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悟りへの道標 その4 00107>メインページへ 20060501 00107 悟りへの道標 その4
一即多・多即一(いちそくた・たそくいち)
人間の本質は「霊」であります。霊とは、形なきエネルギー体であり、知性であります。しかし、これは知識でありまして、当然、菩薩の人びとも知っていることです。知っているけど、菩薩界での彼らの存在形態は、肉体と同じような感じで、「光子体」というボディをまとっているようです。まだ、「からだ」というものにアイデンティティーを感じているということです。
しかし、如来界の人びとは、霊の本質を、単に知識としてだけではなく、生活実感として知っているそうです。もう「光子体」というボディに執着していないのです。巨大な「光」として、姿、形なき「知性」として存在しているようです。しかし、もし、地上の霊能者が、幽体離脱して、如来界を訪問してきた場合、彼らの認識のレベルにあわせて、如来たちは、過去世の人間的な姿に変身して(^^;、霊能者を迎えるようです。自由自在です。
そういうことを知らない霊界探訪者は、地上に戻ってから、「如来界の霊人は、こういう服を着て、こういう家に住んでいて・・・」、といった感じで、報告するのですが、実際は、そういうビジョンを見せられているだけなのです。如来の本当の姿は、姿、形なき知性、エネルギー体なのであります。
難解ですね(^^;。 さて、如来界の法則は、「一即多・多即一」の法則だといいます。「一即多・多即一」とは何か。これは、非常に難しい考え方だと思います。大乗仏典の「華厳経」の思想です。一大蓮華の中に、無数の世界があって、中心には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が座している。そして、無数の世界の一つ一つにも仏が現れて、衆生に法を説いているそうです。一大光明の世界です。
大蓮華の花びら一枚一枚に1つの世界があるのですね。たとえば、ある一枚は、私たちの太陽系です。そうした世界が、百も二百も千もある。中心の毘盧遮那仏とは、太陽神です。大日如来ともいいます。日本でいうなら天照大神。エジプトならアモンでしょうか。
その太陽神が、それぞれの世界に分光していって、仏としてあらわれ、すべての世界を光明世界と化しているのです。一つの蓮華の中に、広大無辺な世界が秘められているのです。一つの花の中に、無限の広がりがある。私たちの広大無辺な大宇宙も、実は、蓮華の千葉の一片の上におさまっている小さな世界なのかもしれない。こういう不思議な世界観を「一即多・多即一」といいます。
光というものは無色透明です。一見、何もないように見えるのです。ところが物体に当たると、その物体の色に応じた色が反射されるそうです。いかなる色であっても、その色に応じた色を反射します。これは光にはすべての色の光線が入っているということなのです。何百何千の色の光線が、無色透明の光の中に畳み込まれているのです。これらも「一即多・多即一」かもしれません。
たとえば、一センチは、有限の長さです。ところで、この一センチを、分割していきます。半分に、四分の一に、八分の一にと・・・。すると、無限に小さく分割できるのです。これは、有限である一センチは、実は無限の部分から成り立っているということです。これも「一即多・多即一」かもしれません。
神様は、念の力で、霊界と物質界の二つの宇宙を創造した。では、天地が創造されるまでは、何があったのか?それまでは、「無」だったのです。ただ神様だけが存在されていた。神が、「無」より念の力によって天地を創造したのです。これが本当の「無一物中無尽蔵」です。「無」は、一見何もないけれど、実は、すべては、「無」より生まれ出てくるのです。これもまた、「一即多・多即一」です。「握一点、開無限」であります。
鈴木大拙(すずき・だいせつ 1870-1966)という禅の大家が「即非の論理」ということを説かれていたそうです。「一即多・多即一」も「即非の論理」なのです。「即非の論理」とは、「A即非A。是名A」、「Aは、すなわちAにあらず。これをAと名づく」という考え方です。ハッキリ言って、頭が割れそうです(^^;。これを、哲学では「絶対矛盾的自己同一」なんていいます。ハッキリ言って、脳みそが飛び散りそうです。
