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夢を描け 00122>メインページへ 20060508 00122 夢を描け
ほんとうの自分自身とは何か
にせものの自分を知るためには、モノサシが必要です。基準が必要なのです。そのモノサシが「神理知識」です。むかし、狼に育てられた人間の女の子が、発見されました。その女の子は、結局、人間社会に適応することができませんでした。狼は、人間の子供を、人間らしく育てることができないのです。人間は、みな神の子ですが、それは、正しい教育によって、引き出されてくるものだということです。
よく、「心の奥に、般若の知恵が存在するのだから、外から知識を仕入れる必要などない」、という極端な意見をいう人がいます。しかし、そうではないのですね。やはり、最低限の正しい教育が必要なのです。「悟り」を求めるのならば、まず、「ほんとうの自分」と「にせものの自分」を見分けるだけの、最低限の「神理知識」を学ぶ必要があるのです。そして、「にせものの自分」を切り捨てていく必要があるのです。
「にせものの自分」とは、煩悩に翻弄されている自分です。代表的な煩悩をあげておきましょう。
「煩悩」とは、五官(※肉体)をつうじて起こる「執着」であります。そして「煩悩」は、「苦しみ」を生み出していきます。つまり「にせものの自分」とは、物質の世界に「執着」する自分のことであります。この「執着」を、いかにして断ってゆくか。これが問題なのです。
情熱を燃やせ
人は、なぜ、執着するのか?それは、要するに「神理知識」というモノサシがないからです。物質こそが、すべてだと思っているからです。肉体の快楽こそが「幸福感」の源であると思っているのです。「神理知識」を知らない人にとっては、五官(※眼・耳・鼻・舌・身)で感じられる快楽こそが、真実であり、生きる意味になってしまっているのです。肉体的な快楽を求めることだけが、目的になってしまっている。だから執着する。
しかし、執着すればするほど、苦しくなっていくのです。塩水では、のどの渇きを癒すことができないのです。物質をいくら集めてみても、うまいものをどれだけ食べてみても、大統領になったとしても、決して満足することはないのであります。もっと欲しくなる。そして、また苦労して求める。その繰り返しです。それは、「にせものの自分」が、煩悩に振り回されている姿なのです。そこから逃れるには、執着を断つことです。
執着を断つためには、何が本当のことなのかを知ることです。何が塩水で、何が真水なのか?これを知ることです。そのモノサシが「神理知識」なのです。つまり、霊的世界観を理解することが大切なのです。私たちの本質が「霊」であること。この地上とは、魂の修行場に過ぎず、私たちの本来の「すみか」は、あの世(霊界)にあるということ。私たちが、この世とあの世を、転生輪廻する存在だということ。こうした、神理知識、霊的世界観を知ることが大切なのです。
つまり、この世のものを、どれだけ貯めこんだとしても、あの世にもって還ることができないということを知る必要があるのです。肉体が欲するものは、すべて、この世的なものです。それを、どれだけかき集めたところで、肉体は、永遠に満足できません。それは塩水で、ますます、のどが乾いてゆくのと同じです。そして、すべての富を手に入れたとしても、最後には、死が待ち受けているのです。あの世には、この世の地位も名誉も富も、何一つもって還ることはできません。
あの世では、この世的な栄光は、一切通用しません。この世で、社長だったとか、金持ちだったとか、有名人だったとか、一切関係ない。あの世での、価値基準は、「心」だけです。それ以外に何ひとつありません。心の美しさ、清らかさ、豊かさ、これが、あの世での、唯一の価値基準となるのです。人間は、心を磨くために、この世にやって来ているのです。お金儲けのためにやってきたのではないのですね。
本来の目的である「魂修行」をほったらかしにして、自己保存・自我我欲のままに生きて、富と名声を手に入れたとしても、何の意味もない。この世で栄華を極めても、地獄に落ちてしまったら、何にもならないのです。この世的な執着を断ち、神様がほめて下さるような心をつくることです。間違ったものへの執着を、正しい目的に向う情熱に切り変えていくことです。私たちは、その心だけを、あの世にもって還ることができるのですから。
