と直接交流できる段階です。「霊道が開けた」状態です。「霊道を開く」とは、想念帯に亀裂が入って、守護霊と交流できる状態です。異言を話したり、霊能力を使えるようになります。

     

    もちろん阿羅漢の全員が、守護霊と交流できるわけではありません。しかし、交流できなくても、インスピレーションの形で、守護霊からの通信を受け取っているはずです。心が澄んできているので、インスピレーションを受けやすい状態になっているのです。霊道を開いていない阿羅漢というのもあるのですね。

     

    「八正道の生き方が深まってくると、霊道が開く」という教えがあります。

    この教えを根拠にして、

    「あなたは霊道が開いていないから、八正道の生き方ができていませんね」とか、

    「霊道が開いていないから、あなたは、まだまだ阿羅漢の境地ではないですね」とか、

    こういう見方で、人を判断する人が、時々います。

     

    このようなことをいう方の心を分析すると、こうです。

    「わたしは霊道を開いていますよ。それは、八正道を実践しているからです。あなたが開いていないのは八正道を実践していないからです。私のほうが上ですね」・・・・・・

    ま、こういう優越感と見下しの心が、見えるのです。

     

    でも、それは、ちょっと違うのではないかな?と思います。「霊道を開く」ことは、おまけなのですね。キャラメルのおまけです。ところが、おまけ好きな人間は、おまけでキャラメルを判断しようとするのです(^^;。

     

    霊道を開いていなくても、正しい生活をしている人もいるし、「六次元神界上段界の悟り」(※阿羅漢と同じ境地)に達している人もいるのです。霊能力の有る無しで、人の「悟り」の段階を判断しようとすると、大きな勘違いをしてしまうことがあるので、注意したほうがいいと思います。

     

    ハッキリ言うならば、霊能力など、一般人には必要ないのです。我々は、本来、霊的存在でありますから、全員が本来、霊能力者なのです。あの世に帰れば、全員、嫌でも、霊能者です(^^;。

     

    この世にやってきたのは、その霊能力を、あえて封印して、どこまで立派に、この地上で生きることができるかを証明するためです。それなのに、霊能力を得て、どうするつもりでしょうか?未来でも予知して、カンニングして、ズルして、優等生になるつもりでしょうか?これはセコイですね(^^;。

     

    宗教家になる人ならば、霊能力も必要なのかもしれません。しかし、我々には、必要ないのです。

    「人生は一冊の問題集」と申します。

    霊能力というカンニング・ペーパーは、不要なのです。そんなものを持ってしまうと、逆に、本来の目的から逸脱してゆくのです。行者や拝み屋の末路は、哀れだといいます。それは、霊能力を正しく使いこなすことができなかったからです。

     

    心のできていない人は、霊能力に振り回されてしまうのですんね。自己確立のできていない人間が、霊能力を持つことは、狂人に刃物を与えるようなものです。周囲を混乱させ、己も地獄霊や動物霊に憑依されていくのです。非常に恐ろしいことなのであります。

     

    阿羅漢の堕落は、増上慢が原因となることが多いそうです。なぜ、増上慢になるのか?それは、霊能力を誇る気持ちがあるからです。人にできないことが、俺にはできる。こうした驕りの心と、他を見下す心が、生まれてくるのです。

     

    また、まわりから「先生、先生」とおだてられるので、いつしか有頂天になってしまう。「俺ほど偉い奴は、他にはいない」。増上慢とは、本当に恐ろしいものです。魔は、増上慢の匂いが大好きなのですね。すぐに嗅ぎつけて、忍び寄ってくるのです。ハイエナのようなものです。

     

    とにかく、必要ならば、あってもいいですが、この世に生まれてきた理由を考えれば、通常の人には、霊能力は必要ないのです。だから、いたずらに、求めるのは、慎むべきなのです。何のために求めるのか?それを深く胸に問い掛けてください。「何のために欲しいのか?」。

     

    多くの人を救うためですか? それはウソですね(^^;。本当の理由はなんですか?・・・・・・。

     

    おそらく、

    他人に見せびらかしたいのです。

    尊敬のまなざしを感じたい。

    何か誇れるものが欲しい。

    一般人から抜け出したいのです。

    「先生」と呼ばれたいのです。

     

    もし、わずかでも、こうした、つまらない気持ちが残っているのならば、霊能力など求めてはいけません。間違いなく堕落していくでしょう。

     

    その人が、霊能力を欲しがっているうちは、霊能力は与えられないほうが、その人のためなのです。

    その人が、「もう霊能力なんて必要ない」という心境になったとき、霊能力を授けてもよいのです。

    しかし、その人にとって、もう必要ないのだから、授ける必要もないのです。結局、一般人には、霊能力は必要ないということです(^^;。

     