これは、「悟りの世界」の論理なのですね。「如来界の法則」なのです。だから、我々の常識的な判断では、理解しがたいものがあるのです。ハッキリ言って、「一即多・多即一」のことは、僕には、よく理解できていません(^^;。でも、ま、このブログは、あくまでも「正法神理」の紹介なので、一応、僕が考える「一即多・多即一」を書いておきたいと思います。参考程度に読み流して下さい。
僕は、「一即多・多即一」とは、「宇宙即我」の悟り、「自他一体の真理」なのだと思います。ま、これも「即非の論理」なのですが(^^;。・・・・・・つまり、こうです。「神」は、「一」つであります。そして、すべて(「多」)は、「神」のあらわれでもあります。大自然そのものが「神」なのです。だから、大自然の多様なあらわれの一つ一つを、「神」としてみることもできるのです。大自然のすべてをひっくるめて「神」だということもできます。
「神」は唯一だけれど、「神」はいたるところに存在している。あなたも「神」、私も「神」、山川草木すべてが「神」のあらわれ。「神」はすべて(「多」)であり、また、すべて(「多」)は「神」である。これが「一即多・多即一」の基本形ではないかと思うのです。
万生万物は、それぞれが個性的で、矛盾・対立しているけれど、それぞれが、神という統一体の必要不可欠部分であるという意味で、すべての存在を、「神」といってもよいのです。これが「自他一体の真理」です。こういうのが、おそらく「絶対矛盾的自己同一」という意味なのかなと思うのですが・・・・・・。よくわかっていません(^^;。ごめんなさい。
菩薩界より下の段階の人々は、まだ「光子体」に縛られていて、ある瞬間にA地点に存在していたら、それ以外のところに、同時に存在することができない、と感じているはずです。ところが如来界の人は、もはや「光子体」から自由になっているので、ある瞬間に、A地点にいながらも、同時にB地点にも、C地点にも存在することができて、それぞれの場所で、有意義に過ごすことができるらしいのです(^^;。
たとえば、アリストテレスがいるとします。この人は、神の七色光線の一つである青色光線のリーダー格です。非常に多くの仕事を持っております。仮に1,000個の仕事があったとします。するとアリストテレスは、1,000人のアリストテレスにわかれて、同時に、別々の場所で、その1,000個の仕事をやっていくことができるということなのです。
1,000人に分かれているけれど、それらは別々の人間ではなくて、それを一人として認識できるアリストテレスという統一人格があるのです。統一人格をもちながら、同一目的のためならば、千人にでも一万人にでも分光していくことができるのだそうです。これは、まさに「一即多・多即一」だと思います。如来界の人びとは、こういうことができる段階に入っているようです。蓮華蔵世界の毘盧遮那仏のようなものです。
京都学派の西田幾多郎(にしだ・きたろう 1870-1945)という哲学者が、華厳思想的な「一即多・多即一」を説いていたようです。西田哲学は、我々凡人には、非常に難解で、理解しがたいです(^^;。用語が難しい・・・・・・。ちなみに鈴木大拙と西田幾多郎は、親友です。
「黄金の法」によると、西田幾多郎の前世は、中国の宋代の禅僧、無門慧開(むもん・えかい 1183-1260)で、前々世は、ギリシャ哲学のアリストテレス(紀元前384-322)だということです。如来界の人ですね。この転生の過程を見ると、弁証法的な転生輪廻ですね(^^;。アリストテレスとして「正」の西洋哲学を説き、無門慧開としては「反」の東洋哲学、そして西田幾多郎として「合」の日本的「無」の哲学を築き上げたということです。
先ほどの「絶対矛盾的自己同一」。これは西田哲学の用語です。「即非の論理」です。これは要するに「一即多・多即一」だと思うのです。たとえば、「善の私」と「悪の私」が、私の中に、同時に、存在しているのです。私の中に、幾つもの矛盾が入り混じっているのです。論理的に考えた場合、矛盾というものは、許されないのですね。たとえば、「私は、T字路を右に曲がりながら、同時に左に曲がった」という場合、矛盾しているから、そんなことはあり得ないということになります。