「ほんとうの自分」とは、「心」だということです。肉体は、仮の宿です。ほんとうに大切にしなければならないのは「心」です。そしてこの「心」を知り尽くすことが「悟り」だということなのです。ただそれは一朝一夕にできるものではありません。段階を踏んでいく必要がある。第一段階は、「ほんとうの自分」とは肉体ではなく、霊である、魂である、心である、ということを知るところからはじまるのです。
反省と進歩
では、神様がほめてくれるような心になるためには、どうすればよいのでしょうか。 その答えは、「八正道の生活」と「愛の実践」であります。この二刀流で、人生の日々の勝負に勝利していくことです。八正道も愛行も、日々の生活のなかで実践していくものなのです。
八正道とは、人間完成への道であり、どちらかというと、小乗的だといわれています。でも、自己確立すらできていない人が、「愛の実践」というのは、バカげているのですね。まず、八正道で、己の心を、そこそこ磨く。「自己反省」によって、心を浄化することが大切です。しかし、「反省」に傾きすぎると、自己卑下におちいったり、小さくまとまってしまったりして、それで終わってしまう危険性があるのです。
はやり、魂の「進歩」を感じてこそ、生きる勇気も湧いてくるものです。進歩とは、「大調和」に向って進むことです。つまり「愛の実践」「愛行」であります。愛は、この世の光となって、調和を生み出してゆくのです。
誰かのために何かしてあげる。困っている人に手を差し伸べる。こうした行為を重ねていくうちに、ほんとうの幸せとは、誰かに何かしてもらうことで得られるのではなく、人にやさしくすること自体が、幸せであることに気づいて行くといいます。幸福の秘訣とは、人にやさしくすることなのです。この日々の「愛行」の積み重ねこそが、「大調和」への道です。
煌きの瞬間
確かに「煌きの瞬間」というのは美しいものです。しかし、それは、流れ星のような儚いものであってはなりません。燃え尽きる前に輝きを増すというロウソクの炎であってはならないのです。人生の煌きとは、生まれ変わりの瞬間であります。
イエス様は言いました。 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」(ヨハネ3.3)と。これは、言い換えるならば、悟りの瞬間のことだと思うのです。
人間の本質が、肉体ではなく、霊であることを悟る瞬間、それは生まれ変わりの瞬間なのです。唯物思想の呪縛から解き放たれ、霊的世界に超入する時、人は、肉体を持ったままで、新たに生まれ変わるのです。これは煌きの瞬間といえると思います。
ものごとが変容していく時には、シンギュラー・ポイントというものがあって、その地点を越えると、変化のスピードが激変して、いっきに移り変わっていきます。この急激な変化が「煌き」なのです。
たとえば、風邪などは、治る前に、容態が一時的に悪化するような場合があります。しかし、それを超えると、憑き物が落ちたように、好転して行きます。人生もまた同様です。もっとも苦しい時が、もっとも神様に近づいている時です。夜明け前が、もっとも闇が深いのです。苦しみの底をぶち破った時、運命がひらけ、そこから神の光があふれ出てくるものなのです。
人生の煌きとは、ある日突然、「棚からぼた餅」式にやってくるものではないのですね。日々の努力の積み重ねが報われる瞬間、それが、人生の煌きです。大学生をめざし、コツコツ勉強して、合格発表日のときに、自分の受験番号を確認した瞬間です。悪しき運命に屈せずに、神を信じ、まっくらなトンネルを歩きつづけ、いつか、そのトンネルを抜け出て、神に出会う瞬間です。
「反省」と「愛行」を地道に積み重ねていく時、いつか人は「煌きの瞬間」に出会うのです。その時にすべての苦労は報われるのです。この世的な快楽のために日々を浪費する人には、残念ながら、「煌きの瞬間」が訪れることはないのです。
失恋や病気などで大きな挫折感を体験することが、回心のきっかけとなる場合があります。しかし、こうした挫折は、あくまでもきっかけであります。挫折したからといって、100%信仰に目覚めるとは限らないのです。その人の心がけ次第です。挫折して、そのまま最後まで失意の日々を送り続ける人もいれば、心のあり方を反省して、挫折をきっかけに、神に出会う人もいる。信仰に目覚める瞬間、これも「煌きの瞬間」です。
人生二度なし
人間は、生まれ変わっていく存在です。たとえ、今世、失敗の人生を送ってしまったとしても、また、一からやり直して行くことができるのです。 とはいえ、この瞬間は、二度と戻ってこないことも、また、真理であります。人生二度なしです。今世は今世かぎりです。今という時間は、二度と戻ってこない、かけがえのない瞬間なのです。