    霊能力を求めて、八正道をやるようなことでは、本末転倒です。八正道は、自分づくりの道です。人間完成の道なのです。安らぎの心境をめざす中道の生き方です。

     

    「正法神理」好きの人には、霊能力をありがたがる人が、どうも多いような気がします。僕は、それは、ちょっと違うのでは?と思っています。霊能力は、あっても無くても、関係ない。八正道の「正定」においても、守護霊との交流は、あっても無くても、どちらでもいいのです。

     

    大切なのは、自分で考えて、自分で決めて、自分で行って、自分で責任を取ることです。自分の足で立つことです。自分を完成させることです。この生き方の一体どこに、霊能力が必要となってくるのでしょうか?

     

    霊能力を否定しているわけではないのです。あってもかまわない。しかし、頼らない。そんなものに頼っている限り、自分を作ることなど、永久にできないのです。

     

     

    阿羅漢の転落

     

     

    阿羅漢の境地は、自分づくりが、ほぼ完了した状態です。しかし、まだまだ転落の可能性が残っています。というのは、まだ、菩薩や如来といった高級霊の心が、十分に理解できていないからです。

     

    まだ、「心のモノサシ」が確立されていない。「心のモノサシ」とは、要するに神様の御心です。これが、まだ、十分に理解できていない、未熟な状態です。「正法神理」の理解が、まだ浅いということです。だから、異説、邪説のどこが間違っているのかを、見抜くことができない時があるのです。

     

    あるいは、正しい教えであっても、それが、どの程度のレベルの教えなのか?この判断がきっちりできないことがあるのです。それは、七次元、八次元の基準を、完璧に理解していないからです。だから、異説や邪説に惑わされたり、正しい教えを、邪説だと攻撃してしまったりして、転落していく場合があるのです。

     

    もう一つの原因は、「増上慢」「慢心」であります。阿羅漢は、まだ不退転の境地ではないのです。また、不動心も完璧ではありません。まだまだ、心が揺れるのです。「先生」と呼ばれては、調子に乗り、批判されると、腹が立つような状態です。だから、心の曇りを取り除く作業を怠ってはならないのです。

     

    守護霊と同通して、「もう悟った」と安心してしまって、「反省」をおろそかにして行く人が多いようです。それは「慢心」ですね。やはり、「反省」は、一生続くものです。本当は、阿羅漢の時期こそ、もっとも注意するべきなのです。

     

    というのは、想念帯に亀裂が入っているので、あの世の影響をダイレクトに受けるようになっているのです。つまり、地獄霊からの影響もダイレクトなのです。 

     

    霊道が開いていない人間が、反省を怠ったとしても、まだ、被害は少ないのです。しかし、阿羅漢が、心を揺らしているにもかかわらず、反省を怠っていると、あっという間に、地獄霊たちに蹂躙されていくのです。

     

    心の窓が開いているから、地獄霊が入り込んでくるのです。大変なことになるのです。完全憑依されて、廃人同様になってしまった人が、大勢いると聞いています。

     

    だから、阿羅漢こそ、特に「反省」が重要となってくるのに、その大事な時に慢心して、反省を怠ってしまう。そして転落していくのですね。高い悟りだけに、転落する時は、まっ逆さまです。真下に落ちていくのです。恐ろしいことです。一歩後退というような生やさしいものじゃないのです。完全憑依されてしまえば、谷底までまっ逆さまです。

     

     

    真の謙虚さ

     

     

    「先生」と呼ばれることは、本当に恐ろしいことなのです。いい気になってはいけない。偉そうになってはいけない。

    常に、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の気持ちを忘れてはいけないと思います。

     

    偉くなればなるほど、「謙虚」さが大切になってくる。偉くなって傲慢になったら、もう終わりです。また、「謙遜」を気取るのもいけません。「謙遜」や「謙虚」を売り物にしてはいけないのです。

     

    本物の「謙遜」でなければダメです。「謙遜」のフリをして、実は心の中が、傲慢であるなら、それは偽善者です。単に傲慢な人よりも、さらにタチが悪い。本当の「謙遜」、本当の「謙虚」。この意味を常に考えておくことです。

     

    世の中の、先生と呼ばれている方々に、一度、聞いてみたいものです。「お弟子さんたちの、足を洗うことができますか?」と。イエス様は、最後の晩餐の時に、十二弟子全員の足を洗っているのですね。そして、こう言います。

     

    わたしがあなたがたにしたことが分かるか?あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

    (ヨハネ13.12-17)

