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悟りへの道標 その3 00104>メインページへ 20060427 00104 悟りへの道標 その3
如心
さて、真の謙虚さをもって心を磨きつづけ、かつ、「利他行」に邁進する阿羅漢は、やがて次の境地へと進化していきます。その段階は、「如心(にょしん)」と呼ばれています。もはや、利己主義、自己中心性を卒業しています。ほぼ「不退転」の境地です。如心の段階に達すると、もう退歩することはない、といわれているのですね。そうした状態になったことを「不退転」といいます。しかし、現実には、如心の段階であっても、転落はあるのです。
ルシフェルという大天使が、今から一億二千万年に、地上に生まれ変わった時に、堕落してしまったそうです。その時の、地上での名はサタン。そう、地獄界の帝王サタンとは、かつての光り輝く大天使ルシフェルだったのです。彼が地獄に落ちた原因は、何だったのか?彼は、なぜ天上界で、叛乱を起したのか?
経文には、このように書かれています。実際は、「嫉妬」が、原因だったのではないかといわれています。大天使ルシフェルは、偉大なるエル・ランティに嫉妬していたのではないかといわれているのです。
大天使ルシフェルは、八次元如来界最上段階、すなわち「太陽界」の人だったそうです。もう、九次元宇宙界に片足を突っ込んでいるような存在だったのです。通常、そこから転落するなどということは、考えられません。しかし、それが起こってしまったのですね。僕も色々と、その理由を考えてみたのですが、やはり、嫉妬かなと・・・・・・。サタンは、地上で栄華を極め、自分自身を、エル・ランティと対等の存在だと思うようになっていったと思います。しかし、心の奥では、対等でないことを知っているのですね。だから、自分のほうが、上であることを証明しようとして、躍起になって、色々とやっているうちに心を狂わせてしまったのではないだろうか?
「増上慢」は、己のほうが上だと思い込んで、他を見下す思いです。「慢心」ですね。七次元菩薩界の悟りに入るためには、この「増上慢」と、徹底的に戦わなければなりません。これが阿羅漢転落の最大原因だからです。そのためには、真の謙虚さというものを身に付けなければならないのです。
ところで、「増上慢」と戦っている時というのは、心を低くしよう、低くしようと、常に心掛けているので、他人に「嫉妬」するということがないのですね。だから、「増上慢」に打ち克って、菩薩の悟りに達したけれど、「嫉妬心」というものは、実は、まだ克服していないのです。「名誉欲」と「嫉妬心」、これが、実は、残っているのです。でも、菩薩の段階では、心がへりくだっているから、「名誉欲」も「嫉妬心」も押さえつけられていて、表面には、浮かび上がっていないのです。
ところが、頂上まで登り詰めて行くと、「名誉欲」「嫉妬心」が、ムクムクと湧き起こって来るようです。如来の段階でも、まだ「名誉欲」「嫉妬心」が、克服されずに、残っているらしいのです。この心を克服してこそ、本当の如来だといえるのだと思います。菩薩の場合は、如来との実力差を、はっきり知っていますから、如来に対して嫉妬することはありません。あまりにも差があり過ぎると「嫉妬心」なんて湧いて来ないのです。
「嫉妬心」は、嫉妬している相手の立場に、自分も立つだけの力があると思っているときに、湧き起こって来るそうです。もしかしたら負けているかもしれないけれど、それほど変わらないと思っている。あるいは、自分では、同等以上と思っているけれど、運悪く、不遇にも、自分がその地位に立つことが、できていないと思っている。こういう時に、「嫉妬心」が出てくる。「嫉妬心」「名誉欲」というのは非常に近いですね。まず「名誉欲」が出て、自分が立ちたいと思っているその立場に立っている人に対して、起こってくるマイナスの想念、それが「嫉妬心」だと思います。これは、「増上慢」、「慢心」とも少し違うと思います。かなり複雑な心境です(^^;。
自分とそれほど変わらないレベルだと思っている相手がいたとして、自分では、「俺のほうがすごいだろう?」と、思うのですが、でも、周囲は、相手ばかり絶賛して、自分を評価してくれない。こうした時、どうも、納得できない。そして、ライバル意識を燃やし、頑張ってみる。それでも、やっぱり周囲が同レベルに見てくれない。で、嫉妬心が生まれる。そして、心を歪めていく、いつしか、相手に憎しみさえ覚えていく・・・・・・。逆恨みです。そして相手を否定してしまう。攻撃してしまう・・・・・・。「彼なんて、たいしたことないですよ。わたしのほうがすごいです」、こういうことを言い出します。ま、これでは、あまりにも絵に書いたような転落ぶりですね(^^;。実際は、もっともっと複雑で、深遠な意味が隠されていると思いますが。・・・・・・