「やり直しがきくから」といって、おろそかにしてよいものでは、決してないのです。投げてしまってよいものではないのです。たとえ、今世の大半を、唯物的に過ごしてきて、いまさら、どうなるものでないと思えても、もし今、目覚めたのであるならば、残された時間を大切に使うべきなのです。ゲームのように、簡単にリセットしてしまってはならないのです。
魂の進歩は、自らが歩いた距離そのものです。あきらめたら、そこでストップです。次、生まれ変わった時は、結局、前回、あきらめてしまったその場所から再スタートすることになるのです。それならば、残された時間が、たとえ、わずか一年であったとしても、その時間を無駄にせず、日々の進歩を積み重ねていきたいものです。
仮に、明日、死ぬとして、どうでしょうか?何を思うでしょうか?こうした発想の転換によって、今、己のなすべきことが見えてくる場合があるのです。やり残していることが、あまりにも多くて、愕然とするはずです。やり残していることの多くは、おそらく、やろうと思えばいつでもできることだと思います。ただ、「明日があるさ」ということで、先延ばしにしているだけです。
しかし、明日が100%やってくるという保証はないのです。今晩、ぽっくり死んでしまうこともあるのです。もし、そうなってしまったら、悔やんでも、後の祭りです。もうどうしようもありません。そうした後悔をできるかぎり少なくしていくためには、今という時間を大切にして、今できることを精いっぱいやっていくことではないかと思います。
「一日一生」という考え方ですね。なかなかできるものではありません。しかし、本当に大切なことです。明日、ガンを宣告されるかもしれません。明日、交通事故で再起不能になるかもしれません。一寸先は闇なのです。だから、時々は、そうした視点で、己の人生を振り返ることが大切だと思います。
夢を描こう
偉大な人物について調べてみると、ひとつの共通点を発見します。それは、彼らには大きな夢があったということです。何の目標もなく、のんべんだらりと生きてきて、ある日突然、偉大な人物になったという人は、一人もいないのです。彼ら皆、大きな夢を描き、それに向って前進してきた人たちなのです。
しかし、夢を描くときに、注意すべき点があります。
こうした点について注意して夢を描く必要があります。そして、この三点をクリアしているならば、実現に向けて、バリバリ頑張っていいと思うのです。その夢を追い求める過程で、周囲が不幸になったり、自分がだめになっていったりするようならば、頑張れば頑張るほど悲劇を生み出します。そんな夢はダメなのですね。
この三点をクリアしているならば、守護・指導霊にも、どんどんお願いしていっていいと思います。正しい祈りならば、守護・指導霊が動いてくれるはずです。
祈りの心構えを簡単にまとめておきます。
思いつくままに書き並べました(^^;。重複している部分や矛盾するような部分もあるのですが、ま、こうした心構えをもっておけば、道を踏み外すことはないのではないかと思います。
自己実現の秘訣は、夢を具体化、ビジョン化して、そのビジョンを持続すること。そして夢の実現を強く念じ、それが、100%実現すると信じきることです。
「思考は現実化する」という法則があるのです。この世は、心の世界のあらわれなのです。まず、心に原型ができて、それが物質世界に顕現化していくのです。だから、心の世界で、夢を具体的に描き、そのビジョンを持続させ、やるべきことをやっていると、あの世の世界で守護・指導霊の応援があって、ある時、思いもよらぬ方法で実現していくのです。
勇気を養おう
夢を実現するには、「勇気」と「努力」と「知恵」が大切です。なぜなら、夢は、降ってわいてくるものではないからです。夢の実現までには、幾つもの困難を乗り越えてゆかなければならないでしょう。運命の森を切り拓いていくのは、自分自身なのですね。誰かが、道を切り拓いてくれるものではないのです。
大きな困難が目の前に立ちはだかったとき、どうしても足がすくむものです。恐ろしくて尻尾を巻いて、逃げ出したくなります。そんなときのために、神様は、目の前の困難という大木を切り倒していくための「勇気」の鉞を、私たち一人ひとりにお与えくださっているのだそうです。なかなかそれに気づくのは難しいと思います。僕自身が弱虫なので、偉そうなことが言えませんが、一人ひとりに「勇気」という鉞が与えられていることは間違いないと思うのです。