     

    壇上に立って、ふんぞり返って、「互いに愛し合え」だの、「謙遜が大切である」だのと、お説教するのは、簡単なのですね。しかし本当の「謙遜」を教えたいのなら、先生自らが、率先垂範して、模範を示さなければならないのです。

     

    たいていの先生は、「足を洗えだと?そんな屈辱的なことができるか!」と怒り出すと思います(^^;。しかし、もう、そこに傲慢さが見えているのです。

     

    「謙遜」「謙虚」を説いている偉い先生が、実は「傲慢」なのですね。「傲慢」な人が、お弟子さんたちに「謙遜」を説いている。こんな矛盾はないのです。弟子の足を洗うことが、屈辱的と感じるようならば、「先生」などにはなってはいけないのです。

     

    本当の「謙遜」を、率先垂範の姿でもって、お弟子さんたちに教えることができないような偽善的な先生は、必ず、道を誤っていくのです。引き返したほうが、その人のためなのです。「先生」と呼ばれて、いい気になって、地獄に落ちるぐらいならば、踏み止まって、田舎に帰って、大根でも引っ張り抜いているほうがいいのです。

     

    高橋信次先生も、集会などの時に、隠れて、トイレ掃除をしたり、お弟子さんたちの靴をキレイに揃えたりしていたそうです。隠れてやっていたけど、ま、結局、見つかってしまって・・・。私たちも、そうした出来事があったということを知ることができて、よかったと思います。

     

    いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。

    (マルコ9.35)

     

    このように、本当の先生というものは、真に「謙虚」であります。真実の「謙遜で」あります。「謙遜」とか「謙虚」を薦めるからといって、それは、卑屈になれとか、引っ込み思案になれとか、消極的になれとか、そういう意味ではないのです。

     

    本当に「謙虚」な人は、自分に自信を持っているから、「謙虚」になれるのです。ある程度の自信ができた時、「謙虚」の意味がわかってくるのです。もちろん、己の「分際」を知って、身の程をわきまえるという意味での「謙虚」もあります。しかし、それを超えて、自信という裏打ちのある「謙虚」さにまで高めていくことも大切なのです。

     

    本当に自信のある人は、もう、人の評価なんかどうでもよくなっているのです。弟子の足なんか洗ったら、なめられるかも知れない、なんて思わないのですね。トイレが汚れていたら、からだが勝手に動いて、トイレを掃除している。

     

    自信があるからこそ、目立つ必要がない。大物ぶる必要もない。人の評価など、どうでもよくなっているからです。これは、要するに「人を相手にせず、天を相手にする」境地ですね。

     

    相手が、ホームレスだろうが、大統領だろうが、心に何の引っかかりもなく、自然に礼の心を、表現することができる。自信があるからこそ、卑屈になる必要も、恥じる必要も、強がる必要も、目立つ必要も、傲慢になる必要もない。ありのままでいられる。

     

    「俺は強いぞ、なめるなよ」

    「もっと目立ちたい」

    「俺は偉いんだ、お前らとは次元が違うのだよ」

    こうした気持ちや態度は、自信がない心の裏返しなのですね。吠える犬よりも、黙っている犬のほうが、本当は怖いのです。

     

    強いから、やさしくなれるのです。強さという裏打ちのないやさしさは、本当のやさしさではないかもしれません。自分の弱さを許して欲しいから、他人の弱さも許す。これも素晴らしいことです。しかし、いつか、それを超えていかなければならない。それを超えたときに、本当のやさしさを知ると思います。

     

    本当に自信のある人にとって、怖いものがあるとするならば、それは神様の目だと思います。お天道様です。あるいは自分自身の良心。それらに恥じるところがないのならば、「千万人といえども、われ行かん」、こうした境地に達しているのだと思います。

     

    ここまでくれば、そう簡単に転落しないだろうと思うのです。どうか、本当の「謙遜、」本当の「謙虚」というものについて、じっくり考えていただきたいと思います。

    Kommentarer (2)

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    さらんさん、コメントいつもありがとうございます。
     
    ちなみに、僕は、こんなこと書いていますが、できていませんので(^^;。こういう方向性でがんばりたいなという希望だけは持っているのですが、心と体がついていってません・・・。反省です。
    26 Apr
    『人を相手にせず 天を相手にする 境地』ですかぁ~。。・ 
    本心良心の基準が相当要されるのですね・・・
    難しいですね^^;
     
    田舎に帰って、大根でも引っ張り抜いているほうがいいのです。
     
    本当に、そう思いました^^;笑 
    常に反省ですね。

     
    25 Apr

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