では、「嫉妬心」「名誉欲」といった、大如来ですら持て余すというこの煩悩を消し去るにはどうすればいいのか? 「嫉妬心」も「名誉欲」も、結局のところ、「もう少し上に見られたい」という思いが、根っこにあると思います。本当ならば、そうした気持ちを「向上心」に転化して、さらに努力精進していくべきなのです。しかし、それを「嫉妬心」「名誉欲」に転化してしまうと、間違っていくようです。また、どれだけ偉くなっても、「謙虚」「謙遜」の気持ちは、忘れてはならないものだと思います。これは基本中の基本ですね。
一つ、「黄金の法」から、おもしろい例を紹介しておきます。
このように「嫉妬心」というのは、光の天使でさえも狂わせてゆくのですね。非常に厄介なシロモノであります。光の天使カール・マルクスの心の中に、2000年間も、プラトンに対する「嫉妬心」がくすぶり続けていたのですね。それほど、「嫉妬」というものは、強烈なものなのです。
ちなみに、先ほどから言及している「嫉妬」ですが、男女関係で芽生える「嫉妬」のことではありません。これもあまり褒められたことではありませんが、大如来でさえ転落させてしまう「嫉妬心」とは、優秀なものに対して芽生える「嫉妬心」です。少し意味合いが違っています(^^;。
話がかなりそれてしまいました(^^;。しかし重要ポイントです。大天使でも、堕ちるということ。九次元宇宙界の救世主でも、堕ちる可能性があるということです。今までは、救世主は、絶対に堕ちないと言われていました。しかし、実際は、そうではないのですね・・・・・・。まして「如心」の境地ぐらいで、「不退転」だと自惚れてはならないと思います。いや、どこまで行っても「不退転」などないと思っておいたほうがいい。
「不退転」には、もう一つの意味があります。それは、「究極の『悟り』に到達するまで、努力を怠らない」という意味です。不退転の決意とかいいますよね。たとえ、菩薩や如来の境地に到達して、「もう不退転だから」、と安心してしまわないで、もっともっと努力精進を続けていく。これこそが、本当の意味の「不退転」ではないでしょうか。
「如心」の境地とは、霊道を開いた七次元菩薩界の心境であります(※広い意味では、如来界の悟りをも含む)。六次元神界という「小乗」の段階、自分づくりの段階を通り越して、「大乗」の段階に入ってきているのです。「小乗」とは、一人乗りの仏教です。自分を救う仏教です。「大乗」とは、大勢の人びとを乗せて、全員救っていく仏教です。菩薩の段階とは、自己確立を終え、とうとう衆生済度のため立ち上がった段階、ひたすら利他行に励む段階です。つまり、これが「如心」の境地なのです。
さて、「如心」の境地が深まっていくと、次は「観自在」という境地に進化していきます。「観自在」の一歩手前ぐらいの「如心」の境地では、遠隔地の人のことであっても、名前を見ただけで、その人のことが、手にとるようにわかるそうです。その人の心境や、過去・現在・未来などが、一瞬でわかるそうです。あるいは、同時に多人数の人の心を読み取ったりすることもできるようになってくるそうです。ここまで来ると、修行者として、ほぼ完成されてきたといえるでしょう。
観自在
では、修行者として、ほぼ完成された状態とはいかなる状態か?それが、「如心」よりも高い「観自在(かんじざい)」という心境です。悟りの段階でいうと「梵天(ぼんてん)界の悟り」です。あの世の「悟り」の段階というのは、細かく分類していけば、いくらでも細かくすることができます。たとえば、七次元菩薩界でも、細かく分ければ、下段階、中段階、上段階、上々段階、というふうに分けていくことができるのです。キリがないから、一まとめにして、菩薩界と呼んでいるのですね。
梵天界というは、八次元如来界と七次元菩薩界の中間の世界です(※中間の世界というより、七次元最上段階から八次元の下段階にまたがって存在する世界)。だから、八次元側の梵天界と七次元側の梵天界があるのです。それをひっくるめて、梵天界といいます。ま、こういうのは、実にわずらわしいのですが、一応説明しておかないと、後でよけいにややこしくなるので、我慢してください。
さて、「如心」の段階では、まだ、霊能力に安定感がないのです。人間的な苦悩によって、心境が乱れていくのです。心境の澄んでいる時は、素晴らしい霊能力を発揮できるのですが、乱れている時は、凡人に近くなっていきます。こうした不安定な時期なのです。これが、さらに修行が進んで行くと、人間的苦悩が克服されていって、心境が常に安定している状態になっていきます。当然、霊能力の発揮という面でも安定感が出てくるのです。そうした状態が「観自在」の境地です。そうした人のことを「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」(アポロキシティー・シュバーラー)といいます。この境地に達してもいないのに、「我は、アポロキシティー・シュバラーである」などと思っている人がいますが、これは「勘違い菩薩(かんちがいぼさつ)」といいます(^^;。