もし、どうしても「勇気」がわいてこない時は、神様にお祈りしたり、光明思想系統の本を、繰り返し繰り返し、読むことだと思います。光の言葉を、心のなかに、これでもか、これでもかというぐらいに注入していく(^^;。あるいは仲間と支えあい、励ましあって行くことですね。
「神よ、私に善き事に対して努力する勇気を与えたまえ」、これは、谷口雅春先生の祈りの言葉です。こうした内容を日々真剣に祈れば、きっと守護・指導霊が力を与えてくださると思います。
あるいは、「私は勇気そのものである」といった感じの信念の言葉を、絶えず繰り返すことで、潜在意識にその言葉を刻み込んでいくのもよいと思います。ま、あの手この手で、「勇気」を養っていくことが大切ですね。頑張りましょう。
くじけそうなとき、この「勇気」をふりしぼって、運命の糸を断ち切る努力を続けてゆく。「自力あっての他力」なのです。「勇気」をふりしぼって、一歩前進したときに、守護・指導霊も力をかすことができるのです。神様は、おびえている私たちを、どんな時もやさしく包んでいてくださると思いますが、神様が、私たちの代わりに前進することはできないのです。
私たちは、私たち自身で前進していくために、この世に生まれてきたのですから、神様が私たちの代わりに前進してしまえば、生まれてきた意味がなくなってしまうのですね。
持続力を養おう
特に「最後の5分間」を粘り抜くことが大切だといいます。「最後の5分間」で、投げ出してしまえば、99%まで成功しているのに、結局は失敗に終わってしまいます。しかし、粘り抜くことは、ほんとうに難しいです。「あきらめが肝心」という言葉もあります(^^;。あと5分間頑張れば、確実に成功するとわかっているならば、誰だって、ラストの5分を耐える事ができると思います。
しかし、もうフラフラになっているのに、あと、どれぐらい頑張ったらいいのかわからないときに、粘り抜くのは、ほんとうに難しい。無駄な努力だと考えて、スパッとあきらめてしまうことが正解の場合もあるだろうし、あと少し頑張っていたら成功していた場合もあるだろう。その見極めが、ほんとうに難しい。答えはないのですね。成功も失敗も結果論です。こうした迷いのなかを通過しているときに、魂は、大いに磨かれることだろうと思います。
もうひとつ、とても苦しいのは、ただひたすら耐えるしかないという時期です。自分の努力では、どうにもならない局面というのがあるのです。たとえば、とんでもない上司の下についた時。これは苦しいですね(^^;。でも諸事情により会社を辞めることもできない。つらい・・・・・・。ひたすら耐えるしかない。こちらが変われば相手も変わるというけれど・・・・・・。現実は厳しいものです。こういう時期も魂の足腰が鍛えられます。
夢を実現させていくためには、暗く長いトンネルを潜り抜けなければならない時もあるのです。そう簡単には成功できないのですね。理論は簡単です。
言葉にすれば簡単です。誰でもできそうです。しかし、実際に成功できる人は、ホンの一部なのです。
ハッキリ言うならば、大きな成功をおさめるような人というのは、もともと、それなりの大きな器の人間なのです。そういう人は、「成功の法則」など学ばなくても、自分自身の力で成功していきます。小さな器の人が、「成功の法則」を学んだところで、大きな成功をおさめることはできないのです。人には「分際」というものがあるのです。だから、その人に適したサイズの夢を描くことが大切なのですね。
大きな夢ほど実現しやすいなどといいますが、そんなのはウソです。たとえば、全人類がみな世界一の金持ちを夢見たら、全員なれるでしょうか?この世で1,000歳まで生きる夢を描いて、それが実現するでしょうか?身長160センチの40歳の人が、身長世界一を目標にして、それが実現できるでしょうか?できないのですね。
「成功」と「幸福」というのは根本的に違うのです。「幸福」になりたいから「成功」を目指すのです。「成功」したいから「幸福」を目指すとは、普通いいません。つまり、人間が、本当に求めているのは「幸福」だということなのです。「成功」したら「幸福」なれると思っているから、人は「成功」を求めるのです。しかし、「成功」して「不幸」になる人は、いくらでもいるのです。
「成功」というものは、必ずしも「幸福」に結びつかないのです。しかし、「成功」しなくても「幸福」なることはできるのです。現代は「成功」という言葉に重きを置き過ぎていて、そればかり追い求めているようです。だから、競争がどんどん激化していく。そして、人間を「勝ち組み」「負け組み」に分けて、喜んでいる。「勝ち組み」は、成功者のグループでしょうが、さて、「幸福」な人が、どれぐらいいるのでしょうか?