右に曲がったなら、同時に、左には曲がれない。左に曲がったなら、同時に、右には曲がれない。これが論理です。右か左かどちらかでないと許してくれません(^^;。ところが、私の中の「善の私」と「悪の私」は、矛盾しているのに、同時に私の中に存在しています。これは、論理的にはありえないことなのですね。「善」と「悪」は、対立しています。矛盾しています。論理的に行くなら、私が、善なら、私は悪ではない。私が悪なら、私は善でない。このどちらかになるはずです。
しかし、実際は、私という存在は、善と悪の矛盾を抱え込みながらも統一人格を維持しているのであります。AとBが矛盾していても、矛盾したままで同一性を保つことができるのですね。矛盾を無理やりに排除する必要はないのです。矛盾のままで受け入れることもできるのです。常に、どちらか一つを選ぶ必要はないのです。よく、論理的に生きようとして、すべての矛盾を排除しようとして挫折していく人がいます。当然なのです。この世の矛盾のすべてを解消することなどできないからです。
神様の創られた大宇宙を見てください。ものすごくバラエティーに富んでいるではないですか。神様自体が「絶対矛盾的自己同一」なのです。矛盾対立する色んなものすべてをひっくるめて、神様の内部に存在しています。矛盾していたら、片方が真実で、もう一方が偽りであって、偽りは排除しなければならない、という考え方は、あまりにも狭量で、性急であります。
矛盾対立を、弁証法的に統一・止揚し、発展していくのが、神様のお考えだ思うのですが、矛盾を排除せずに、矛盾のままで生かして行く、こういう方向性も「あり」だと思うのです。たとえば、キリスト者と仏教者は、対立することが多いです。だから、通常は、キリスト者は、仏教を排除して、仏教者は、キリスト教を排除する。それが筋といえば筋なのですが、キリスト教も仏教も取り入れて、両方を生かして行く道もあるのですね。
たとえば、半分腐ったリンゴ。腐っていない部分は、美味しくいただけばよいのです。心の狭い人は、少しでも腐っていたら、腐ったりんごとして、全部捨ててしまう。これはもったいない。 たとえば、ナポレオンという人。この人には、素晴らしい面と、素晴らしくない面がある。心が狭い人は、ナポレオンには、素晴らしくない面があるから、ダメだと切り捨ててしまう。それよりも、素晴らしい面を認め、それを参考にすればいいのですよね。また、悪い面も、反面教師として学びの材料となるのです。一から十まで、完璧な人間などいないです。少しでも傷があれば、許されないのなら、誰も生きていくことなどできません。 このように、矛盾のままに受け入れていくことも、一つの修行ですね。
またまた話がそれました(^^;。
とにかく、「一即多・多即一」が、「如来界の法則」であり、ゆえに、如来界においては「絶対矛盾的自己同一」が可能であり、「即非の論理」が通用するらしいのであります。それを、凡夫である我々が実感することは、非常に難しいのでありますが、建設的に利用できるところは、利用していくべきだと思います。ちなみに「神との対話」で、「神聖なる二分法」という教えがありますが、似たような考え方だと思います。
太陽界
さて、如来界にも、例の如く、段階があります。一番下が、「梵天界」の如来界側の部分です(※梵天界は、菩薩界と如来界にまたがっている)。ここに約40名。その上が、「亜神霊界」で、約120名。その上が、「光神霊界」で、約280名。そして八次元最上段階は「太陽界」といって、約20名。
太陽界の住人には、「神格」が与えられているといいます。もう人間的な修行では、到達することができない段階ですね。じゃ、どうすれば到達できるのか?・・・・・・。
ま、そういうことで悩む前に、菩薩の段階を目指せということでしょうか(^^;。
彼らは、かつては、根本神的な存在として考えられていたのです。今は、霊界の次元構造が明らかになってきて、九次元の大如来も、人間であることがわかってきました。しかし、昔は、太陽界クラスの住人は、「神」そのものだと思われていたようです。たとえば、天之御中主之神が、人間であるとは、誰も思っていなかったのですね。ところが、「霊界通信」によって、はじめて人格神であることがわかってきたのです。それほど高い霊界なのです。太陽界以上の世界は、神秘のベールに包まれていた霊界です。この世界には、どういった人びとがいるのでしょうか?