「観自在菩薩」は、六大神通力そなえています。
こうした霊能力は、何度も言いますが、オマケです(注1)。「悟り」の副産物であります。あっても無くても、どちらでもいいのです。霊能力を得るために、修行している人もいるようですが、根本的に間違っています。霊能力は、あくまでもオマケであると強調しておきたいと思います。これは霊能力を否定しているわけではないのです。霊能力を、人びとの幸せにつながるような形で、発揮することは、素晴らしいことだと思います。しかし、己の利益のために、霊能力を使うことは間違っています。これを自制できるかどうかです。できないのなら、霊能力などないほうがいいということです。利己的な目的のために使えば、必ず魔が入ってきます。それが恐ろしいのですね。
霊能力を持っていながらも、通常人とまったくかわらない生活ができるのなら、「偉大なる常識人」として生きていくことができるのなら、霊能力も大いに結構です。そうした人は、その霊能力を、人びとの幸せのために、存分に発揮していただきたいと思います。
たとえば、霊能力で、相手の未来が見えたとします。不幸な未来です。さて、どうしますか?相手に「あなたは半年後に交通事故で死にますよ」と、見たままを伝えますか?そういうのを「不幸の予言者」といいます。他人の不幸ばかり予言して、「当たった、当たった」と喜んでいる霊能者です。こういう霊能力の使い方は、最低です。予言されたほうは、悲劇です。よく当たる霊能者に「半年後に、死ぬ」と予言されて、幸せになる人がいるでしょうか?
いないですね(^^;。本当の霊能力者ならば、そうした未来が見えたときは、その未来を回避する方法を、相手に伝えなければならないのです。単に未来の不幸を見るだけでは、意味がないのです。その未来の不幸を、どうすれば、回避できるのか?これを見抜かなければ、誰をも幸せに導くことができないのです。
「先祖が迷っておる!不幸な未来の原因は、そこにある。先祖供養のために、100万円持ってきなさい。そうすれば交通事故は回避されるだろう!」、・・・・・・こういう金儲け主義のアドバイスはダメですね(^^;。
そんなことでは、未来の不幸は回避できないのです。なぜ、その人が交通事故にあうのか?その原因を見抜くことが大切です。この世は、あの世の「うつし世」といって、まずあの世で事件が起きて、それがこの世でも起きてくるのです。だから、あの世の事件を見る力のある者は、予言することができるのです。
しかし、あの世の事件には、「確定的事件」と「流動的事件」の二種類があるのです。もし、半年後の交通事故が、「確定的事件」ならば、それを避けることは、なかなか難しいでしょう。しかし、「流動的事件」の場合は、その時点では、半年後そうした事故が起きる可能性が高いのですが、地上の人の努力精進によっては、その事故が起きなくなっていく場合があるのです。
こうしたことを総合的に見て、もっとも適切なアドバイスをして、その人をできるだけ幸せにしてあげることが、霊能者の役割なのです。未来を見て、それを告げるだけなら、意味がないのです。人を幸福にしてこそ、霊能力に意味が出てくるのです。事故を回避することができないのなら、そうした不幸の予言はしないほうがいいのです。そんなことよりも、「正法」の生き方を説くことのほうが大切なのです。
仮に半年後、確実に死ぬとしても、それまでの半年間、その人が、正法を学び、正しい生活ができたならば、その人は幸せだと思います。おそらく運命も変わっていくはずです。「確定的事件」であっても、奇蹟が起こってくる場合があるのです。人間には不可能でも、神様には不可能なことがないのです。神様が変更したら、「確定的事件」も起こらなくなっていくのです。決してあきらめてはいけない。
「どうせ、この人は、半年後に死ぬんだから、正法を教えても無駄だ」、このような自分勝手な判断で、何もしないのならば、そんな霊能者は、本物の霊能者とはいえないのです。1%でも可能性があるのなら、その可能性にかけてみるべきなのです。たとえ可能性がなかったとしても、正法を知ることで、運命を乗り越えていくことができるはずです。
「もし明日、世界が滅ぶとしても、今日、私は林檎の木を植える(byマルチン・ルター)」という言葉があります。こうした素晴らしい心境にまで、相手のかたを導くのが、霊能者の本当の役割なのです。いい加減な気持ちで霊能力を使ってはいけないのです。 댓글 (2개)
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