生き馬の目を抜くような過激な競争の中で、家庭を顧みることもなく、始終ピリピリしながら生きるという生き方に、一体どれぐらいの人が幸せを感じているというのでしょうか。
僕は、これからの時代、「成功」を夢に描くよりも、「幸福」を夢に描くほうがよいと思います。この夢は、絶対に実現可能だからです。この夢は、他者と競争して勝ちあがっていく必要もありません。己の心のあり方がすべてだからです。美しい花々や、海の雄大さや、星空の美しさに感動できる人は、本当に幸せな人だと思います。日々過酷な競争に明け暮れている成功者たちには、大自然を優雅に楽しむ余裕などまったくないのです。一分一秒でも戦線から離脱したら「負け組み」に転落しますから(^^;。
家庭サービスの日、ディズニーランドで遊びまくる。ミッキーマウスと握手して大喜びする。本当に楽しいです。子供達も大はしゃぎです。最高の幸せだと思います。しかし成功者たちには、休日などありません。休日こそ競争相手を出し抜くチャンスです。一分一秒も無駄にできません。家族サービス?そんなものは「負け組み」の時間割だ。エリートには必要ない・・・。そして、家庭は崩壊していきます。悲しいことです。
大袈裟に書きましたが、現代の成功者、「勝ち組み」の人びとは、もしかすると「幸福」を犠牲にして、「成功」を手に入れているのではないかなと感じるのです。「負け組み」の僕が、「勝ち組み」を憐れんだりすると、どうも、負け惜しみっぽくって笑ってしまうのですが(^^;。
ま、最後は、消極的な意見になりましたが、とにかく、こうした観点から、「成功」と「幸福」というものを、もう一度見直してみることが必要ではないかと思っています。
以上で、一応、「太陽の法」の紹介は、終了しました。言葉足らずの部分、噛み砕けていない部分、まと外れのたとえ話・・・・・・、色々と反省点が多いのですが、最後までやったという達成感を感じています。
神理の基本三部作の残りの「黄金の法」と「永遠の法」の紹介に関しては、今の時点では、考えていません。
「心行」「正心法語」「太陽の法」という流れできましたが、これで、一応「正法神理」の骨格というか、概略を紹介することができたと思います。あとは各論に入ってゆくことになるのですが、今のところ、どこから手をつけていけばよいのか迷っている状態です(^^;。
「正法神理の紹介」コーナーは、このブログの核の部分なので、できるだけ原点に忠実にやってきたつもりですが、やっぱり、しんどいですね(^^;。勉強不足を痛感しました。だから、しばらくは、もっと自分の意見を自由に書いてみたいかなって思っています。もちろん、己の分際の範囲内でですが・・・・・・。
書いていて痛切に思ったのは、「言うは易く行うは難し」ということ。それと、実感していないことについて、説明することの空しさ。この二つの思いに苦しみました(^^;。わかっていない人間が、「正法神理の紹介」なんて無意味じゃないかなあ、という思いが強かったです。何度も、止めた方がいいかなって思ったのですが、「ま、でもブログじゃん」ってことで、好きにやってきました。
今はそれなりに達成感があるし、よかったのかなとも思い始めています。 正法の教えを、日々の生活の中で、どう生かしていくのか?これを真剣に自分自身に問い掛ける日々だったと思います。そして、己のダメさ加減を、あまりにも深く実感してしまい、ちょっとシャレにならないって感じです(^^;。ま、それも有意義なことですからね。
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