20名ほどだそうです。
「太陽の法」で紹介されているのは、こんな感じです。あと4、5名おられるということです。おそらく、旧約のダニエルとかエレミヤとか、あるいは聖徳太子、アモン、ピタゴラスあたりではないかと考えらます。ま、これは興味本位です。すみません。
九次元の悟り
①の「対機説法(随機説法)」というのは、相手に合わせて法を説く、相手を見て法を説くということです。「応病与薬」です。病人の症状に応じて薬を与えるということです。九次元の大如来は、いかなる人に対しても、もっとも適切な教えを説くことができるのです。オールマイティーです。なぜか?それは、すべてを知り尽くしているからなのです。彼らが、この地球系霊団草創期のメンバーであり、彼らが、人類進化の計画を遂行してきたからです。だから、地球人類のことならば、すべてのことがわかるのですね。すべての人々に対してもっとも適切なアドバイスをできるのです。
②の「創世記の悟り」、これは、彼らの過去世の記憶をひも解くことで、わかるのです。「悟り」の深さによって、よみがえってくる過去世の記憶に差が出てきます。前世だけしかわからないという人もいれば、一万二千年前の過去世の記憶までよみがえる人もいるのです。たとえば、一万二千年前の過去世というのは、平均400年に一度生まれ変わったとして、30回分の人生の記憶が、全部よみがえって来るのです。
九次元の悟りになってくると、何十億年も昔のことまでわかるそうです。だから、当然、創世記のこと、宇宙の成り立ち、人類の起源等、すべて理解しているのです。ただ、それをすべて、地上の人びとに説いたところで、理解してもらえない。だから、理解される範囲で説かれるのですね。バイブルの創世記なども、当時の人間が、理解できる範囲で書かれているということです。実際は、人類の起源は、もっともっと古いのです。
お釈迦様の悟りと、お釈迦様が説かれた教えというのは、まったく別ものなのですね。菩提樹の下でお釈迦様が悟った内容は、「華厳経」の内容に近かったはずだといわれています。光一元の悟りですね。しかし、それは、当時の地上の人びとに伝えたところで、理解してもらえるような内容ではなかったということです。だから伝説では、「華厳経」は、竜宮界に隠されたということです。そして、六百年ぐらい経ってから、そろそろ地上の人々にも理解できるかもしれないということで、竜樹という人が、その一部を地上に引っ張り出してきた。それが「華厳経」だということです。
このように仏教というのは、原始仏教、小乗仏教、大乗仏教という流れで、段階的に、教えを深めていったようです(※というか、ある部分で深化し、ある部分で堕落したというべきか(^^;2009.3.10追記)。
また、アカシック・レコードを読み取ることで、過去・現在・未来のすべてを知ることができるそうです。未来に関しては、現時点では、おそらく、こうなるであろうという記録だと思います。これは随時、修正されていくのではないかなと思います(よくわかりません(^^;)。アカシック・レコードも、やはり「悟りの段階」によって、見え方が違うようです。高い悟りの人ほど、より正確に解読することができるということです。
たとえば、古代の書物が発見されたとします。その書物の内容を知るためには、その古代語が読めなければ無理です。古代語の理解の程度に応じて、その書物の内容が理解できるということなのです。アカシック・レコードの解読も同じことなのです。
③の「多次元世界の法則」とは、「縁起の理法」や「循環の法則」などの、「正法神理」ですね。つまり実在界の基準や法則を、熟知していないと、正しい法を説くことができないのであります。生半可な悟りで、救世主を気取って、いい加減なあの世の知識で、人びとを惑わすことは、大変な罪なのです。
さて、九次元世界での救世主たちの役割分担について触れておきます。 括弧内は、「神の七色光線」の担当の色です。
これは1986年の時点での役割です。その後、変動あり、と思われる(^^;。 (← 2009.3.11 この部分、若干、表現を変えました。) Comments (4)
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